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倭寇と勘合貿易 | |
1 | 倭寇の「倭」は日本のことです。それでは、「寇」はどう意味なのでしょうか。既に「元寇」という用語を学びました。これからは、「応永の外寇」という用語を学びます。 漢和辞典を引きますと、以下のようになっています。 (1)「あた」(仇)の転で、「うらみをいだいている相手。かたき。敵」とあります。 (2)「寇する」を引くと「侵入する」とあります。 (3)「寇掠する」は「他国に攻め入って金品などをかすめとること。攻めて奪い取ること」とあります。 つまり、「倭寇」とは、私の国にやって来て、金品を奪い取る日本の悪い奴ということになります。日本人が付けた名前ではないということです。 |
2 | では、どうして、日本人は中国や朝鮮へ行って、悪いことをしたのでしょうか。また、悪い奴と嫌われて日本人はどんな人だったのでしょうか。 |
3 | 室町時代の初期の貿易の状態を見てみましょう。 1325(正中2)年、建長寺を建立するために、建長寺船を出しています。 1341(観応4)年、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために、天竜寺を創建しました。この時、その費用を得るために天竜寺船を派遣しています。 この様に貿易船は細々と行われていました。 |
4 | その結果、倭寇が発生しています。倭寇と呼ばれた船は、日本の壱岐・対馬や肥前の松浦地方から出港しています。彼らは武装して、朝鮮や中国沿岸を襲い、人間を捉えては捕虜にしたり、米や大豆などの米穀を略奪しています。規模は、大きいものは300隻を連ねて襲撃しています。 |
5 | 1368年、朱元璋(太祖洪武帝)は、倭寇対策で弱体化した元を滅ぼし、明を建国しました。太祖洪武帝は、日本に対して倭寇の禁止と貿易の再開を要請しました。 1401(応永8)年、3代将軍足利義満は、遣明船を派遣しました。 この遣明船は、明が発行する勘合符(証票=検査済みの証明証)を持参して、寧波に入港して、査証を受けるという形式をとりました。そこで、この貿易を勘合貿易といいます。明は、この勘合符を100号まで発行して、室町幕府に与えました。 勘合形式は以下の方法を採用しています。中国から日本に来る船は「日字壱号」という勘合符を真二つに切った半券を持参します。 逆に、日本から中国へ行く船は「本字壱号」という勘合符を真二つに切った半券の右側を持参します。 寧波の港では、半券(「本字壱号」)の左側の底簿と合わせて勘(調べ)します。 |
6 | この勘合貿易は、膨大な収入を室町幕府にもたらしましたが、朝貢形式(従属国が明に朝貢するという形式)をとっていました。 1411(応永18)年、将軍足利義持は、この朝貢を恥辱として勘合貿易を中断しました。 1432(永享4)年、将軍足利義教は、勘合貿易を再開しました。 |
7 | 1523(大永3)年、寧波の港で、日本人が戦いという寧波の乱がおこりました。勘合貿易の実権をめぐって、博多商人を支配下に持つ守護大名の大内氏と、堺商人を支配下に持つ守護大名の細川氏が戦ったのです。この乱は、大内氏が勝利し、勘合貿易を独占することになります。 1551(天文20)年、周防・長門など6カ国守護の大内義隆は、陶隆房に滅ぼされました。その結果、勘合貿易が終わり、再び倭寇の活動が活発化しました。勘合貿易以前の倭寇を前期倭寇といい、勘合貿易以後の倭寇を後期和冦といいます。 後期倭寇は、日本人の占める割合は30%ほどで、頭目は中国人の王直です。しかし、『倭寇図巻』を見ると、頭は月代、足ははだし、膝が見える着物など、日本人として描かれています。 明は、北の女真人を「北虜」、南の倭寇を「南倭」とよび(北虜南倭)、その対応に苦慮し、明滅亡の1原因になったといわれています。 |
倭寇発生の原因と、倭寇になったのは誰?を探る | |
1 | 私の知人で、ヨットマンが2人います。1人は、「あらヨット」と冗談をいうヨットマンです。もう一人は、正真正銘のヨットマンです。時々、乗せてもらいます。最初は、船酔いして「酔っとマン」になり、苦しい体験をしました。 慣れて、海上のヨットからのんびり陸をみていると、陸上の動きがせせこましく、息苦しく感じました。 |
2 | これも、私の知人の話です。漁師の家に生まれましたが、大手企業の通訳になりました。社長のお供で海外に行き、レセプションでは、社長と同じ食事をするなど、優雅なサラリーマン生活を満喫していたはずです。50歳になる前にさっさと、退職して、漁師になりました。「海の男は、陸では生活できん」というのが彼のその時の言葉です。 |
3 | このことから分かるように、大海を相手に、自由を求める、海の男には陸の生活はできないのです。貿易も出来ないし、陸の仕事ができない男達が、海を相手に倭寇になっていったのです。 |
4 | 1588(天正16)年、豊臣秀吉は、「海賊取締令」を出しました。秀吉の偉いところは、禁止するだけでは、倭寇の活動を抑えることは出来ないことを知っていたのです。秀吉は、インドのゴアやフィリピンのマニラに手紙を出し、朱印船貿易を始めています。その結果、倭寇の活動は姿を消しました。 |