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土岐康行の乱、明徳の乱(山名氏清、山名満幸) | |||||||||||||||||
土岐康行の乱 | |||||||||||||||||
1 | 1368(応安元)年、足利義満は、3代将軍となりました。時に10歳でした。 1389(嘉慶2)年、足利義満は、31歳になりました。成長した義満は、強大になりすぎた有力守護大名の勢力を弱体化しようと考え、守護同士の抗争や一族の内紛を、巧みに利用しました。 幕府創業以来の功臣で、美濃・伊勢・尾張の守護土岐頼康が亡くなりました。義満は、養子の土岐康行には美濃・伊勢の守護しか認めませんでした。尾張の守護は、康行の弟土岐満貞に与えました。 土岐康行は、足利義満の分裂作戦にひっかかり、尾張の土岐満貞を攻めました。 1390(明徳元)年、足利義満は、土岐康行の行動を自分への反逆として、討伐軍を派遣して、攻略しました。 1391(明徳2)年、足利義満は、明徳の乱に乗じて、土岐満貞の尾張守護職を解任しました。「分裂作戦で利用して、用が終わったら、切り捨てる」という非情な将軍義満の一面を見ることが出来ます。 | ||||||||||||||||
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明徳の乱 | |||||||||||||||||
1 | 1337(建武4)年、山名時氏(先祖は新田義重の子新田義範で、足利氏と同じ源氏)は、足利尊氏を支持し、伯耆の守護職を与えられました。 1350(観応元)年、このころ始まった観応の擾乱のとき、山名時氏は、足利直冬側に与みし、丹後・丹波・美作を得ました。 1363(貞治2)年、山名時氏は、足利義詮に降伏し、その功で、伯耆・因幡・丹後・丹波・美作の5カ国を安堵されました。 山名時氏以後も、山城・若狭・但馬・出雲・備後・隠岐を加え、一族で11ケ国を領有しました。 当時、日本は66カ国だったので、11ケヶ国は全国の6分の1になります。そこで、山名氏は「六分の一衆」と呼ばれました。 | ||||||||||||||||
2 | 1389(康応元)年6月、山名家の惣領山名時義が亡くなりました。 1390(康応2)年、足利義満は、「山名時義が生前に将軍をないがしろにする行動が多く、後を継いだ山名時煕と従兄弟山名氏幸も、山名時義と同様に不遜な態度である」という口実で、山名時煕らの叔父山名氏清(山名氏の庶流)に討伐を命じました。足利義満の分裂作戦です。 3月、山名時煕は、但馬で挙兵しました。山名氏清も但馬に出陣しました。氏清の甥で婿の山名満幸も山名氏幸の本拠である伯耆を攻めました。 | ||||||||||||||||
4 | 1391(明徳2)年、山名時煕と山名氏幸は、これにより没落しました。戦功により、山名氏清は丹波・和泉に加え、丹後と山城、山名満幸は丹後・出雲に加え、伯耆と隠岐の守護職を与えられました。 2月、斯波義将に代わって、細川頼之が管領となりました。 11月、足利義満は、「山名満幸は、仙洞領出雲横田荘を押領し、度々の御内書を無視した」ことを口実に、先に討った山名時煕・山名氏幸を許し、逆に山名満幸は、出雲の守護職を奪われ、京都より追放されました。足利義満の分裂作戦です。 12月、山名満幸は、山名氏清を堺に訪ね、挙兵を説きました。氏清は、「どうせ、将軍は、われわれを滅ぼす気である。ならば、合戦をして、天下をとろう」と決意しました。そして、紀伊の守護で弟の山名義理を味方に取り込みました。 12月26日、これを察知した足利義満は、京都の街を囲む形で陣を布き、山名氏清軍の到着を待ちました。 12月30日、山名氏清軍は、街中に入ってきました。これを足利義満軍が四方から猛攻撃をかけました。一進一退が続くうち、将軍直属の馬廻り衆3000騎が駆けつけ、バランスが崩れ、山名満幸は丹波へと逃げ落ちました。逃げ遅れた山名氏清は、首を打たれてしまいました。 | ||||||||||||||||
5 | 1392(明徳3)年2月、大内義弘は、紀伊の山名義理を攻略しました。 4月、足利義満は、山城を畠山基国、丹波を細川頼元、丹後を一色詮範の子一色満範、美作を赤松義則、和泉と紀伊を大内義弘、隠岐・出雲を京極高詮に与えました。 また、山名一族の山名時煕には但馬、山名氏幸には伯耆、山名氏清に与した山名氏家には、罪を許されて、因幡が安堵されました。 1395(応永2)年、山名満幸は、京都に帰った所を捕まり、殺害されました。 | ||||||||||||||||
* | この項は『日本合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。 | ||||||||||||||||
権力者足利義満の凄さ、ムチとアメの使い分け | |||||||||||||||||
1 | 三代将軍足利義満は、生まれながらの将軍と言われます。江戸時代の三代将軍家光も、生まれながらの将軍と呼ばれました。創業者が作った会社を、二代目が傾かせ、三代目がつぶすとも言われます。逆に三代目が、しっかりしておれば、その会社は長続きするとも言われます。 義満も、家光も、三代目であっても、権力者としての凄さを持っていました。だから、15代も続いたのです。 | ||||||||||||||||
2 | 権力者源頼朝は、凄かったが、三代目で、潰れました。秀吉も、凄かったが、一代目で、滅びました。その差は、どこにあるのでしょうか。 | ||||||||||||||||
3 | 家光は、別の項で書くとして、義満の場合を、紹介します。 義満は、目をつけたものを滅ぼしています。仲直りさせることは、経験的に、難しいことを知っています。逆に、喧嘩させることは簡単です。この簡単な方法で、滅ぼします。これがムチの政策です。当然、一家全滅と思っていると、何分の1かではありますが、所領を相続させます。これがアメの政策です。 当然、自分は、責任を取って「やられる」と覚悟しているとき、上司から優しい言葉をかけられると、この上司のためにどんなことでもしようという心理になります。土岐康行の乱、明徳の乱を通じて、義満のムチとアメの政策がよく分かります。 | ||||||||||||||||
* | 系図の見方(■山名氏、■斯波氏、■一色氏、■将軍、■細川氏、■畠山氏) |
┏ | 氏清 | ||||||||||||||||||||||
┣ | 義理 | ||||||||||||||||||||||
┣ | 氏冬 | ━ | 氏家 | ||||||||||||||||||||
┣ | 師義 | ┳ | 氏幸 | ||||||||||||||||||||
┏ | 山名義範 | ━ | 義節 | ━ | 重国 | ━ | 重村 | ━ | 義長 | ━ | 義俊 | ━ | 政氏 | ━ | 時氏 | ┫ | ┗ | 満幸 | |||||
┏ | 義重 | ┻ | ……………………………………………………………… | ━ | 新田義貞 | ┗ | 時義 | ━ | 時煕 | ━ | 宗全 | ||||||||||||
┃ | ┏ | 斯波家氏 | ……………………………… | 義將 | |||||||||||||||||||
┃ | ┣ | 一色公深 | ……………………………… | 詮範 | ━ | 満範 | |||||||||||||||||
┗ | 義康 | ━ | 義兼 | ┳ | 義氏 | ┳ | 泰氏 | ┻ | 頼氏 | ━ | 家時 | ━ | 足利貞氏 | ━━ | 足利尊氏 | ━ | 義詮 | ━ | 義満 | ||||
┃ | ┗ | 細川義季 | ………………………………………… | ━ | 頼之 | ━ | 頼元 | ||||||||||||||||
┗ | 畠山義純 | …………………………………………………… | ━ | 基国 |