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エピソード

077_05

湊川の戦い(足利尊氏 VS 楠木正成・新田義貞)
 1336(建武3)1月、足利尊氏(32歳)は、楠木正成の奇策と、北畠顕家の援軍により、敗走して、西国に逃げ落ちました。
 後醍醐天皇(49歳)は、公卿と共に、「今は何事かあるべきとて、悦び申されける」と喜び合いました。北畠顕家(18歳)は、「鎮守府大将軍」という肩書を与えられて、陸奥に帰っていきました。
 安心する公卿が多い中、楠木正成(43歳)は、「義貞を誅伐せられて、尊氏卿を召返されて、君臣和睦候へかし。御使に於ては、正成仕らむと申し上げたりければ、様々嘲弄どもありける」(南朝側の立場で書かれた『梅松論』)とビックリするような提案をしています。事態を理解できぬ公卿からは嘲笑され、この和平案は否決されました。
 2月、後醍醐天皇は、足利尊氏との戦いに凱旋した新田義貞(35歳)に、西征の勅命を出しました。しかし、新田義貞の出陣が遅れました。その理由は、新田義貞が寵姫の匂当の内侍との別れを惜しんだからだと、南朝側の『太平記』は書いています。
 当時の天皇や公卿には、世評とは違い、楠木正成より新田義貞を信任していたことが分かります。
 3月、新田義貞は、播磨国鵤荘(揖保郡太子町)の楽々山(立岡山)で、赤松軍を撃破しました。
 3月、新田義貞は、赤松円心(60歳)が立て籠もる白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町)の抵抗に会い、身動きが取れない状態でした。
 3月下旬、赤松円心は、足利尊氏に上洛を促す手紙を書いています。
 5月5日、足利尊氏は、備後の鞆津に上陸しました。軍議をひらき、水陸二方面作戦を採用しました。
 5月10日、足利尊氏を大将、高師直を副将にして、海路を進みました。他方、足利直義を大将、高師泰を副将にして、陸路を進みました。これを見て、新田義貞は、京都に援軍を要請しました。
 後醍醐天皇は、新田義貞からの使いにより、楠木正成に兵庫にいって、義貞と力を合わせて合戦せよと命じました。この時、正成は「足利尊氏の大軍とまともに合戦しては、必ず負けます。新田殿も京都にお呼びになり、主上も前の様に比叡山に臨幸していただきたい。尊氏を京都に引き入れ、兵糧攻めにすれば、朝敵を滅ぼすことができます」(「敵機に乗たる大勢に懸合て、尋常の如くに合戦を致候はゞ、御方決定打負候ぬと覚へ候なれば、新田殿をも只京都へ召候て、如前山門へ臨幸成候べし。…京都を攻て兵粮をつからかし候程ならば、敵は次第に疲て落下、…新田殿は山門より推寄られ、正成は搦手にて攻上候はゞ、朝敵を一戦に滅す事有ぬと覚候」)と必死で訴えました。
 しかし、公卿の結論は、「戦う前に帝都を捨て、1年に2度も比叡山に臨幸することは、帝位を軽視するのに似ている。すぐに兵庫へ下るべし」(未戦を成ざる前に、帝都を捨て、一年の内に二度まで山門へ臨幸ならん事、且は帝位を軽ずるに似り…只時を替へず、楠罷下るべし)というものでした。
 楠木正成は、「この上は何を言っても仕方がない」(「此上はさのみ異儀を申に及ばず」)と無念の言葉を飲み込みました。
 5月16日、楠木正成は、3000騎の内700騎を連れて、京都を出ました。桜井(奈良県桜井市)で、嫡子楠木正行(11歳)を河内に返します。名場面「桜井の別れ」です。この時、正成は、死を覚悟していたことが分かります。
 5月18日、陸路の足利直義軍が迫ると、三石城(岡山県三石町)を占拠していた新田義貞の弟脇屋義助は、退いて、義貞軍に合流しました。義貞は、白旗城の囲みを解いて、兵庫に退きました。 
 5月19日、足利尊氏は、再び室津に上陸し、見性寺で、赤松円心に会って、今後の対応を話し合ったといいます。軍船の数は、5000艘だったといいますから、室津は軍船で埋め尽くされたのでしょう。
 5月23日、足利尊氏は、室津で「よき順風」を待って、船出しました。
 5月24日、新田義貞軍は、兵庫で、楠木正成軍と合流しました。
 5月24日、足利尊氏の軍船は、播磨の大蔵谷(兵庫県明石市)の沖合いに停泊しました。尊氏は、既に到着していた足利直義と軍議を行い、25日に攻撃を開始すると決定しました。
 5月25日、軍が動きました。楠木正成軍は、会下山一帯の丘陵から夢野台に至る地域に陣を布きました。新田義貞の弟脇屋義助の軍は経ケ島大館氏明軍は燈籠堂の南の浜、義貞軍は和田岬に陣を布きました。
 午前10時、足利尊氏の弟足利直義軍は、須磨寺のある上野山から会下山に通ずる道を進撃して、楠木正成軍と正面から対峙しました。斯波高経軍は、鹿松峠から大日峠を越え、夢野台に出て、正成軍の右側面に迫りました。少弐頼尚の浜手軍は、海岸部を進撃して、駒ケ林の北端から新田義貞軍の側面に迫りました。
 細川定禅の水軍は、神戸の浜から上陸し、新田義貞軍の後方をかく乱する戦術をとりました。義貞軍は、退路を断たれることを恐れて、和田岬の陣を引き上げ、京都へ逃げ帰ってしまいました。
 5月25日午後5時、楠木正成軍は、16度の戦いで73騎になってしまいました。正成は、弟楠木正李に何か願い事はあるかと聞くと、正李は「七生まで只同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさやとこそ存候」と答え、「兄弟共に差違え、同枕に臥にけり」(『太平記』)。
 楠木正成の首は、京都の六条河原にさらされたが、足利尊氏は、白木の箱に入れ、丁重に、河内の遺族の元に送り返したといいます。 
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
苦言を呈する人がいるかどうか、人を計る物差しです。「桜井の別れ」
 私は、あまり、TVそのものも見ないし、ましてやNHKの大河ドラマなどの連続モノは見ません。ただ、過去にNHKの大河ドラマを見たのは、「忠臣蔵」関係と、「太平記」と、それに中村橋之助の演技が素晴らしかったので、ついつい見てしまったのが「毛利元就」です。
 NHKの大河ドラマの「太平記」を見た理由は、実は、南北朝時代や観応の擾乱のあたりが混沌としていて、生徒の説明に、いつも自信がなかったからです。今も、ここら当りは苦手です。
 特に印象に残っている部分は、武田鉄也扮する楠木正成が、口から泡を出しながら、京都で戦うべしと進言し、それが入れられないと、無念の表情をするところです。昨日のことのように、目に焼きついています。ストーリーもよかったが、名演技だったのだと思います。
 死地に赴く正成が、11歳の息子正行と分かれるシーンが、名場面「桜井の別れ」です。『太平記』には
「今生にて汝が顔を見ん事是を限りと思ふ也。正成已に討死すと聞なば、天下は必ず将軍の代に成ぬと心得べし」「お前は生き残って、天皇のために尽くせ」と言ったと、書かれています。
 同じく死地に赴く正成の心境を、北朝側の『梅松論』は「今度は君の戦必ず破るべし。人の心を以て、其事を計るに、…今度は正成、…軍勢を催すに、親類一族猶以て難渋の色あり。…天下君を背ける事明らけし。然る間、正成存命無益なり。最前(まっさき)に命を落すべし」と書いています。
 今に通ずる、非常に重要な内容です。現代語訳してみます。「今度は、後醍醐天皇のこの戦は、必ず負けるでしょう。人の心、つまり世論で、計ってみると…今度、私が軍を起こそうとしたら、親類や一族がなかなか賛成してくれませんでした(以前は協力してくれたのに…)。そのことから、世論は後醍醐天皇に背を向けていることははっきりしている。そうなれば、私は生きていても仕方がない。今度の戦いで、一番に命を落そうと思う」
 会社や家庭で、自分に苦言を呈する人がいるか、いないか。また、苦言を採用できる人物か、どうか。
 これが、その人の会社や家庭における立場を示しています。苦言を呈する人がいない人は、独裁的であって、将来に禍根を残す人です。苦言を採用できない人は、度量の狭い、ゴマスリしかできない人を周囲に侍らす人です。これが物差しです。
 次は落合直文氏が作詞した「青葉茂青葉茂れる桜井の」一節です。戦前、小学校唱歌としてよく歌われていたそうです。今、「この歌を知らない人が多い」と嘆く声を聞きます。
(1)「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下陰に駒とめて 
世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か」
(2)「正成涙を打ち払い 我子正行呼び寄せて 父は兵庫へ赴かん
彼方の浦にて討死せん いましはここまで来れども とくとく帰れ故郷へ」
(3)「父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人 いかで帰らん帰られん
この正行は年こそは 未だ若けれ諸共に 御供仕えん死出の旅」
(4)「いましをここより帰さんは わが私の為ならず 己れ討死為さんには
世は尊氏の儘ならん 早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国の為め」
(5)(6)は略
 (1)(2)(3)は親子の情が歌われており、特に違和感はありません。
 (4)は歴史事実とは異なった皇国史観で脚色されています。
 「いい歌は、時代を超えて、唄い継がれる」といいます。今、この歌が唄われないのは、それなりの理由があるのでしょう。

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