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エピソード

077_03

竹ノ下の戦い(足利尊氏 VS 新田義貞)
 1335(建武2)年11月18日、足利尊氏(31歳)は、新田義貞の討伐を名目に挙兵しました。
 11月19日、後醍醐天皇は、足利尊氏追討の命令を出しました。
 12月、追討大将軍の新田義貞(34歳)は、錦の御旗を立てて、関東に下向してきました。義貞軍が三条河原に来た時、突風で、錦の御旗の月日の紋が落ちという不吉な出来事がありました。
 足利尊氏は、弟足利直義護良親王を殺害したというショックと、朝敵になることを嫌って、出家して恭順の意をあらわそうと、建長寺にこもりました。そんな関係で、足利軍の指揮を弟直義が執りました。
 新田義貞の軍は、足利直義が率いる軍を矢矧(岡崎市)、鷺坂(磐田市匂坂)、手越河原(安倍川)、そして国府(三島市)で撃破し、箱根の峠まで追い詰めました。その途中、有力武将の佐々木道誉が寝返ってしまいました。そこで、直義は、偽の綸旨(足利の者が降伏しても、仏門に入っても、許すことなく、一人残らず殺せ)を作って、足利尊氏に見せました。
 12月8日、偽の綸旨を見た足利尊氏は、足利直義に、新田義貞軍の布陣先を尋ねました。国府と聞いた尊氏は、義貞軍と直義軍が対峙している箱根峠には向かわず、義貞の弟脇谷義助がいる竹ノ下へと向かいました。尊氏の参軍で、足利方の士気は上がり、大友貞載塩冶高貞らが足利方に寝返りました。
 また、新田方に寝返った佐々木道誉が、新田軍の中心部で足利方に本返りしました。その勢いに、脇谷義助が後退を始めると、新田本隊は雪崩を打って、京都へ敗走しました。これを竹ノ下の戦いといいます。
 足利尊氏は、陸奥将軍府北畠顕家が鎌倉に進軍すると、挟み撃ちになることを恐れ、新田義貞を追撃して、一気に京都に攻め上ることにしました。
 12月10日、北畠顕家(18歳)は、足利尊氏討伐の勅命を受け、出撃しました。
戦争と指揮官の力量
 新田義貞と足利直義では、義貞の方が「戦さ上手」だと分かります。足利尊氏と義貞では、尊氏の方が「戦さ上手」だと分かります。誰を指揮官にするかということが、どんなに大切なことかよく分かりました。
 戦いですから、指揮官だけでなく、士気(気持ち、精神力)も重要な要素だということがよく分かります。歴史は個人ではどうすることもできない部分と、個人の力量で左右される部分があるんだということも分かりました。「歴史における個人の役割」というテーマが、古くて新しいのも、このためなんですね。
 ここで登場した人物で、最も若いのが北畠顕家で、18歳です。義貞が34歳、尊氏が31歳です。若いです。歴史が動く時は、若い人が活躍しています。
 今の日本は、世紀末ではなく、21世紀初です。しかし、経済、政治、教育、環境などどれをとっても、世紀末です。若い芽が徐々にではありますが、育ってきていますね。期待しましょう!!
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。

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