085_03
享徳の乱(鎌倉公方と関東管領の対立) | |
1 | 1447(文安4)年、足利持氏の遺児永寿王(14歳)は、鎌倉公方を継いで鎌倉に下向しました。これが足利成氏となります。しかし、足利成氏は、父の足利持氏を殺害した上杉家を憎んでおり、関東管領の上杉憲忠(父は上杉憲実)との関係は修復できませんでした。 山内上杉氏では、上杉憲忠が若かったので、長尾景仲が関東管領代として、諸事を執行していました。扇谷上杉氏では、上杉持朝が上杉憲実側の中心だったので、家督を嫡子の上杉顕房に譲っていました。顕房が若かったので、太田資清が諸事を執行していました。南関東が基盤です。 他方、足利成氏は、反上杉側の結城・小山・宇都宮・佐竹・千葉の奉公衆らと結び、北関東を基盤としていました。 |
2 | 1450(宝徳2)年、上杉氏の有力家臣である長尾景仲・太田資清らは、足利成氏の御所を襲撃しました。これを江ノ島合戦といいます。この時、千葉氏は、成氏側に参陣しています。この戦で、長尾一族の所領が没収されました。上杉憲忠は、「これは、家人の企てなので…」と成氏に訴え、和睦が成立しました。 |
3 | 1454(享徳3)年、和睦が成立したので、関東管領の上杉憲忠は、長尾一族の所領を返すよう嘆願しましたが、鎌倉公方の足利成氏は許可しませんでした。そこで、長尾景仲は寺社の所領を奪って、一族に与えました。 そこで、足利成氏は、上杉憲忠に景仲の処罰を求めましたが、今度は、上杉憲忠が無視しました。 12月、上杉側の陰謀が密告されると、足利成氏の命を受けた多賀谷氏家が主家の結城成朝と共に300騎を率いて、突如、上杉憲忠邸を襲撃しました。憲忠主従22人は、防ぎきれず、全員討ち死にしました。ここに30年間にわたる享徳の乱が始まりました。 上杉側は、京都に使いを送り、「足利成氏討伐軍」の派遣を要請しました。足利成氏も「京都に対しては、謀叛の気持ちはありません」と釈明の使いを送りました。幕府は、「足利成氏が私的な宿意によって上杉憲忠を討った」として、足利成氏討伐を決定しました。 |
4 | 1455(康正元)年1月、足利成氏は、1000騎を率いて、高安寺に進みました。これを知った上杉方は2000騎を率いて、分陪河原に進軍しました。足利成氏は、「火が出るほどに攻めた」ので、上杉憲秋(父は上杉禅秀)は重傷を負って高旗寺(今のの高幡不動)で自害しました。 6月、足利成氏は上杉軍との戦闘のため下総古河に入りました。その隙に、追討軍の駿河の守護今川範忠の軍が、鎌倉に乱入し、御所や神社仏閣をことごとく焼き払いました。鎌倉は、これ以降、復興されることはありませんでした。 足利成氏は、鎌倉を回復できず、古河を居所としました。これが古河公方の起源です。房総3国は、古河公方となった足利成氏の勢力圏となりました。足利成氏は、幕府の改元に従わず、享徳年号を使い続けました。 |
5 | 1457(長禄元)年10月、将軍足利義政は、代々九州探題の家柄だった渋川義鏡を大将として、関東へ出兵させました。名門の関東下向にも、足利成氏を裏切る者はいませんでした。 12月、将軍足利義政の弟で天竜寺僧香厳院殿を還俗させました。これが足利政知(23歳)です。 |
6 | 1458(長禄2)年、幕府は、足利成氏討伐のために、新しい鎌倉公方である足利政知(将軍足利義政の弟)を派遣しました。しかし、足利政知は、先に派遣した渋川義鏡と上杉氏の対立などがあり、鎌倉には入れず、伊豆北条の堀越にとどまりました。これが堀越公方の起源です。2人の鎌倉公方が存在するようになりました。 |
7 | 1473(文明5)年、扇谷上杉氏では、上杉定正が当主となりました。執事は、太田道灌です。 山内上杉氏の当主は、上杉顕定です。執事は、長尾忠景です。 |
8 | 1476(文明8)年、身内の反乱に危機感を抱いた上杉氏は、足利成氏との和睦をはかりました。しかし、千葉孝胤は、武蔵千葉氏への思惑から和睦に反対し、長尾景春(山内上杉氏の執事長尾忠景の甥)に味方しました。 1479(文明11)年、扇谷上杉氏の執事太田道灌は、千葉孝胤を攻撃しました。 |
9 | 1482(文明14)年、幕府は、足利成氏と和睦しました。 |
享徳の乱は、「下剋上」のはじまり | |
1 | 享徳の乱ほど、詳細に調べると、訳の分からない乱はありません。私の勉強不足が第一の原因です。と同時に、入り組んだ人間関係が、理解を遠ざけています。今日の友は、明日の敵という感じです。まさに戦国の世、下剋上の至りです。 |
2 | 実際、2人の鎌倉公方が存在しています。「下剋上」のはじまりと、いえるのではないでしょうか。 |
* | 系図の見方(■関東管領・上杉氏、■将軍家、■北条氏、■鎌倉公方、■堀越公方、■古河公方) |
┏ | 憲顕 | ||||||||||||||
┏ | 上杉憲藤 | ━ | 朝宗 | ━ | C氏憲 | ┻ | 持房 | (犬懸上杉氏) | |||||||
┗ | @憲顕 | ┳ | 憲方 | ━ | B憲定 | ━ | D憲基 | ━ | E憲実 | ━ | 山内憲忠 | ━ | 房顕 | ━ | 顕定 |
朝定 | ━ | 顕定 | ━ | 氏定 | ━ | 持定 | ━ | 持朝 | ┳ | 扇谷顕房 | |||||
┗ | 扇谷定正 | ||||||||||||||
紀良子 | |||||||||||||||
@尊氏 | ‖━ | ━ | B義満 | ||||||||||||
‖━ | ┳ | A義詮 | ‖━ | ┳ | C義持 | ||||||||||
北条登子 | ┃ | 藤原慶子 | ┃ | ‖━ | ━ | D義量 | |||||||||
┃ | ┃ | 日野栄子 | |||||||||||||
┃ | ┃ | 斉藤朝日氏 | |||||||||||||
┃ | ┃ | ‖━ | ━ | 足利政知 | (堀越公方) | ||||||||||
┃ | ┗ | E義教 | ┏ | F義勝 | |||||||||||
┃ | ‖━ | ╋ | G義政 | ||||||||||||
┃ | 日野重子 | ┗ | 義視 | ||||||||||||
┗ | @基氏 | ━ | A氏満 | ━ | B満兼 | ━ | C持氏 | ━ | 足利成氏 | (古河公方) |