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エピソード

079_03

土岐康行の乱、明徳の乱(山名氏清、山名満幸)
土岐康行の乱
 1368(応安元)年、足利義満は、3代将軍となりました。時に10歳でした。
 1389(嘉慶2)年、足利義満は、31歳になりました。成長した義満は、強大になりすぎた有力守護大名の勢力を弱体化しようと考え、守護同士の抗争や一族の内紛を、巧みに利用しました。
 幕府創業以来の功臣で、美濃伊勢尾張の守護土岐頼康が亡くなりました。義満は、養子の土岐康行には美濃伊勢の守護しか認めませんでした。尾張の守護は、康行の弟土岐満貞に与えました。 土岐康行は、足利義満の分裂作戦にひっかかり、尾張の土岐満貞を攻めました。
 1390(明徳元)年、足利義満は、土岐康行の行動を自分への反逆として、討伐軍を派遣して、攻略しました。
 1391(明徳2)年、足利義満は、明徳の乱に乗じて、土岐満貞の尾張守護職を解任しました。「分裂作戦で利用して、用が終わったら、切り捨てる」という非情な将軍義満の一面を見ることが出来ます。
土岐頼康 土岐康行
(養子)
土岐頼雄 土岐康行
土岐満貞
明徳の乱
 1337(建武4)年、山名時氏(先祖は新田義重の子新田義範で、足利氏と同じ源氏)は、足利尊氏を支持し、伯耆の守護職を与えられました。
 1350(観応元)年、このころ始まった観応の擾乱のとき、山名時氏は、足利直冬側に与みし、丹後丹波美作を得ました。
 1363(貞治2)年、山名時氏は、足利義詮に降伏し、その功で、伯耆・因幡・丹後・丹波・美作の5カ国を安堵されました。
 山名時氏以後も、山城若狭但馬出雲備後隠岐を加え、一族で11ケ国を領有しました。
 当時、日本は66カ国だったので、11ケヶ国は全国の6分の1になります。そこで、山名氏は「六分の一衆」と呼ばれました。
 1389(康応元)年6月、山名家の惣領山名時義が亡くなりました。
 1390(康応2)年、足利義満は、「山名時義が生前に将軍をないがしろにする行動が多く、後を継いだ山名時煕と従兄弟山名氏幸も、山名時義と同様に不遜な態度である」という口実で、山名時煕らの叔父山名氏清(山名氏の庶流)に討伐を命じました。足利義満の分裂作戦です。
 3月、山名時煕は、但馬で挙兵しました。山名氏清も但馬に出陣しました。氏清の甥で婿の山名満幸山名氏幸の本拠である伯耆を攻めました。
 1391(明徳2)年、山名時煕と山名氏幸は、これにより没落しました。戦功により、山名氏清は丹波和泉に加え、丹後山城、山名満幸は丹後出雲に加え、伯耆隠岐の守護職を与えられました。
 2月、斯波義将に代わって、細川頼之管領となりました。
 11月、足利義満は、「山名満幸は、仙洞領出雲横田荘を押領し、度々の御内書を無視した」ことを口実に、先に討った山名時煕・山名氏幸を許し、逆に山名満幸は、出雲の守護職を奪われ、京都より追放されました。足利義満の分裂作戦です。
 12月、山名満幸は、山名氏清を堺に訪ね、挙兵を説きました。氏清は、「どうせ、将軍は、われわれを滅ぼす気である。ならば、合戦をして、天下をとろう」と決意しました。そして、紀伊の守護で弟の山名義理を味方に取り込みました。
 12月26日、これを察知した足利義満は、京都の街を囲む形で陣を布き、山名氏清軍の到着を待ちました。
 12月30日、山名氏清軍は、街中に入ってきました。これを足利義満軍が四方から猛攻撃をかけました。一進一退が続くうち、将軍直属の馬廻り衆3000騎が駆けつけ、バランスが崩れ、山名満幸は丹波へと逃げ落ちました。逃げ遅れた山名氏清は、首を打たれてしまいました。
 1392(明徳3)年2月、大内義弘は、紀伊の山名義理を攻略しました。
 4月、足利義満は、山城を畠山基国、丹波を細川頼元、丹後を一色詮範の子一色満範、美作を赤松義則、和泉と紀伊を大内義弘、隠岐・出雲を京極高詮に与えました。
 また、山名一族の山名時煕には但馬、山名氏幸には伯耆、山名氏清に与した山名氏家には、罪を許されて、因幡が安堵されました。
 1395(応永2)年、山名満幸は、京都に帰った所を捕まり、殺害されました。
 この項は『日本合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
権力者足利義満の凄さ、ムチとアメの使い分け
 三代将軍足利義満は、生まれながらの将軍と言われます。江戸時代の三代将軍家光も、生まれながらの将軍と呼ばれました。創業者が作った会社を、二代目が傾かせ、三代目がつぶすとも言われます。逆に三代目が、しっかりしておれば、その会社は長続きするとも言われます。
 義満も、家光も、三代目であっても、権力者としての凄さを持っていました。だから、15代も続いたのです。
 権力者源頼朝は、凄かったが、三代目で、潰れました。秀吉も、凄かったが、一代目で、滅びました。その差は、どこにあるのでしょうか。
 家光は、別の項で書くとして、義満の場合を、紹介します。
 義満は、目をつけたものを滅ぼしています。仲直りさせることは、経験的に、難しいことを知っています。逆に、喧嘩させることは簡単です。この簡単な方法で、滅ぼします。これがムチの政策です。当然、一家全滅と思っていると、何分の1かではありますが、所領を相続させます。これがアメの政策です。
 当然、自分は、責任を取って「やられる」と覚悟しているとき、上司から優しい言葉をかけられると、この上司のためにどんなことでもしようという心理になります。土岐康行の乱、明徳の乱を通じて、義満のムチとアメの政策がよく分かります。
系図の見方(山名氏、斯波氏、一色氏、将軍、細川氏、畠山氏)
氏清
義理
氏冬 氏家
師義 氏幸
山名義範 義節 重国 重村 義長 義俊 政氏 時氏 満幸
義重 ……………………………………………………………… 新田義貞 時義 時煕 宗全
斯波家氏 ……………………………… 義將
一色公深 ……………………………… 詮範 満範
義康 義兼 義氏 泰氏 頼氏 家時 足利貞氏 ━━ 足利尊氏 義詮 義満
細川義季 ………………………………………… 頼之 頼元
畠山義純 …………………………………………………… 基国

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