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エピソード

084_01

徳政と正長の土一揆
 「徳政」という言葉について、中国では、支配者は「自然に人を敬服させ感化する力」を身に着けることを要求されてきました。法によって支配法治)するのでなく、徳によって支配(徳治・徳政)することが理想とされてきました。
 徳を字源的に見ると以下のようになります。「徳」の右は「真心」(本性のままの素直な心=良心)を意味し、左の「彳」は「行い」を意味します。
 徳政とは、支配者の「真心に基づいた行う政治」ということになります。
 日本では、支配者の交代時には善政を行うという観念がありました。恩赦という考えに通ずる観念でしょうか。これを「代始めの徳政」といいます。
 鎌倉時代の永仁の徳政令が最初です。非御家人凡下(庶民)の質取・買得地を無償で本主(御家人)に返えさせました。
 室町時代、公家などの日記に、「土民」とか「地下」と記録されているのは、惣村の土豪や農民のことです。惣村では地下請が認められており、土倉など高利貸に借金をして、税を納める場合がありました。徳政一揆の要求が、年貢の減免ではなく、高利貸への債務の破葉であったのはこうした背景があったからです。
 1392(明徳3)年閏10月、南朝の後亀山天皇が北朝後小松天皇に譲位しました。そして、後亀山上皇は、吉野より京都に帰りました。ここに南北朝の合体がなりました。これを明徳の和約といいます。
 1410(応永17)年、明徳の和約違反を知った後亀山上皇は、吉野に脱出しました。これを後南朝の始まりといいます。
 1412(応永19)年8月、後小松天皇が譲位し、北朝の称光天皇が即位しました。
 1414(応永21)年、北畠満雅は、後亀山上皇に応じて、伊勢で挙兵します。
 1423(応永31)年3月、将軍足利義持が退位しして、足利義量が将軍となりました。
 1425(応永33)年2月、将軍足利義量が亡くなりました。
 1428(応永35)年1月、元将軍足利義持が亡くなり、くじ引きで次期将軍に足利義教が決まりました。
 4月、年号が応永から正長に変りました。この頃、全国的な飢饉もあり、そのうえ三日病という疫病が流行して社会不安が増していました。
 1428(正長元)年5月、伊勢の北畠満雅実仁親王小倉宮。父は後亀山天皇)を奉じました。くじ引き将軍の決定に不満な鎌倉公方である足利持氏は、北畠満雅を支援しました。
 7月、北朝の称光天皇が亡くなり、北朝の後花園天皇が即位しました。皇位継承を期待した南朝の小倉宮は、この即位に不満で、北畠満雅軍と合流して、挙兵しました。
 8月、こうした不穏な情勢を利用して、近江の坂本・大津の馬借が徳政を要求しました。
 9月18日、京都醍醐の地下人が徳政と号して蜂起しました。この一揆は、幕府に徳政を強要し、高利貸である土倉酒屋寺院などを襲い、借用証文を奪って焼き捨てたりしています。幕府の徳政令を待たずに徳政を実行したのです。これを私徳政といいます。『大乗院日記目録』は「土民が徳政すなわち債権の破棄を求め、酒屋・土倉など高利貸を襲撃した」「日本の歴史始まって以来、土民の蜂起はこれが初めである」と記録しています。
 この騒動に対して、細川氏が数百騎を率いて醍醐に出陣し、赤松氏も200騎率いて山科に陣どったったので、一揆は沈静化しました。。
 しかし、京都から大和など畿内に土一揆は拡大しました。大和では、守護権を握る興福寺が徳政令を出しています。奈良市柳生町の柳生街道筋の疱瘡地蔵の石仏の碑文は、神戸4カ郷の農民がこの時の債務の破棄を記念して刻んだものでです。「正長元年ヨリサキ者 カンへカンへ四カンカウニ ヲ井メアルヘカラス」と記るされています。また、「日本国ノコリナク御得政ナリ」という記録からいかに多くの国に拡大しているかが伺えます。
 11月下旬、幕府は、徳政を求める一揆の要求を最終的に退けました。
農民を土民という感覚
 徴税する側は、納税する農民を「土民」と呼んでいます。「土着の住民」という意味ではありません。百姓仕事をして、太陽と過酷な労働で「土のような肌になっている民」のことでしょう。ここには、一顧の感謝の気持ちもありません。
 ヨーロッパでの話です。ある王様が狩から家路に急いでいた時、土かと思ったら動いている者を見ました。「これが、農民というものか」と言ったといいます。 
 正長の土一揆に出くわした興福寺の門跡寺院大乗院の27代門跡尋尊が書いた年代記が『大乗院日記目録』です。原文は以下の通りです。「天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑物等恣にこれを取り、借銭等悉くこれを破る。管領これを成敗す。凡そ亡国の基、これに過ぐべからず。日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり」
 尋尊は大荘園領主です。徴税する側の人間です。納税する人間を土民と評しています。彼らがあって初めて、優雅な生活が出来ることを分かっていません。彼らのしたことを、「これ以上、国を滅ぼす元凶はない」と言っています。国ではなく、自分の生活を脅かす元凶はないと言い直すべきでしょう。
 税をとる者と、とられる者の戦いの過程を、人間の歴史と考えてもいいかもしれません。
 税金はどう納められ、どう使われているか。民主的に徴税され、民主的に使用される社会に向かって進んでいる歴史かもしれませんね。
 愛国心を説く政治家や官僚が、不始末をすると、「妻が…」「秘書が…」と責任を転嫁する。真に愛国心を説くものは、部下の不始末は「自分の不始末」と潔かったものです。
 国を愛せよと言わず、「私(政治家や官僚自身)の生活を愛せよ」と言い換えるべきです。情けない!!
系図の見方(将軍、鎌倉公方)
赤橋登子
‖━ A足利義詮 日野栄子
@足利尊氏 ‖━ B足利義満 ‖━ D足利義量
紀 良子 ‖━ C足利義持
藤原慶子 E足利義教
@足利基氏 (鎌倉公方)

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