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エピソード

078_03

観応の擾乱(高師直、高師泰、足利直義)
 私の個人的な感想ですが、南北朝時代といい、観応の擾乱といい、この頃の歴史はしっくり、理解できません。私が理解できないのだから、生徒はもっと、分からなかったと思います。
 その理由を色々考えてみました。武士が政権をとってからは、一時、平清盛の時、天皇観が微妙な時がありました。鎌倉時代は、朝幕対立時代が続き、承久の乱で、幕府時代が到来しましたが、天皇観は不変でした。所が、2人の天皇が存在する異常な南北朝時代に入って、天皇の求心力が衰えて、ガラリと天皇観が変りました。これが、歴史を複雑にしていると感じるようになりました。遅かった!?。
 『太平記』には「将軍兄弟(足利尊氏・足利直義)も、敬い奉るべき1人の君主を軽んじ給えば、執事そのほか家人らも、また将軍を軽んじ候こと、これ因果の道理なり」とあります。
 足利尊氏足利直義は、皇室が秩序の最高位にあったという伝統を破壊すると、封建的な秩序も破壊される。そうなると、武士の幕府に対する忠誠心も破壊されると考えていました。どちらかというと、旧来の鎌倉幕府に、一部新しい血液を導入しようとしていることが分かりました。
 次も『太平記』です。「高師直…都に王という人あり、数多の所領をふさげ、内裏・院の御所という所あって、馬より下りるむつかしさよ。もし王なくてかのうまじき道理あらば、木を以て作るか、金を以て鋳かして、生きたる院・国王をば、何方へも流して捨て奉らばや」とあります。
 高師直の弟高師泰の部下が恩賞の所領が少ないといったので、「何を少領と嘆き給う、其の近辺に寺社・本所の所領あらば、境を越えて知行せよ」と返事したと『太平記』は書いています。
 高師直・高師泰は、前時代の伝統・権威を否定し、新興の在地の武士を中心とした、新しい封建制度を確立しようとしていることが分かりました。
 さらに『太平記』です。土岐頼遠の行列が光厳上皇の行列が出会いました。上皇の従者が『「何者ぞ狼籍也。下候へ。」とぞ罵ける。下野判官行春は是を聞て御幸也けりと心得て」下馬します。しかし、「土岐弾正少弼頼遠は、御幸も不知けるにや…馬をかけ居て、「此比洛中にて、頼遠などを下すべき者は覚ぬ者を、云は如何なる馬鹿者ぞ」と罵りければ、前駈御随身馳散て声々に、「如何なる田舎人なれば加様に狼籍をば行迹ぞ。院の御幸にて有ぞ。」と呼りければ、頼遠酔狂の気や萌しけん、是を聞てからからと打笑ひ、「何に院と云ふか、犬と云か、犬ならば射て落さん。」と云侭に、御車を真中に取篭て馬を懸寄せて、追物射にこそ射たりけれ』
 土岐頼遠は、高師直が頭で考えていたこと(伝統・権威の否定)を実行したことが分かりました。
 当然、足利直義は土岐頼遠を処刑しました。本人は死罪にしましたが、所領・役職は兄の子に相続させています。幕府の方針は、天皇制などの伝統・権威を否定する者は処罰するが、所領や守護職は維持・相続させるということが分かりました。
 他方、この勢いのいい、土岐頼遠らの上に、新しい秩序を樹立しようとしているのが、高師直らということも分かりました。
 1349(貞和5)年閏6月、足利直義は、兄足利尊氏に強要して、高師直の執事職を罷免させました。
 7月、足利直義は、さらに、高師直の朝廷出仕を禁止して、政治面への参画の道を封じました。そこで師直は、弟高師泰と共に武装して、直義邸を包囲します。
 8月、足利直義は、足利尊氏邸に逃げ込みました。高師直は、足利尊氏邸を囲んで焼き払うと脅したので、尊氏は、直義の政務からの引退を約束して、事の解決をはかりました。再び、師直は執事職に復帰しました。
 その後、夢窓疎石の仲介で和議が成立し、足利直義の政務復帰が決まりました。しかし、高師直は、それが不満で、武力を背景に、足利尊氏に足利直義の引退を強く迫りました。尊氏は、直義の実権は嫡子足利義詮に譲らせ、しかも直義の出家を約束しました。それでも不安の師直は、直義の部下である上杉重能畠山直宗を殺害しました。
 1350(観応元)年10月、足利直義の養子で、長門探題足利直冬(足利尊氏の庶子)が、養父の足利直義の意をくんで、中国地方で挙兵しました。
 11月、高師直との戦いに敗れた足利直義は、京都を逃れて大和国に赴き、南朝に和睦を申し入れました。直義が出した南北両朝合体案が受け入れられ、足利直義は南朝の武士になりました。
 1351(観応2)年1月、桃井直常らが入京して、足利尊氏・足利義詮を撃破しました。足利尊氏らは、播磨に逃げました。
 2月17日、南朝の足利直義は、足利直冬・細川顕氏(四国)・桃井直常(北陸)・石塔頼房(近畿)らを味方に引き入れ、高師直・足利尊氏連合軍と、摂津の打出浜で戦って、勝利しました。これを武庫川の戦いといいます。
 2月20日、足利直義と足利尊氏の間で、和議が成立しました。直義は、足利義詮の補佐として政権を握りました。そして、直義は、足利直冬を長門探題から鎮西探題に抜擢しました。少弐頼尚が直冬を援護します。
 もう一つの和議は、足利尊氏は「高師直を出家させる」、足利直義は「高師直の生命は保障する」という奇妙なものでした。
 2月26日、高師直・高師泰は出家し、京都への道を歩かされていました。足利尊氏から離れないようにしていましたが、ある集団が一瞬に割り込んできました。尊氏との差が開いた瞬間、高師直・高師泰は殺害されました。犯人は、先に師直に殺された上杉重能の遺臣でした。ここで高師直・高師泰の死が確認されました。
 5月、南朝は、南朝軍が武庫川の戦いで勝利したことで、先の足利直義の合体案を拒否しました。これを機に再び、足利直義は、北朝に寝返りしました。
 7月、足利直義は、足利義詮との不和を口実にして、京都から姿を消しました。
 8月、足利直義は、鎌倉に本拠を構えて、東国支配に乗り出していました。
 8月、足利尊氏は、南朝に降伏を申し入れましたが、拒否されました。
 10月、優勢な足利直義に対抗して、再度、足利尊氏は、南朝に降伏を申し入れました。尊氏の降伏の条件は、大覚寺統(南朝)を正統と認め、万事を建武の時の状態に戻すというものでした。尊氏の焦りが、よく分かります。南朝は、これを認め、後村上天皇は、尊氏に「直義追討の命令」を出しました。
 11月、北畠親房は、北朝の神器を取り上げて、崇光天皇を廃位し、皇太子の直仁親王を廃太子としました。北朝が断絶しました。
 その結果南朝一統になりました。
 12月、足利尊氏軍は、足利直義軍を足柄山で破りました。
10  1352(観応3)年1月、足利尊氏は、足利直義と和睦して、鎌倉に入りました。
 2月、足利尊氏が関東へ出陣している間に、北畠親房楠木正儀楠木正行の弟)らは京都に入りました。足利義詮は、近江に逃れました。
 2月、後村上天皇は、賀名生を出て、河内東条から摂津住吉に移りました。
 2月26日、足利直義は、鎌倉で「急死」しました。『太平記』は「黄疸だと公表されたが、本当は毒殺だという噂がもっぱらだ」と書いています。ここで足利直義の急死が確認されました。
 閏2月、宗良親王(父は後醍醐天皇)が征夷大将軍になりました。
 閏2月、新田義宗(父は新田義貞)が上野で挙兵して、鎌倉に入りました。
11  閏2月、足利義詮は、兵を集め、京都東山に接近しました。後村上天皇は、京都に入らず、男山八幡にとどまりました。楠木正儀は河内におり、北畠顕能は押されて、八幡で防戦に努めました。
 3月、足利義詮軍は、兵糧攻めを採用し、持久戦に持ち込みました。
 5月、南朝側の一部が、足利義詮軍に寝返ってので、バランスが崩れ、後村上天皇は必死で賀名生に逃げ帰りました。これを八幡の戦いといいます。
 6月、光厳上皇・光明上皇・崇光上皇、それに廃太子の直仁親王を賀名生に移しました。
 7月、幕府は、諸国守護に、武士の寺社本所領狼藉を禁じ、近江以下3カ国の半済を命令しました。
 8月、足利義詮は、彌仁親王(父は光厳天皇、母は三条秀子、兄は崇光天皇)を立太子なく、即位させました。これが後光厳天皇です。北朝です。再び二朝並立です。
 11月、足利直冬は、養父の足利直義の死で、九州でも威厳を失い、一色範氏に大宰府を追放されました。そこで、足利直冬は、南朝に帰順を申し入れ、許されました。
12  1353(文和2)年、南朝は、足利直冬に総追捕使に任命しました。
 1354(文和3)年、足利直冬は、山名時氏と丹波へと軍を進め、桃井直常は、北方から京都に迫り、楠木正儀は、南方の石清水八幡宮に進軍しました。 
13  1355(文和4)年1月、両軍は、京都で、死闘を繰り返しましたが、足利直冬は、京都を奪回できませんでした。
 10月、足利直冬が追放されたので、少弐頼尚は、懐良親王(父は後醍醐天皇)側に着きました。対抗上、懐良親王は、武家側に寝返えった一色範氏を破り、北九州を手に入れました。
14  1358(延文)年4月13日、九州に出兵しようとした足利尊氏は、背中の腫瘍が悪化して、亡くなりました。時に54歳でした。ここで足利尊氏の死が確認されました。
 足利尊氏の嫡子足利義詮(29歳)は、佐々木道誉に補佐され、征夷大将軍になりました。
 この項は『日本合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
『太平記』と歴史に感謝
 『太平記』によって、足利尊氏・直義兄弟、高師直・師泰兄弟、新興の守護大名の考えがよく分かりました。守護大名に対する尊氏兄弟と、師直兄弟の考えの違いが、背景となっていたということも分かりました。『平家物語』と共に、『太平記』の支持者が多いことも分かりました。感謝いたします。
 エピソード日本史は、逐年的に、事件をまとめています。今回も、同じ手法を採用しました。直義が南朝に下ったり、尊氏が南朝に降伏したりする様がよく分かりました。そして、師直兄弟が暗殺され、直義が毒殺され、尊氏が病死するまでが分かりました。こういうことが分かる、日本の歴史に感謝します。
 歴史が複雑なのは、古代天皇制から、中世封建制に、完全に移行する時期だったということが分かりました。移行期は、理屈では理解できない、筆舌に尽くせぬドラマが誕生する、ということも知りました。 
 それだから、「歴史って、本当に面白いんですね」。
系図の見方(天皇、南朝の天皇、北朝の天皇、源氏)
源義国 源 義重 …………… 新田朝氏 新田義貞 新田義顕
新田義興
新田義宗
脇屋義助
源 義康 …………… 足利貞氏 足利尊氏 足利義詮
足利直冬
足利直義 養子
@光厳天皇 B興仁親王(崇光)
‖━ C彌仁親王(後光厳)
後伏見天皇 三条秀子
‖━ A光明天皇
西園寺寧子
A義良親王(後村上天皇)
@後醍醐天皇 宗良親王

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