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エピソード

084_02

播磨の土一揆と、嘉吉の徳政一揆
播磨の土一揆
 1428(正長元)年11月、京都でおこった一揆は、大和から畿内一円に、そして、播磨に飛び火しました。
 1429(永享元)年2月、播磨各地で一揆が発生しました。公家の中山定親は『薩戒記』で、次のように記録しています。
 「播磨国の土民が、去年の冬の京都と同じように、蜂起しました。国中の侍をことごとく攻めたので、荘園の代官や守護方の軍兵が、土民らに、殺されたり、追放されました。一国の騒動としては、世にもめずらしい例であるという。土民らは『侍を播磨にはおかない』といっている。乱世が来てしまったといえる。このため、播磨の守護である赤松満祐が、京都から出陣していきました」
 納税者の土民(農民)は、「徴税者の侍はいらない」という宣言をしています。もう1つの徴税者側の公家は、これを「乱世の至り」と表現するだけで、実行力がないので、赤松氏の出陣を見守っています。
嘉吉の徳政一揆
 1441(嘉吉元)年6月、播磨の守護赤松満祐は、将軍足利義教を暗殺しました。これを嘉吉の乱といいます。この項については、別の項で述べます。
 8月末、遅れていた赤松追討軍は、京都を出陣していきました。その留守を狙ったように、土一揆は、まず、近江で始まりました。守護六角氏は、その勢いに屈して、徳政令を出してしまいました。
 その話が京都に伝わると、土一揆は、徳政と号して京中に攻め込んできた。清水坂で京極氏の軍勢と合戦をしています。
 9月、その勢いはますます大きくなり、東寺に立て籠もった一揆勢は、その数3000人ともいわれています。今西宮に1000人、西八条に1000人、北野・太秦などに3000人が立て籠もりました。一揆の陣はすべてで16カ所にものぼりました。
 京都の酒屋土倉は、1000貫文の賄賂を管領の細川持之に贈って土一揆の鎮庄を頼みました。しかし、留守を預かる侍所の侍などは、一揆の勢いが盛大なので、手が出ませんでした。やむなく、管領細川持之は、1000貫文を土倉に返したという話が残っています。
 一揆側は、徳政令を要求し、「要求が認められなければ京都をを焼き払う」とおどしました。幕府は、当初「土民限り」の徳政令を出そうとしましたが、一揆側は、この案を拒否しました。
 9月12日、幕府は、一国平均徳政令を出しました。その内容は、(1)質物の取戻し(2)債務証書の破棄でした。しかし、一揆は、永代沽却地・年紀契約地を含めた徳政令を要求しました。
 閏9月10日、幕府は、これらを認める天下一同の徳政令を出しました。その内容は、(1)永代沽却地は20年未満ならば本主へ返す(2)ただし凡下は領主の計に任す(3)幕府の安堵を受けた地・売寄進地・祠堂銭は徳政対象としない、というものでした。
 1442(嘉吉2)年、細川持之は、この事件により管領を辞任し、後任に、将軍足利義教の不興をかって河内に左遷されていた畠山持国が就任しました。
 公家の萬里小路時房は、『建内記』で、荘園領主側を代表して、次に様に記録しています。
 「侍所の武士が大勢で防いだが、一揆側は引き上げない。土民らは、将軍の交替期に徳政を出すのが先例だと言っている。これは言語道断で、許せないことである」
徳政令を出した一揆が、徳政一揆
 正長の土一揆と嘉吉の徳政一揆との違いは、幕府が徳政令を出したか否かにあります。徳政令を出した一揆徳政一揆と呼びます。だから、嘉吉の土一揆を嘉吉の徳政一揆というのです。
 正長の土一揆に時に、徳政令を出さなかった幕府が今回は、どうして発布したのでしょうか。まず、徴税者側の問題があります。権力の象徴である将軍が暗殺される下剋上であったこと、将軍暗殺という大罪者への追討が遅れたように、実力者の間に対立があったことなどが考えられます。
 次に、一揆側の問題です。正長の土一揆のころより、一段と戦術が高度化していること、また目的を達するまでの連帯が維持されていたことなどが挙げられます。
 いつの間にか、土民と侮っていた土豪・農民が、幕府や武力のプロと対等に、戦い、交渉できる智恵と技術を磨いていたのです。
 公家の中山定親は『薩戒記』の原文です。「或る人日く、播磨国の土民、旧冬の京辺の如く蜂起す。国中の侍悉く攻むるの間、諸庄園代官これに加わる。守護方軍兵彼等のため、或は命を失い、或は追い落さる。国の騒動、希代の□法なりと云々。およそ土民侍をして国中にあらしむべからざる所云々。乱世の至なり。よりて赤松入道発向しおわんぬ」
  播磨の土一揆は、この国には侍はいらないと宣言しています。自治的な考え方です。今まで、こんな元気な農民はいませんでした。
 これも公家の萬里小路時房の『建内記』の原文の一部です。「(嘉吉元年九月)三日、向辺の土民蜂起す。土一揆と号し、御徳政と称して、借物を破り、少分を以て押して質物を請く。……侍所、多勢を以て防戦するも猶承引せず。土民数万の間、防ぎ得ずと云々。……今土民等、代始に此の沙汰は先例と称すと云々。言語道断の事なり
  こちらの思惑で徳政を出すことはあっても、「たかが土民が」徳政を要求することは、絶対に許せないのです。土民は民主主義的な考え方を持っています。しかし、公家の考えは、民主主義とは相容れないです。当時なら、当然ですね。
系図の見方(山名氏、斯波氏、一色氏、将軍、細川氏、畠山氏)
義重 義節 重国 重村 政氏 時氏 時義 時煕 持豊
家氏 ………………………… 義將
公深 ………………………… 詮範 満範
義康 義氏 泰氏 頼氏 @尊氏 A義詮 B義満 C義持 D義量
E義教
義季 俊氏 頼之 頼元 持元
持之 勝元 政元
義純 泰国 時国 貞国 義深 基国 満家 持国

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