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エピソード

078_02

南北朝の動乱
 1336(建武3)年8月、持明院統光明天皇(16歳)が即位しました。北朝といいます。
 11月、足利尊氏(32歳)は、建武式目を制定し、17条におよぶ施政方針を発表しました。
 12月、大覚寺統後醍醐天皇(49歳)は、大和の吉野へ脱出しました。南朝といいます。この時以降を南北朝時代といいます。
 同12月、伊勢神宮の外宮の禰宜である渡会家行は、宗良親王(父は後醍醐天皇)を奉じて伊勢に入った北畠親房を出迎え、南朝の拠点としました。
 1338(暦応元)年8月、興仁親王(父は光厳天皇、母は三条秀子)が皇太子になりました。時に5歳でした。
 8月、足利尊氏(34歳)は、北朝の光明天皇により征夷大将軍に任命され、室町幕府(足利幕府)を開きました。この結果、北朝側が有利な状況となりました。
 1339(暦応2)年3月、義良親王(父は後醍醐天皇、母は阿野廉子)が皇太子になりました。時に12歳でした。
 8月16日、不世出の英雄である後醍醐天皇が亡くなりました。時に52歳でした。
 『太平記』は右手に経巻を握り、北の京都の空をにらみ、「朝敵をことごとく滅ぼして、四海を太平ならしめんと思うばかりなり。…もし、命にそむき、義を軽んぜば、君も継体の君にあらず、臣も忠烈の臣にあらず」と遺言したとあります。
 8月、義良親王が即位して、後村上天皇となりました。南朝です。
 北畠親房(47歳)は、『神皇正統記』で「正統な天皇は南朝の主上である」と、弱体化しつつある南朝擁護論を書いて、後村上天皇を激励したのです。
 10月、足利尊氏(35歳)は、夢窓疎石の助言を容れ、後醍醐天皇を弔うために、天竜寺の造営に着手しました。この天竜寺を創建するための貿易船を、天竜寺船といいます。尊氏は、地引式には、自らモッコウを担いだといいます。
 夢窓疎石は、後醍醐天皇の帰依を受けており、鎌倉では円覚寺の開山になっています。そんな関係で、足利尊氏と後醍醐天皇の縁を取り持つには、絶好の人物です。この人物に目を付けた足利尊氏も大した人物といえます。
 1347(貞和3)年11月、楠木正行(22歳)は、摂津の住吉で山名氏清を、天王寺で細川顕氏を破り、尊氏をびっくりさせました。
 12月25日、高師直は、八幡に着いて、淀にいる高師泰と連絡をとりあいました。
 12月27日、楠木正行は、父楠木正成と同じようにゲリラ的戦術を提案しました。しかし、南朝軍の指揮官である北畠親房は、正行の進言を斥け、出撃を採用しました。
 後村上天皇は、「断乎として出撃せよ」(『太平記』)と親房の決定を採用しました。そこで、正行は、如意輪堂の過去帳に自分以下143人の名を書き、その最後に、
「帰えらじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をぞととむる」と、死を覚悟の一文を加えました。 
 1348(貞和4)年1月、高師直は、四条畷に陣を布きました。四条畷は、南方の紀伊・和泉の国境を走る金剛山脈が、大和・河内の境を北に伸びて、河内平野の東方で、奈良盆地を区切るところにあります。また、大阪平野の東壁として、最北端に飯盛山をひかえ、それに続いて南へ生駒山、信貴山、金剛山の峯が南北に一線に連なっています。
 1月5日、四条隆資軍は、楠木正行軍の四条畷進出を援護するため、西方を迂回して、飯盛山の大旗一揆を牽制しました。正行は、四条畷に進軍して、高師直軍を攻撃しました。戦うこと30度の及んだといいます。
 多勢に無勢、楠木正行・楠木正時兄弟は、「刀折れ矢尽き」、父の楠木正成のことを偲び、2人は差違えて、自害して果てました。正行は、その時、23歳の若者でした。『太平記』は、「楠木が一類、みな片時に亡び果てぬれば、聖運すでに傾きぬ。武徳、まことに久しかるべしと、思わぬ人も無かりけり」(これで、武士の時代になってしまうと、皆が思った)と書いています。
 高師直は、大和に兵を進め、吉野に迫りました。
 1月24日、後村上天皇は、吉野の山中を南下し、賀名生(あのう)に逃れました。そして、谷底にある土豪河氏川入道の家を借りて、南朝の仮の行在所としました。
 10月、持明院統の興仁親王が即位して崇光天皇となりました。時に15歳でした。北朝として、盛大な即位式をしました。
 この項は『日本合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
本家と元祖の争い
 京都は、吉野より北にあるので、北朝といいます。吉野は、京都より南にあるので、南朝といいます。南都・北嶺の南都が奈良の興福寺などの寺院をさし、北嶺が京都の比叡山をさすからです。セットで覚えると、智恵として記憶されます。
 北畠親房の『神皇正統記』は、非常に有名です。
 北畠親房がこれを書いた頃、南朝は厳しい状況にありました。そんな南朝の当主である後村上天皇を励まし、自分を正当化するために書いた本といえるでしょう。 本の中で特徴的な箇所は、天皇制の理論を「譲り」によって正統が決まるとしている部分です。南朝の皇統が正統であるという根拠は、「三種の神器」にあります。
 源平の争乱で、宝剣が海中に沈んだ時、貴族たちは「日本国滅亡の第一である」と感じていたように、
「三種の神器」は神聖な信仰の対象でした。
 ところが、後醍醐天皇は、何種類もの「三種の神器」を作って、1つは北朝側に渡し、1つは新田義貞に渡しました。しかし、後醍醐天皇は、吉野に移ると、それらの「三種の神器」は偽物であると公表しました。ここには、「三種の神器」は神聖な信仰の対象ではなく、「皇位のしるし」という手段になっていることが分かります。
 土産物屋さんの前を通ると、本家とか元祖とか、総本家などという看板や幟が上がっています。多くの人はそのブランドで、土産を買うようです。しかし、私は、本家とか元祖とかを正統化すればするほど、その店がブランドに頼らざるを得ない、弱体化している見本のように、見えるのです。
系図の見方(天皇、南朝の天皇、北朝の天皇、源氏)
源 義家 足利貞氏 足利尊氏 足利義詮
足利直義
@光厳天皇 B興仁親王(崇光)
‖━ C彌仁親王(後光厳)
後伏見天皇 三条秀子
‖━ A光明天皇
西園寺寧子
A義良親王(後村上天皇)
@後醍醐天皇 宗良親王

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