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北畠顕家の戦死(石津の戦い)と新田義貞の戦死(藤島の戦い) | |
1333(元弘3)年5月25日、後醍醐天皇は、光厳天皇(21)を廃位し、皇太子の康仁親王(父は邦良親王、祖父は後二条天皇)を廃太子としました。 | |
1 | 1336(建武3)年5月、京都に戻った新田義貞(35歳)は、後醍醐天皇を東坂本へ移しました。 6月7日、足利尊氏(32歳)は、持久戦法をとり、それに耐え切れなかった千種忠顕が戦死しました。 6月30日、名和長年は、完全に包囲されて戦死しました。 8月、足利尊氏が擁立した持明院統の豊仁親王(父は後伏見天皇、母は西園寺寧子、兄は光厳天皇)が立太子なく、即位して光明天皇となりました。時に16歳でした。この朝廷を北朝といいます。 10月、新田義貞が「義貞を逆賊にして見殺しにするのか」と激しく抗議しましたが、後醍醐天皇(49歳)は、それを振り切って、足利尊氏が待つ京都へ帰りました。 新田義貞は、恒良親王(父は後醍醐天皇)への譲位を条件に、後醍醐天皇の京都への環幸を認めました。 新田義貞は、神器の譲渡を受けた恒良親王(14歳)や尊良親王(24歳)と共に、敦賀の金ヶ崎城に入りました。しかし、後醍醐天皇は、恒良親王への譲位を無効と宣言します。 11月、後醍醐天皇は、花山院に幽閉され、光明天皇に正式に譲位して、上皇となりました。 12月、後醍醐天皇は、吉野に脱出しました。この朝廷を南朝といいます。これ以後の時代が、南北朝時代と言われています。 |
2 | 1337(建武4)年1月、後醍醐天皇は、新田義貞に綸旨を届けました。そこには、吉野の朝廷に、合流するようにと書いてありました。 3月、6万の高師泰軍は、頑丈な金ヶ崎城を攻めあぐんで、気比神社の氏子の殺害を命じました。この噂に、村人は殺害を恐れて、次々に城内に逃げ込みました。実はこれが高師泰の作戦だったのです。 高師泰軍の兵糧攻め作戦により、城内の食糧が尽き果てました。新田義貞は、子の新田義顕(20歳)に留守中の総大将を任命し、城を脱出して、援軍を求めるため、杣山城に向かいました。 3月6日、高師泰軍は、金ヶ崎城を総攻撃しました。新田義顕も尊良親王も自害しました。城主の気比氏治も自害しました。恒良親王は、小舟に身を潜めて、蕉木浦にたどり着きましたが、捕らえられ、毒殺されたということです。これを金ヶ崎の戦いといいます。 3月7日、新田義貞は、無事に杣山城に到着しました。 8月、北畠顕家(20歳)は、霊山城(福島県伊達郡)を出発しました。 12月、北畠顕家軍は、鎌倉に侵入しました。斯波家長は戦死し、上杉重能は足利尊氏の子足利義詮(8歳)を奉じて三河に敗走しました。 |
3 | 1338(建武5)年1月、北畠顕家は、鎌倉を発ち、青野ヶ原で、高師冬(高師直・高師泰の従兄弟)を破り、破竹の勢いで、吉野を目ざしました。 2月6日、高師泰は、高師冬・細川頼春・佐々木道誉らと5万の兵を率いて、関ヶ原に布陣しました。これを知った北畠顕家は、決戦を避け、伊勢から伊賀を越えて吉野への道を選択しました。 逆にそのルートを察知した高師直は、桃井直常・桃井直信兄弟を奈良の般若寺に派遣しました。 2月28日、疲れきっていた北畠顕家軍は、大敗し、生き残った者は、河内に逃げ落ちました。 3月8日、北畠顕家は、摂津の天王寺で、足利方の細川軍を撃破しました。 3月末、北畠顕家は、新手の大軍に、堺の南にある石津川流域の本郷観音寺に退きました。高師直軍は、兵糧攻め作戦をとりました。 5月22日、北畠顕家軍は、座して死ぬよりはと、打って出ました。しかし、顕家は落馬し、他の者もすべて討ち死にしました。顕家は時に21歳でした。これを石津の戦いといいます。 |
4 | 7月、新田義貞は、越前の国府(福井県武生市)など越前の大部分を支配していました。後醍醐天皇は、義貞に「北陸を制圧し、北畠と力を合わせて、朝敵足利を討て」という綸旨を出しました。 敦賀の金ヶ崎城の北に杣山城、杣山城の北に国府、国府の北に燈明寺畷があります。燈明寺畷の東に藤島城、燈明寺畷の西に黒丸城があります。藤島城の東に永平寺があり、永平寺の東に平泉寺があります。この三城と二寺はは九頭竜川の南にあります。藤島と黒丸の中間の北に、義貞軍の本陣である石丸城(福井県石盛町)があり、そこから東へ4キロの所に丸岡城(福井県丸岡町)があります。石丸城や丸岡城は九頭竜川の北に位置しています。 足利方の越前守護である斯波高経は、藤島城を出て、黒丸城(北が九頭竜川、西が日野川を利用した天然の要塞)に拠点を移しました。 |
5 | 閏7月、新田義貞は、越前を平定するには、斯波高経を倒す必要があったので、黒丸城を総攻撃していました。こう着状態に陥っている時、平泉寺の僧兵が寝返って、藤島城を攻撃している義貞軍を、逆に攻撃しだしたのです。その知らせを受けて、義貞は、50騎を率いて、出陣しました。その時、足利方の細川孝基・鹿草公相軍300騎と、燈明寺畷で遭遇しました。飛んできた矢が義貞の馬に当り、義貞は、泥田に頭から落ちました。起き上がった義貞は、眉間に敵の矢を受けて、絶命しました。時に、37歳でした。これを燈明寺畷の戦いといいます。 |
* | この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。 |
新田義貞には厳しい、『太平記』の作者 | |
1 | 『太平記』を丹念に読んで見ると、南朝側の楠木正成には高感度が高く感じられます。北朝側の足利尊氏にも好意的な表現をしています。 逆に、新田義貞にはかなり厳しい評価をしています。正成より、義貞を贔屓にした後醍醐天皇にも冷静な描写をしています。 |
2 | 私が、新田義貞の最後の場面を、手振り身振りで紹介した時のことです。 元気のいい生徒(後に、上岡龍太郎に弟子入りして「ゼンジロー」として売り出す)が、「たぶん、義貞さんは、こう叫んだんでしょうね」と切り出して、私も含めて他の生徒をあっけにとらせておいてから、「ヌカッタ」(「ぬかるみの田」と「ミスした」をかけている)と言って、教室を爆笑の渦に包んだものです。 死に際まで、笑いの対象になるような、滑稽な人物として描かれているのです。新田義貞ファンには我慢できない話かもしれませんね。 |
3 | ただ、『太平記』はこのような話も紹介しています。 義貞の首が京都で獄門にかけられました。匂当内侍は、仏門に入り、京都往生院の近くに庵を結び、義貞の菩提を弔ったということです。ホッと救われた気がします。 |
* | 系図の見方(■天皇、■南朝の天皇、■北朝の天皇、■源氏) |
源義国 | ┳ | 源 義重 | … | …………… | … | 新田朝氏 | ┳ | 新田義貞 | ━ | 新田義顕 |
┃ | ┗ | 脇屋義助 | ||||||||
┗ | 源 義康 | … | …………… | … | 足利貞氏 | ┳ | 足利尊氏 | ━ | 足利義詮 | |
┗ | 足利直義 | |||||||||
後伏見天皇 | ┏ | @光厳天皇 | ||||||||
‖━ | ┻ | A豊仁親王(光明天皇) | ||||||||
西園寺寧子 | ||||||||||
┏ | A義良親王 | |||||||||
藤原忠子 | ┣ | 恒良親王 | ||||||||
‖━ | ━ | @後醍醐天皇 | ┻ | 尊良親王 | ||||||
後宇多天皇 | ||||||||||
‖━ | ━ | 後二条天皇 | ━ | 邦良親王 | ━ | 康仁親王 | ||||
堀川基子 |