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エピソード

077_04

多々良浜の戦い(足利尊氏 VS 楠木正成、足利尊氏 VS 菊地武敏)
 1336(建武3)年1月、後醍醐天皇(49歳)は、楠木正成らの勧めで、比叡山の麓の東坂本へ動座しました。
 1月10日、足利尊氏(32歳)は、大軍を率いて、平穏に入洛し、京都を占領しました。
 1月12日、北畠顕家(19歳)は、東坂本に到着しました。これをきっかけに、官軍の反撃が始まりました。他方、尊氏の大軍は食糧難に苦しみます。尊氏の大軍を、無抵抗で京都に入れさせたのは、楠木正成(42歳)の作戦だったのです。 
 2月、足利尊氏は、丹波篠村に退き、三草(兵庫県加東郡社町)を越えて、室津泊(兵庫県揖保郡御津町)に辿り着きました。尊氏は、室津の見性寺で、「敗れた原因は朝敵にあり」という赤松円心の助言を受け入れました。
 2月12日、足利尊氏は、持明院統光厳上皇に院宣を要請して、海路九州へ敗走しました。備後の鞆津で光厳上皇から院宣を受けました。その内容は「武力をもって奪った大覚寺統の地位は認められない。これを誅伐して、天下太平の来たらん日を一日も早かれと。汝の忠誠に待つ」というものでした。
 2月29日、後醍醐天皇は、京都に帰り、年号を延元(南朝)と改めました。
 2月29日、九州の菊地武敏は、6万の大軍を率いて多々良浜の南に陣を布きました。それを見て、足利尊氏は、赤間ケ関(山口県下関市)より筑前の香椎宮に陣を布きました。その数1000騎でした。
 足利尊氏は、宗像神社の使いの者と会見しました。使者は、「わが神社には、後醍醐天皇による不平等な恩賞で領地を失いました。足利方に出陣の命令を出せば、多数の兵が参集してくるでしょう」と申し出たのです。そこで、尊氏は、宗像神社に向かいました。
 次の日、小弐頼尚が敵陣を突破し、300の部下を率いて駆けつけました。
 3月2日、これに気をよくした足利直義は、菊池軍に向かっていきました。宗像神社の社殿の前を横切ろうとした時、一羽の烏が足利直義の甲に杉の小枝を落としました。直義軍は、これを神からの勝利のお告げと感じ、勇んで出陣していきました。 
 その時、突如、風が砂塵を巻き上げるほど、吹き荒れました。足利尊氏は、これを「神風」ととらえて、全軍を鼓舞して、総攻撃をかけました。菊地軍は、総崩れとなり、敗退しました。
 多々良浜の戦いは、奇跡の戦いとも言われています。
 4月3日、足利尊氏は、京都を目指して、船出しました。長門、周防、安芸、備前、備中など続々と参陣するものが増え、50万の大軍になったといいます。
 再び室津に上陸した足利尊氏は、室津の見性寺で、赤松円心に会って、今後の対応を話し合ったといいます。
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
室津と宗像神社
 姫路市の近くにある室津は、「室」(家)の中にあるような穏やかな「津」(港)という意味で、平安時代から有名な泊として紹介されています。
 法然が四国に流された時、遊女が嘆願したのも室津です。
 私のクラスに1人、恐い生徒がいました。今、彼はTVのプロデューサーになっています。私が「尊氏が室津で円心に出会った」というと、即座に、彼が「先生、室津のどこですか?」と聞いてくるのです。史料には「室津」とは書いてあっても、室津のどの建物かは、書いていません。そこで、実際に行って調べてみました。瀬戸内海と瓢箪の口で接し、その尻の部分が上陸部になります。見性寺へは歩いて1分ぐらいの近さです。
 ここには、大きな銀杏の木があって、樹液が女性の乳房ぐらに垂れているので、安産祈願の対象ともなっています。国指定重要文化財になっている毘沙門天立像もあります。
 宗像から来た、大学時代の友人がいます。彼がよく自慢するのが、宗像神社です。
 宗像神社は、九州と朝鮮半島を結ぶ玄界灘の真只中に浮かぶ沖の島にある沖津宮、海岸近くの大島にある中津宮、そして陸地の玄海町にある辺津宮の、三宮から成っています。つまり宗像神社は、この三宮の総称といえます。
 祭神は、須佐之男神の剣から生まれた宗像の三神です。宗像の三神を祀る神社は、安芸の宮島の厳島神社と大坂の住吉神社があります。
 宗像の三神は、筑紫から大陸への海域の安全を祈願する最高の守護神になっています。
 鎌倉時代、大宮司宗像氏実が、関東御家人になって武士化し、武力面での拠点でもありました。
 つまり、宗像神社は、宗教的にも、武力的にも、九州の拠点であり、そこが、尊氏に味方したことに意義があるといえます。
 家の近くを大切にする。友人を大切にする。やはり、日常生活を大切にすることが、智恵の源といえるのではないでしょうか。

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