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エピソード

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守護大名と国人一揆(自分の言葉で語ると)
 足利尊氏は、足利氏(将軍家)一門を諸国の守護に任命することで、幕府の体制を強化しました。
 一門の細川氏は、讃岐・土佐・阿波・伊予・丹波・摂津・和泉・淡路・備中9カ国の守護に任命されました。
 同じく一門の斯波氏は、越前・越中・陸奥・出羽・尾張・遠江6カ国の守護に任命されました。
 また、一門の畠山氏は、日向・伊豆・能登・紀伊・河内・山城6カ国の守護に任命されました。
 足利氏3家だけで、21カ国、全国の3分の1強を支配したことになります。
 土地としての広がりだけでなく、守護の権限を強化して行きました。
 源頼朝は、守護の基本として大犯三カ条を定めました(1185年)。
 貞永式目では、夜討ち強盗山賊などの逮捕を追加しました(1232年)。
 刈田狼籍(裁判を不満として、立稲を刈り取る)の検断が追加されました(1346年)。
 あわせて、使節遵行(判決を強制執行する権限)も追加されました(1346年)。
 半済令(荘園や公領の年貢の半分を軍費として調達する権限)を追加しました(1352年)。これは、期限は1年間、地域は近江・美濃・尾張3カ国という時限的・地域的な法律でした。しかし、武力を背景に、永久に、全国的に、しかも土地分割へと、守護の権限を強力にしたものに、変質していきました。
 強大な権限を武器に、守護は、荘園領主や公領から年貢を請け負うようになります。これを守護請といいます。このようにして、荘園・公領を支配下にいれて国全体に及ぶ地域的支配を確立します。また、荘園や公領の諸権利を新興の侍である国人に与えて、家臣化していきます。このような制度を守護領国制といい、守護領国制を確立した守護を、以前の守護と区別して、守護大名といいます。
 土地を一国支配し、侍を一国支配する制度が守護領国制といい、その制度を確立・維持する守護が守護大名です。
 惣村と一揆については、別項で詳しく説明します。ここでは、柳生郷(奈良県柳生町)のお地蔵さんに刻んである碑文を説明します。
 「正長元年ヨリ サキ者(以前は)カンヘ(神戸)四カンカウ(四か郷)ニオヰメ(負債)アルヘカラス」
 この史料から、たどたどしくはありますが、字が書ける人がいるということです。字が書けるとは、字を習う時間があるということです。字を習う時間があるとは、仕事ばかりせずとも、生活できる余裕があるということです。この余裕が、自分の努力で蓄えた財産を守るために、様々な工夫を創造します。
 工夫の1つが、一揆です。一揆の「揆」は「はかりごと」で、「一」は「一つにする」という意味です。はかりごとを1つにする、つまり、団結してはかりごとをする、ということになります。
 その団結を有効にするためにも、工夫をします。誰がリーダーで、誰が参加者か分からないような署名簿を作ったり、重要な決定は多数決を採用するなどです。以前になかったようなリーダーを国人といいます。国人をリーダーに農村では地域的連合を強化します。
 このように自立性が強い国人は、守護大名の領国支配に抵抗します。激しく抵抗する国人を、支配下に組み入れる守護が、守護大名として生き残れるのです。
歴史のダイナミズム
 権力者は支配を強化して、税の徴収を増やそうとします。当時は納税の義務という感覚はありませんから、納税者は、自覚するうちに、それに抵抗する。人間の歴史は、徴税と納税の歴史といっても過言ではありません。
 徴税者が、納税者を如何に支配するか。この支配に勝利したものが、その地域の、新しい支配者になれるのです。
 この時代の有名な守護大名は、赤松氏、大内氏、土岐氏、上杉氏、山名氏といえます。
義家
義親
義国



為義
義重

義康
━━━━━
新田氏祖

足利氏祖







義朝
義兼
義範
義兼



良清







頼朝
義房

義氏
義純


■■







頼家
政義

泰氏



義李






公暁
政氏

頼氏

公深
家氏




家氏

家時




朝氏

貞氏




義貞
(山名氏祖)
高氏

(畠山氏祖)
(一色氏祖)
(斯波氏祖)
(細川氏祖)
足利氏系図(源氏嫡流・足利氏・新田氏・山名氏・一色氏・斯波氏・細川氏)

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