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エピソード

085_01

くじ引き将軍足利義教と、永享の乱
上杉禅秀の乱
 1350(観応元)年、観応の擾乱が始まりました。足利尊氏の嫡子足利義詮が、鎌倉から上洛しました。義詮の弟足利基氏が、鎌倉を守護しました。
 足利尊氏は、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・甲斐・伊豆の関東10カ国を足利基氏に支配させました。これが鎌倉府鎌倉公方の起源です。
 1363(貞治2)年、足利基氏は、越後守護上杉憲顕を執事に任命しました。これが関東管領の起源です。上杉氏は、山内犬懸扇谷詫間の四家に分かれていました。
 1379(康暦元)年、2代鎌倉公方足利氏満は、細川頼之斯波義將のが対立を利用して、3代将軍足利義満打倒を計画し、2代目関東管領の上杉憲春に諌められています。
 1399(応永6)年、3代鎌倉公方足利満兼は、大内義弘応永の乱を利用して、3代将軍足利義満打倒を計画し、3代目関東管領の上杉憲定に諌められています。憲定は山内家です。
 1409(応永16)年、4代鎌倉公方に足利持氏(12歳)が就任しました。4代将軍足利義持の「持」の一字を与えられる関係でした。
 1411(応永18)年、4代関東管領に上杉氏憲上杉禅秀)が就任しました。氏憲は犬懸家です。
 1415(応永22)年、野心家の足利持氏(18歳)は、常陸の越幡氏の所領をささいな理由で没収しました。越幡氏は犬懸上杉氏の家人なので、上杉氏憲(上杉禅秀)はこの処置に反対しました。しかし、持氏が拒否したので、禅秀は辞職しました。そこで、5代関東管領に山内の上杉憲基が就任しました。
 京都では、将軍足利義持の弟足利義嗣が、兄足利義持を打倒しようとして、上杉禅秀に挙兵を持ちかけました。禅秀は、「鎌倉公方」を条件に、足利持氏の叔父足利満隆とその養子足利持仲(持氏の弟)に挙兵を働きかけました。
 1416(応永23)年、上杉禅秀は、足利持氏を襲撃しました。これを上杉禅秀の乱といいます。今川憲政は、これを京都に報告しました。足利義持は、今川憲政と越後守護上杉房方に禅秀の討伐を命じました。
 1417(応永24)年、戦いに敗れた上杉禅秀は、一族42人と共に自害し、足利満隆・足利持仲父子も自害しました。
永享の乱
 1423(応永30)年、山内上杉房方の子である上杉憲実上杉憲基の養子)は、6代関東管領に就任しました。
 3月、足利義持は、将軍職を嫡子足利義量に譲りました。しかし、実権は、義持が握っていました。
 1425(応永33)年、足利義量(19歳)が亡くなりました。義量には子供がいませんでした。
 1428(正長元)年、前将軍足利義持は、後継も決めずに、亡くなりました。三宝院満済ら重臣は、義持の弟4人の中から、石清水八幡宮神前で、クジで将軍を選ぶことにしました。その結果、青v院門跡義円が後継に決まり、還俗して6代将軍足利義教となりました。
 5月、足利持氏は、自分が将軍に迎えられると期待していました。しかし、足利義教が将軍になると、持氏は「還俗将軍」と軽蔑し、上洛を企てて、上杉憲実に諌められました。
 1432(永享4)年、足利義教は、将軍の権力強化をはかって、従来の合議制を廃止しました。富士遊覧と称して、駿河に下向し、足利持氏を徴発しました。
 1435(永享7)年、足利持氏は、上杉憲実の進言を無視して、反持氏派の佐竹氏らを攻め、憲実を京都と通じていると疑うようになりました。
 1436(永享8)年、足利持氏は、信濃の争いに兵を出しました。この時、「真の目的は関東管領上杉憲実を討つことにある」という噂が流れました。
 1438(永享10)年6月、足利持氏の嫡子賢王丸が元服するとき、上杉憲実は「慣例にしたがって将軍足利義教から一字与えられるよう」に進言しました。しかし、持氏は、これを無視して、元服式を強行したので、憲実は急病といって欠席しました。
 8月、上杉憲実は、身の危険を察知して、一族と共に領国の上野に退去し、幕府に援軍を求めました。足利持氏は、武蔵の高安城に本陣を布きました。幕府は、持氏討伐を決定しました。ここに、永享の乱が始まりました。
 9月、今川範忠らは、足利持氏側の上杉憲直らを破りました。上杉禅秀上杉氏憲)の次男上杉持房は、相模で今川勢と合流しました。
 10月、上杉憲実は、武蔵の分倍河原に布陣しました。三方を敵に囲まれた足利持氏は、鎌倉に帰ろうとしましたが、鎌倉の留守を預かっていた三浦時高が裏切ったので、憲実の家老長尾景仲を頼りました。
 上杉憲実は、足利義教に対して、足利持氏の助命とその子足利義久の鎌倉公方の就任を嘆願しました。
 1439(永享11)年、足利持氏に対して悪意を持つ足利義教は、上杉憲実に持氏殺害を命じました、憲実は、持氏に自害を進めましたが、持氏と足利義久は、討って出て、自刃して果てました。
財産をともなう権力者は、どうして欲に走り滅亡するのでしょうか
 人間の本能に、食欲・性欲などの本能的欲求のほかに、皆に認めてもらいたいという社会的欲求もあります。恥ずかしながら、この年になっても、誉められるのは嬉しいものです。
 あるお年寄りから聞いた話です。敬老の日に、孫の小学校へ招待されて、受動的に、歌や踊りを見たといいます。しかし、小学生に、水鉄砲やコマ作りを教えたときの方がよっぽど楽しかったといいます。
 つまり、自分の存在を認めてもらったことを喜んでいるのです。
 生まれながらに、家臣から、自分の存在を認められている権力者にとって、何でも手に入ると思っているのでしょう。
 人を不幸にしても、家臣は耐えます。それを当然と思っています。次々の欲望を叶え、人を次々と不幸にして、最後に非業の死を遂げます。悲しい歴史の途中です。
系図の見方(関東管領、上杉氏、将軍家、北条氏、鎌倉公方)
憲房 上杉憲藤 朝宗 C氏憲 (上杉禅秀) 犬懸上杉氏
@憲顕 憲方 B憲定 D憲基 E憲実 山内上杉氏
A憲春
上杉重兼 詫間上杉氏
重顕 扇谷上杉氏
摂津能秀の娘
上杉重房 上 杉 頼 重 清子 紀良子 ‖━ 義嗣
‖━ @尊氏 ‖━ B義満
北条泰時の娘 ‖━ 家時 貞氏 ‖━ A義詮 ‖━ C義持
‖━ 頼氏 赤橋守時 北条登子 藤原慶子 ‖━ D義量
足利義氏 日野栄子
E義教
一色範直の娘
@基氏 ‖━ C持氏 ━┳ 義久
‖━ A氏満 B満兼 持仲 成氏
畠山家国の娘 養子
足利満隆 持仲

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