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エピソード

079_04

応永の乱(足利義満 VS 大内義弘)
 611年、百済の聖明王の三男琳聖太子は、周防の多々良浜に着き、やがて、摂津の聖徳太子に会い、周防の大内県を与えられたので、大内氏を名乗るようになったといわれています。
 源平争乱の時、大内弘盛は、平氏追討に戦功があり、周防権介に任命されて以降、代々権介を世襲するようになりました。
 南北朝の動乱の時、大内重弘大内弘幸大内弘世の3代は、南朝側で活躍しています。
 1354(文和3)年、大内弘世は、一族の鷲津氏を制圧して、周防を統一し、ついで、長門の厚東氏を追放して、長門を領国に加えました。
 1363(貞治2)年、大内弘世は、将軍足利義詮との調停に成功し、北朝側として、九州に渡り、南朝側の菊地一族と戦いました。石見を得た弘世は、本拠を山口に移しました。
 1371(応安4)年、大内弘世の嫡子大内義弘は、九州探題今川貞世と共に、九州に渡って、活躍し、豊前の守護職を得ました。その後、菊地武朝を撃破したりして、安芸を手に入れました。
 1392(明徳3)年4月、大内義弘は、明徳の乱の戦功により、和泉紀伊の守護に就任しました。
 12月、大内義弘は、紀伊の南朝方と接触し、南北朝の合体に、重要な役割を果たし、将軍足利義満から足利一門に準ずる扱いを受けました。
 1395(応永2)年、大内義弘は、朝鮮貿易にのりだし、巨富を得ました。
 1397(応永4)年4月、足利義満は、北山に広大な邸宅を築造し、その土木工事を守護大名に割り当てました。それに対して、大内義弘だけは、「武士は、弓矢を業として奉公するものであり、土木などのために、みだりに使役するものではない」と拒否しました。この頃、弟大内満弘は、九州の少弐貞頼や菊地武朝を相手に、苦戦を続けていたことも背景にありました。
 12月、大内義弘の弟大内満弘は、討ち死し、大内軍は惨敗しました。
 1398(応永5)年、九州に派遣された大内義弘は、少弐貞頼や菊地武朝を打ち破りました。
 しかし、大内義弘は、戦死した大内満弘への恩賞がないことに反発し、再三にわたる足利義満の上洛の命令を無視して、山口から動きませんでした。そんな山口には「和泉・紀伊の守護職を剥奪されるそうだ」とか「上洛したら、義弘は殺される」などの噂が流れました。
 1399(応永6)年10月、大内義弘は、兵船に乗り込んで、に上陸しました。ここでも、足利義満の上洛命令を無視しました。
 同10月、足利義満は、高僧の絶海中津を堺に派遣しました。しかし、大内義弘は「数々の忠節を尽くしたのに、このような冷遇をうけることは納得できない」と、絶海中津の説得を拒否しました。
 大内義弘の強硬な態度の裏には、既にシナリオが出来ていました。鎌倉公方足利満兼を盟主として、丹後の宮田時清山名氏清の嫡子)、美濃の土岐詮直、近江の京極秀満京極高詮の弟)ら反幕府勢力を結集して、堺に籠城し、戦うことになっていました。
 そのため、大内義弘は、堺に東西・南北各16町の要害を築き、周囲に48の井櫓、1700の櫓を立て、兵5000を率いて立て籠もりました。
 11月8日、細川頼元・京極高詮・赤松義則などの6000騎が堺に先発しました。
 11月14日、足利義満は、斯波義将畠山基国など3万余の大軍を率いて、木津川を越えた八幡に前進しました。
 他方、大内義弘側を見ると、盟主の足利満兼が関東管領上杉憲定に制止されました。宮田時清は動けなかったし、土岐詮直も一族の惣領土岐頼益に攻められて敗北していました。南都・北嶺も、結局動きませんでした。
 11月29日、足利義満は、海上も含め、四方から総攻撃をしましたが、大内義弘の守りは堅く、攻撃は失敗しました。そこで、義満は、持久戦に持ち込むことにしました。
 12月21日、足利義満は、おりからの烈風を利用して、大竹束に火をつけて、城中の櫓にもたしかけ、火を放ちました。火は北風に煽られて、戸数一万を数えた堺の町を焼き尽くしました。
 大内義弘は、「われも思う存分戦って討ち死にし、名を後代に揚げん」と叫んで、敵陣に飛び込んで、武将として壮絶な最後を遂げました。
 大内義弘の弟大内弘茂は、自刃を止められ、足利義満に降伏しました。義満は、義弘の功績に応じて、弟弘茂に周防長門を与えました。ところが、山口で義弘の留守を預かっていた、義弘の弟大内盛見は、これを承知しませんでした。
 1400(応永7)年、大内弘茂は、幕府軍の応援を得て、周防・長門を奪還しました。
 1401(応永8)年、大内盛見は、豊後の大友氏の応援を得て、大内弘茂を殺害しました。その後、盛見は、安芸石見をも手に入れました。
 1404(応永11)年、幕府は、大内盛見の実力を確認して、周防・長門の守護職を与え、さらに豊前筑前の守護職も与えました。
 この項は『日本合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
本当の実力者は、苦言を呈しても生き残れる
 大内義弘は、権力者である足利義満にさえ、苦言を呈しています。「人間はいつかは死ぬ。死をおそれて、こそこそ生きるぐらいなら、死を覚悟で、信念を貫こう」という考えに支えられている。
 最後には、壮絶な死を遂げました。しかし、「われも思う存分戦って討ち死にし、名を後代に揚げん」という名は残しました。腹をくくった者の強さが、伝わってきます。
 今の時代に置き換えると、「人間はどうせ、会社を辞める。こそこそゴマをすったり、姑息に勤めるより、言いたいことを言おう、やりたいことをやろう」ということでしょうか。
 実力もつけないで、実績も積まないで、腹はくくれません。ある大手の会社の幹部の話です。「実力をつけて、いつでも辞めてやる覚悟の者ほど、会社には残って欲しい人材です。逆に、残りたいために、ゴマをする者ほど、会社には不要な人材です」。
 つまり、どの会社にでも、勤まる人間は、どの会社にとっても、有用な人材ということなんですね。
 山口市にある国宝の瑠璃光寺の五重塔は、応永の乱で亡くなった大内義弘の菩提を弔うために、弟の大内盛見が建立したといわれています。奈良の法隆寺・京都の醍醐寺の五重塔と共に、日本3名塔の1つとなっています。歴史を知って見れば、感慨も一入(ひとしお)です。
 若山牧水が21歳の時、瑠璃光寺の五重塔を見て詠んだ歌があります。
 「はつ夏の、山のなかなる、ふる寺の、古塔のもとに、立てる旅人」
系図の見方(山名氏、斯波氏、一色氏、将軍、細川氏、畠山氏、大内氏)
山名義範 重村 義長 義俊 政氏 時氏 氏清 宮田時清
斯波家氏 ……………………………… 義將
一色公深 ……………………………… 詮範 満範
義氏 泰氏 頼氏 家時 足利貞氏 ━━ 足利尊氏 義詮 義満
細川義季 ………………………………………… 頼元
畠山義純 …………………………………………………… 基国
大内弘盛 大内重弘 大内弘幸 大内弘世 大内義弘
大内満弘
大内盛見

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