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エピソード

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日朝貿易(応永の外寇、三浦の乱)と琉球貿易
日朝貿易
 『高麗史』をみると、「、金州にす」という表現があります。まさに、日本の悪い奴という意味です。
 1380年頃、全羅道の巡問使である金先致は、倭寇藤経光をおびき寄せて殺害を図りました。それを察知した経光は、必死に海上へ逃げました。『高麗史』によると、それまでは倭が入寇しても人を殺し事はありませんでした。この事件以後、来襲するたびに、婦女子から幼児までを皆殺しにするので、全羅道・楊広道慶尚道の3道沿岸地帯の人々は沿岸を離れて仮住まいし、村々は荒廃して、「粛然一空」となってしまったと、書いています。
 倭寇が原因で、高麗は滅んだといわれる所以です。
 倭寇の根拠地は、「倭寇と勘合貿易」の項でも述べましたが、対馬は水田が全面積の3%ほど、壱岐はやや恵まれていますが、海上が生活の主な場所であることに変わりありません。彼らが、米や大豆を略奪した理由がここにあります。
 倭寇は、倉庫を襲い、米と大豆を奪います。ついで、操船を奪い、米と大豆を運びます。捕虜は、高麗から賞金を得るための人質として、重要な存在でした。
 1392年、李成桂は、倭寇で弱体化した高麗を滅ぼし、李氏朝鮮を建国しました。李成桂は、倭寇の禁止と貿易の再開を要請しました。
 1399(応永6)年、将軍足利義満日朝貿易を開始しました。ここに年1回の日朝貿易が実施されました。貿易に従事する者は、図書(朝鮮国王の銅の私印)を与えられた者と授職されたもの(朝鮮の官職を与えられた倭寇の首領)に限られました。しかし、日本の貿易活動が盛んになると、李氏朝鮮は貿易を制限しました。
 1418(応永25)年、対馬の宗貞茂が亡くなりました。その後を継いだ宗貞盛が幼少だったので、李氏朝鮮の貿易制限に対し、再び、倭寇は朝鮮に侵入するようになりました。
 1419(応永26)年6月、李氏朝鮮の太宗世宗は、「三島の倭寇」の根拠地である対馬への攻撃を決定しました。
 6月19日、李従茂は、船200隻と1万7000人と兵糧65日分の海軍を率いて、巨済島を経由してから対馬に向け出発しました。
 6月20日、李従茂軍は、対馬に上陸し、船を100隻奪い、民家2000戸に放火して、100人を殺害しました。
 6月26日、対馬の宗軍は、李従茂軍を破りました。
 この結果、日朝貿易が中断されました。この事件は、日本では、日本の年号をとって、「応永の外冦」といいます。朝鮮では、朝鮮の年号をとって、「己亥東征」といいます。
 1443(嘉吉3)年、対馬の宗氏を仲介として、1年に50隻という日朝貿易が再開されました。これを、日本では、日本の年号をとって「嘉吉条約」といいます。また、朝鮮では、朝鮮の年号をとって「癸亥条約」といいます。
 1474(文明6)年、三浦倭館恒居倭の統計があります。
 三浦とは、朝鮮の慶尚南道にあった乃而浦富山浦塩浦三港のことです。李氏朝鮮の太宗が乃而浦と富山浦を、ついで世宗が塩浦を、日本人の開港場に指定しました。
 三浦にある日本の接待施設を倭館といいます。
 また、朝鮮に滞在する日本人を恒居倭(朝鮮に恒に居る日本人)といいます。恒居倭の人数は、乃而浦に1277人、富山浦に323人、塩浦に131人にのぼります。対馬の宗氏は、倭館に代官を派遣していました。
 1510(永正7)年、この三浦で、三浦の乱がおきました。朝鮮では、三浦倭乱といいます。
 この頃、恒居倭が2000人にも増えました。一部の恒居倭は、李氏朝鮮の命令を順守せず、現地の官吏と対立するようになりました。
 新たに即位した中宗は、密貿易を取り締まるとともに日本人の貿易についても統制を強化しようとし、恒居倭の退去を要求し、倭船に対する監視を厳重にしました。これに不満をもった三浦の恒居倭は、対馬の援軍をまって、3000人が暴動をおこし、乃而浦と釜山浦を陥落させ、乃而浦防衛軍を撃破しました。
 しかし、朝鮮軍の反撃を受けて大敗し、ここに、恒居倭は三浦から追放されました。
 この乱の結果、日朝貿易も衰退しました。
 1512(永正9)年、壬申約条が結ばれて貿易は再開されました。しかし、日本人の三浦での居住は、認められることはありませんでした。
琉球貿易
 1429(永享元)年、中山王尚巴志は、3王国(中山国北山国南山国)を統一して、琉球王国を建国しました。それを記念して守礼門を造りました。今も観光の名所になっています。
 地理的条件を利用して、日本と東南アジアの中継ぎ貿易に活躍しています。
貿易のメリット、貿易従事者はマージナル・マン、日朝交流の成果
 松浦は、馬・硫黄・武具などの特産物や南方産の胡椒・丹木などを輸出し、朝鮮からは米・豆など穀物を輸入しています。
 九州の諸大名は、綿布・人参・虎皮、特に大蔵経を求めています。今川了俊は捕虜250人の代償に、大蔵経を求めています。
 東シナ海で貿易に従事する人を、言語・血族・風俗では区分できない「境界域に住む人々(マージナル・マン)」という人がいます。
 上松浦の那久野頼永の家来である楊吉は、中国人ですが、倭賊の捕虜となり、対馬に連れてこられました。そこを脱出して、那久野頼永の世話になりました。頼永に従って朝鮮にきました。そして、朝鮮に永住したいと申し出ましたが、明に送り帰されました。
 ここで見るように、海に生きる者たちは、海洋で結ばれた朝鮮半島や中国を自分達の世界と感じていました。国境は、「支配者が力関係で、自分の都合のよいように囲った」といえるのかもしれません。
 次に記事は、玄明哲(ヒョン・ミョンチョル)氏の『韓国における社会教育の現況』と題する論文の一部です。氏は序文に「日本史研究者として韓国の教科書に現れる日本に関連する記述を日本人の韓国観と比較しながら検証し、望ましい歴史の記述を提言していくことにする」と書いて、応永の外冦と三浦の乱を論じています。
 「応永の外冦(己亥東征)、つまり、李従武による対馬征伐について日本側の通説は『対馬の兵と台風に対する恐怖心により敗退した』と大きく取り扱っている。朝鮮について少しの敗北も是認しないと言う史観が見える。朝鮮が対馬征伐に先立って九州の多くの領主にその事実を知らせたことは無視され漏れている。何らかの意図があるように思われる」。
 「三浦の乱(三浦倭乱)についても、『日本と朝鮮との経済発展段階の差異は貿易面で反映され、1510年、朝鮮側の統制強化に不服な者が暴動が起こし…』となっており、二国間の歴史認識の差は深いと言うしかない」
 最近、一部の学者の間で、今までの歴史教科書を「自虐史観」と評して、自国の歴史を美化する風潮があります。自国の文化に誇りを持つことは大切なことです。しかし、それは、自国の文化に誇りを持つがゆえに、他国の文化にも敬意を表することが出来るのです。
 自国の文化を美化し、それが他国との関係でバランスが保たれなければ、ナショナリズムとなります。自国がナショナリズムになるということは、他国もナショナリズムになることであり、ナショナリズムの衝突は何をもたらすかは、歴史が証明しています。自虐史観もよくありませんが、自己満足史観では、国を滅ぼします。
 同じ事件・人物を扱っても、日朝、日中、日米で評価が違うことは、民族の不幸です。玄明哲(ヒョン・ミョンチョル)氏が指摘するように、お互いの歴史をつき合わせる作業をして、社会科学といえる歴史にしたいと思います。

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