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エピソード

085_02

くじ引き将軍足利義教と、結城合戦、嘉吉の乱
結城合戦
 1439(永享11)年、永享の乱で実権を握った上杉憲実は、突如、関東管領の職を辞任しました。そして、憲実の嫡子が成人するまでという条件で、憲実の弟上杉清方を越後から迎えて、関東管領代に任命しました。
 1440(永享12)年3月、下総の結城氏朝は、足利持氏の子足利義久の弟三児(安王春王永寿王)を奉じて挙兵しました。これを結城合戦といいます。
 関東管領代の上杉清方は、京都に報告するとともに、長尾景仲らに結城討伐を命じました。
 4月、上杉清方は、扇谷上杉持朝と共に進軍しました。将軍足利義教は、隠居している上杉憲実に出陣を命じ、上杉持房を総大将として京都を出発させました。
 7月、上杉清方と上杉持房は、結城に着陣し、兵糧攻めを採用しました。
 1441(嘉吉元)年4月、上杉清方らは、大風を利用して、城内に火を放ちました。安王・春王兄弟は、女装して城を脱出しようとしましたが、長尾景仲の家来に捕まってしまいました。これを知った結城氏朝は自害し、結城城は陥落しました。
 5月、安王(13歳)・春王(12歳)の兄弟は、京都に護送される途中、将軍足利義教の命で、美濃の垂井で殺害されました。
 6月、将軍足利義教は、赤松満祐に暗殺されました。先に、捕まっていた永寿王(6歳)は、年少ということもあり、この混乱により、罪が不問にされ、その後は、管領細川持之に育てられました。
 1449(宝徳元)年、永寿王(14歳)は、関東鎮撫のために、鎌倉に出発しました。彼は、後に、古河公方足利成氏となります。
嘉吉の乱
 将軍足利義教は、「くじ引き将軍」とか「還俗将軍」とかいう噂に負い目を感じたのか、何事にも高圧的な態度をとることがありました。
 足利義教は、永享の乱では、鎌倉公方足利持氏の助命を許さず自害させ、それを批判した大覚寺門跡義昭(足利義教の弟)を殺害しました。また、義教は斯波・畠山・今川・山名氏などの家督相続にも介入しました。その上、義教は、山門派の延暦寺とも対決し、交渉に来た山門の使者を斬首したばかりか、根本中堂に放火しました。これを山門騒動といいます。
 足利義教は、相手がニコッと笑っただけで、所領を没収し、閉門を命ずるなど、日常茶飯事でした。
 伏見宮貞成親王後花園天皇の父)は、足利義教について、「万人恐怖、言うなかれ、言うなかれ」と記しています(『看聞日記』)。義教の異常な恐怖政治の実態が読み取れます。
 1440(永享12)年、将軍足利義教は、赤松満祐の弟赤松義雅の所領を没収し、赤松貞村に与えました。
 満祐は、いよいよ自分が狙われる番だと思ったのか、「殺される前に殺そう」と決意を固めました。そして豪壮なお成り屋敷(祝いのために、将軍を迎えるための屋敷)を作り始めました。
 1441(嘉吉元)年6月24日、将軍足利義教は、結城合戦の勝利を祝して、新築なった二条西洞院にある赤松満祐第に招待されました。酒宴が最高に盛り上がった頃、何匹もの馬が暴れ廻り、騒然となりました。その場の者が、馬の方に気を取られている一瞬のスキに、将軍義教は暗殺されました。
 赤松満祐の狙いは将軍足利義教のみだったのか、管領の細川持之や侍所別当の山名持豊らは、脱走することができました。
 伏見宮貞成親王は、『看聞日記』で、「自業自得の果て、無力のことか。将軍のかくのごとき犬死に、古来その例を聞かざることなり」と記しています。
 6月25日、赤松満祐は、京都で幕府軍と戦う決意を固めていました。しかし、幕府が追討軍を送らないと分かると、満祐は、国元の播磨で戦うことに変更し、自邸に火を放ち、播磨に下っていきました。
 他方、赤松満祐の家臣は、播磨に逃げ延びる途中、将軍足利義教の首級が邪魔になり、摂津の崇禅寺に投げ捨てたといいます。
 6月26日、足利義勝が将軍になりました。わずか8歳でした。
 7月28日、山名持豊を総大将に、赤松追討軍が京都を出発しました。事件から1ヶ月以上も、経過していました。
 9月5日、山名持豊は、自領の但馬から播磨の坂本(書写山の麓の村)にある坂本城を攻略しました。
 9月10日、赤松満祐は、揖保郡の城山城に逃げ込みました。山名持豊は、海から室津に上陸し、城山城を攻略しました。満祐は、弟の赤松義雅と共に自害しました。
乱世に生き残る山名氏・赤松氏
 赤松満祐の本拠播磨は、私の住んでいるところなので、地域史としても関心があります。
 将軍義教の首を挙げた人の末裔が、私の同僚の音楽の先生だったのにはびっくりしまいた。
 山名持豊の本拠が但馬です。私が住んでいる所が兵庫県です。播磨の北が但馬です。山名・赤松両氏は、境界を接しているだけに、骨肉の争いを度々してきました。山名氏が、赤松氏の討伐に最も熱心だった背景には、以上のような事情もあります。
 山名持豊は、赤松満祐を滅ぼした結果、今までの但馬・伯耆・因幡に加え、赤松氏の播磨・備前・美作を手中の収めました。
 六分一殿といわれた山名氏は、明徳の乱で衰退しましたが、持豊(宗全)の時代には、山名氏は再び甦りました。平和時での生き残りは、別にあると思います。しかし、乱世時の生き残りをしる1つの手がかりは山名氏にあるのではないでしょうか。
 1444(文安元)年、幕府は、赤松氏の分家筋である赤松満政に東播磨3郡を与えました。しかし、山名持豊は、これを警戒して、3郡を取り上げました。
 1457(長禄元)年、後亀山天皇の末裔の王子2人が殺害され、神器が強奪されました。殺害・強奪をしたのは、赤松氏の旧臣でした。1年がかりの計画でした。
 幕府は、赤松法師丸の家督を認め、加賀半国の守護に任命しました。
系図の見方(関東管領、上杉氏、将軍家、北条氏、鎌倉公方、新たに登場の人物)
憲房 上杉憲藤 朝宗 C氏憲 持房 犬懸上杉氏
@憲顕 憲方 B憲定 D憲基 E憲実 山内上杉氏
A憲春 F清方
上杉重兼 詫間上杉氏
重顕 朝定 顕定 氏定 持定 持朝 扇谷上杉氏
摂津能秀の娘
上杉頼重 清子 紀良子 ‖━ 義嗣
‖━ @尊氏 ‖━ B義満
家時 貞氏 ‖━ A義詮 ‖━ C義持
赤橋守時 北条登子 藤原慶子 ‖━ D義量
日野栄子
E義教
‖━ F義勝 義久
日野宗子 安王
一色範直の娘 春王
‖━ C持氏 永寿王(成氏)
@基氏 A氏満 B満兼 持仲

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