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エピソード

079_01

南北朝の合体
 1348(貞和4)年10月、持明院統興仁親王(父は光厳天皇、母は三条秀子)が即位して崇光天皇となりました。時に15歳でした。北朝です。
 1351(観応2)年10月、足利尊氏は、南朝に降伏を申し入れました。尊氏の降伏の条件は、大覚寺統(南朝)を正統と認めというものでした。尊氏の降伏が認められました。
 11月、北畠親房は、北朝の神器を取り上げて、崇光天皇を廃位し、皇太子の直仁親王を廃太子としました。北朝が断絶しました。その結果南朝一統になりました。
 1352(観応3)年8月、足利義詮は、彌仁親王(父は光厳天皇、母は三条秀子、兄は崇光天皇)を立太子なく、即位させました。時に17歳でした。これが後光厳天皇です。北朝です。再び二朝並立です。
 1359(延文4)年3月、大友氏時に続いて、少弐頼尚懐良親王(父は後醍醐天皇)から離反しました。
 7月15日、菊地武光は、少弐頼尚を討つために、肥後の菊地を出撃しました。頼尚は、筑後川の北方の味坂の庄に陣を布きました。
 7月19日、菊地武光は、筑後川を渡り、少弐頼尚の陣と対峙しました。頼尚は、大保原まで退陣しました。大保原は、北に振山、南に沼、東に筑後川に合流する宝満川があって、守るに適した陣地になっています。頼尚は、持久戦に持ち込みました。
 8月6日、菊地武光は、夜襲して、少弐頼尚軍の本隊に突入しました。頼尚は、宝満山方面へ敗走しました。武光は、鋸の歯のようになった刀を、川の水で洗って、引き上げました。太刀を洗った川を、太刀洗川と呼ぶようになったといいます。これを筑後川の戦いといいます
 1360(延文5)年、菊地武光は、肥前佐賀を制して、この地域を南朝側とすることに成功しました。
 1361(康安元)年8月、菊地武光は、博多を占領して、懐良親王を迎え、ここに征西府を移しました。13年間、この地を拠点に、九州を制圧しました。
 10月、足利氏の一族斯波氏経九州探題に任命されました。
 1362(貞治元)年、菊地武盛は、斯波氏経・大友氏時と戦い、戦死しました。
 1365(貞治4)年、幕府は、斯波氏経を解任しました。後任の渋川義行も九州に入れませんでした。
 1368(応安元)年3月、後村上天皇は亡くなりました。時に41歳でした。
 3月、寛成親王(父は後村上天皇、母は藤原氏の娘)が立太子なく、即位して長慶天皇となりました。時に26歳でした。南朝です。
 12月、足利義満(父は足利義詮)が征夷大将軍になりました。時に10歳でした。
 1371(応安4)年3月、後光厳天皇が譲位しました。時に36歳です。
 3月、緒仁親王(父は後光厳天皇、母は紀仲子)が立太子なく、即位して後園融天皇となりました。時に17歳でした。北朝です。
 8月、九州探題に任命された今川貞世今川了俊)は、南朝の拠点である大宰府攻撃に的をしぼり、大包囲陣を布き、持久戦に持ち込みました。
 12月、今川貞世は、大宰府を占領しました。菊地武光は、懐良親王を奉じて、筑後にある高良山へ逃げ落ちました。それ以降、武光の名は歴史から消えています。
 1375(永和元)年、今川貞世は、菊地氏の本拠の隈部城を囲む菊池18外城の1つの水島城攻撃にうつりました。この時、貞世は、少弐冬資大友親世島津氏久に援軍を求めています。しかし、冬資は求めに応じませんでした。
 その後、今川貞世は、島津氏久に依頼して、少弐冬資を呼び寄せ、酒宴を口実に、冬資を殺害しました。これを知った氏久は、h摩に帰ってしまったといいます。このため、貞世の九州平定は、かなり遅れました。
 1381(永徳元)年、今川貞世は、南朝の拠点である隈部城を攻略し、ここに九州が平定されました。
 1382(永徳2)年4月、後園融天皇が譲位しました。時に27歳です。
 4月、幹仁親王(父は後円融天皇、母は三条厳子)が立太子なく、即位して、後小松天皇となりました。時に9歳でした。北朝です。
 1383(永徳3)年3月、懐良親王(55歳)が亡くなりました。
 10月、長慶天皇が譲位しました。
 10月、煕成親王(父は後村上天皇、母は藤原氏の娘)が立太子なく、即位して後亀山天皇となりました。時に16歳でした。南朝です。
 1392(明徳3)年閏10月、足利義満は、後亀山天皇に、南北朝の合体を斡旋しました。その内容は次の通りです。
(1)南朝後亀山天皇が、北朝後小松天皇に譲位して、神器を渡す。
(2)皇位は両朝交互とする。
(3)国衙領は南朝皇統のものとする。
 南朝は、この条件をのみ、後亀山天皇が北朝後小松天皇に譲位しました。そして、後亀山上皇は、吉野より京都に帰りました。ここに南北朝の合体がなりました。これを明徳の和約といいます。
 1410(応永17)年、明徳の和約違反を知った後亀山上皇は、吉野に脱出しました。これを後南朝の始まりといいます。
 1412(応永19)年8月、後小松天皇が譲位しました。
 8月、実仁親王(父は後小松天皇、母は日野西資子)が立太子なく、即位して、称光天皇となりました。時に14歳でした。
 本来なら、南朝の後亀山天皇の皇子である実仁親王(小倉宮)が即位することになっていたのです。しかし、明徳の和約が無視され、以後、皇位は、北朝の皇統に受け継がれ、現在に至ります
 1414(応永21)年、北畠満雅は、後亀山上皇に応じて、伊勢で挙兵します。
 1428(正長元)年、北畠満雅は、実仁親王小倉宮。父は後亀山天皇)を奉じて、再挙しましたが、鎮圧されました。
 1443(嘉吉3)年、後南朝の日野有光は京都御所を襲撃して、神器(神璽・宝剣)を奪取しました。そして、比叡山に立てこもりましたが、蜂起は失敗しました。その後、宝剣は発見されましたが、神璽は行方不明でした。これを禁闕の変といいます。
 合体以後の南朝皇統子孫や遺臣による皇位回復行動を「後南朝運動」といいます。
 1457(長禄元)年、禁闕の変で失われた神璽(勾玉)が後南朝にあることが判明しました。嘉吉の乱で滅亡した赤松氏の遺臣は、神璽奪還を条件として赤松家再興を図ろうと、後南朝に仕官しました。
 1458(長禄2)年、赤松氏の遺臣は、艱難辛苦の末に、神璽を奪還しました。これを長禄の変といいます。
 1514(永正11)年、南帝王が亡くなって、後南朝は断絶しました。
 この項は、『日本合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。また、合体の年は、どの本にも書いていますが、月が分かりませんでした。やっと、山川出版社の『日本史広辞典』で見つけたときは、本当に嬉しかったです。感謝いたします。
南北朝正閏論
 戦前、「南北朝正閏論」が議会で取り上げられたということを聞きました。
 正閏とは、天子の位で、正しい系統と、正しくない系統をいいます。また、正統と閏統という表現もあります。南北朝正閏論とは、南朝と北朝で、どちらが正しい系統で、どちらが正しくない系統なのかを明らかにしようとすることです。
 南朝の後醍醐天皇が正しい系統とする側は、南朝に尽くした楠木正成や新田義貞を忠臣として、高く評価したらしい。
 他方、後醍醐天皇に背いた足利尊氏や高師直を、逆賊と扱ってきたらしい。
 しかし、この議論には、大きな矛盾があります。現在の天皇は、尊氏が擁立した北朝の皇統なのです。尊氏を逆賊扱いし、北朝を閏統とすると、今の天皇の立場が微妙なものになります。
 さすがに、このようなアナクロ的な発言をする人がいなくなりました。歴史の進歩でしょうか。
 1946(昭和21)年、アメリカの新聞『Stars and Stripes』が「南朝の子孫と名乗る熊沢寛道氏が自分こそが正統な天皇であると主張している」と報じました。それによると、「熊沢寛道氏は南朝の最後の天皇である後亀山天皇の孫にあたる熊野宮信雅王の子孫であり、同家は代々自分の家こそが本来の天皇の正統であるとして”即位”をしてきた」とあります。
 1951(昭和26)年、熊沢寛道氏は、東京地方裁判所に、自分の正統性を認めるよう訴えました。しかし、裁判所は「裁判になじまない」とこの問題を却下しました。
 では、実際はどうなっているのでしょうか。
 後亀山天皇の皇子は実仁親王(小倉宮)といいます。後小松天皇の次の天皇に予定されていました。しかし、後小松天皇の皇子である躬仁親王と実仁親王と名を改めます。約束では、実仁親王(小倉宮)を即位させるとなっていたのを、実仁親王に即位させるというようにして、後小松天皇の皇子を称光天皇に即位させたのではないでしょうか。
 それに反発した実仁親王は後南朝の初代天皇となり、5代まで続きます。熊沢寛道氏によれば、D南帝王の子孫だということです。
後亀山天皇 @実仁親王(小倉宮) A中興天皇 B自天皇
後南朝天皇 C南天皇 D南帝王 熊沢寛道
系図の見方(天皇、南朝の天皇、北朝の天皇、E即位の予定の後南朝の天皇、将軍)
源 義家 足利貞氏 @足利尊氏 A足利義詮 B足利義満
日野西資子
@光厳天皇 B崇光天皇 三条厳子 ‖━ F実仁親王(称光)
‖━ C彌仁親王(後光厳) ‖━ E幹仁親王(後小松)
後伏見 三条秀子 ‖━ D緒仁親王(後円融)
‖━ A光明天皇 紀仲子
西園寺寧子
@後醍醐 A後村上天皇
‖━ B寛成親王(長慶)
藤原氏 C煕成親王(後亀山) D実仁親王(小倉宮)
懐良親王

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