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エピソード

086_01

応仁の乱=応仁・文明の乱(細川勝元と山名宗全=宗全)
応仁の乱の背景
畠山家
 1448(文安5)年、畠山持国は、細川勝元と交互に管領になるほどの実力者です。持国は、畠山政長(畠山持国の弟の畠山持富の子)を養子にして、次の家督に指名していましたが、自分に子供が生まれたので、自分の子畠山義就を跡目としました。政長と義就との関係は、法的には兄弟で、実際には従兄弟となります。
 1455(享徳4)年、畠山持国は、火種を残して、亡くなりました。
 1460(長禄4)年、反畠山義就派は、細川勝元の支援を受け、畠山持富の子畠山政長をかついで巻き返しを図り、将軍足利義政を動かして、家督を政長に譲りましたした。
 1464(寛正5)年、畠山政長は、細川勝元に代わり管領に就任しました。一方、畠山義就は、幕府軍の攻撃を受け、河内の岳山城でこれをしのいだ後、吉野山中で再起の機会をうかがいました。
側室
‖━ 畠山義就 支援 山名宗全
畠山満家 畠山持国
‖━ 畠山政長 支援 細川勝元
正室 養子
畠山持富 畠山政長
将軍家
 1464(寛正5)年11、男子のいない将軍足利義政は、弟の浄土寺門跡義尋を訪ねました。義尋は、義政の妾腹の弟で、出家しており、将軍になる気はありませんでした。しかし、義政は、将軍継嗣を約束し、「今後自分に男子が生まれても僧籍に入れる」とまで断言しました。
 12月、義尋は、還俗して足利義視と改称し、足利義政の養子になりました。細川勝元は、管領を辞職していましたが、その後見人になりました。
 1465(寛正6)年11月、足利義政の妻の日野富子は、足利義尚を産むと、足利義視を排斥しようと、細川勝元と対立する山名宗全山名宗全)を頼りました。義視と義尚の関係は、法的には兄弟で、実際には叔父・甥の関係となります。
 1466(文正元)年9月、足利義尚の養い親の伊勢貞親は、相国寺の季瓊真蘂(黒衣の宰相と呼ばれた幕政の実力者)と共に、足利義視の悪口を足利義政に告げ口し、果ては殺害まで計画したといいます。義視の後見人である細川勝元と、伊勢貞親と対立する山名宗全らは、伊勢貞親誅罰を決めました。伊勢貞親らは、近江に逃亡しました。 
足利義教 足利義勝
‖━ 日野富子
日野重子 ‖━ 足利義尚 支援 山名宗全
足利義政 足利義視 支援 細川勝元
養子
足利義視  ┛
細川勝元と山名宗全
 細川氏は、一族内の内紛もなく、幕政の実権を握り、畿内・四国・山陽に8カ国の守護分国を保持していました。
 山名氏は、嘉古の乱で播磨など3カ国を加え、8カ国の守護分国を持つ有力守護となっていました。山名宗全(山名宗全)は侍所頭人を務めるなど、次第に、細川勝元と幕政の主導権を争うようになりました。宗全は養女を勝元と結婚させる一方、畠山氏の内紛では義就派につきました。
山名宗全 養女
細川勝元
斯波氏
 1452(享徳元)年、斯波義健の死後、斯波義敏斯波義廉の家督争いがおこりました。
 1466(寛正7)年、将軍足利義政は、側近の伊勢貞親らの意見により、斯波家の家督を義廉から義敏に変更し、足利義視の暗殺を画策しました。足利義視は細川勝元邸に逃れ、斯波義廉を支持した山名宗全は勝元と一致して伊勢貞親ら側近の排除を義政に申し入れました。その結果、伊勢貞親は逃亡しました。これを文正の政変といいます。
 12月、山名宗全は、斯波義就軍を京都に招き入れました。
 1467(応仁元)年1月、足利義政は、畠山義就を赦免し、管領の畠山政長を罷免し、管領には斯波義廉を任じました。これは山名宗全の謀略でした。
 畠山政長は自邸を焼き払い、上御霊社の森に布陣しました。細川勝元は出陣しませんでした。
 畠山義就と斯波義廉の被官である朝倉孝景の軍勢が畠山政長軍を打ち破りました。こうして応仁の乱の火蓋が切っておとされました。
山名宗全
‖━ 斯波義寛
渋川義鏡 斯波義廉 支援 山名宗全
後継
斯波義郷 斯波義建 斯波義敏 支援 細川勝元
養子
斯波満種 斯波持種 斯波義敏
有力大名の参戦
  東軍には細川氏の他、畠山政長・赤松政則・武田信賢・京極持清・富樫政親・斯波義敏らが加わりました。
 西軍には山名氏の他、畠山義就・斯波義廉・六角高頼・一色義直・土岐成頼・河野通春・大内政弘らが加わりました。
 諸国の大名は、色々な利害からどちらかの陣営に加わることになります。 
10
源義国 義重 義範 ………………………………………… 山名宗全
義純 ……………………………… 畠山満家
家氏 …………… 斯波義健
義顕 …………… 渋川義鏡
頼茂 …………… 石塔氏
公深 …………… 一色氏
義康 義兼 義氏 泰氏 頼氏 家時 足利義政
義清 義実 実国 …………………… 仁木氏
義季 …………………… 細川勝元
応仁の乱の経過
 1467(応仁元)年1月、山名宗全畠山義就らは、管領の畠山政長を罷免し、自派の斯波義廉を新管領にしました。政長は、自分の館に火を放って、上御霊神社の森に陣を布き、義就を攻めました。
 5月、細川勝元と山名宗全の軍が交戦しました。相国寺と北小路の細川邸付近に陣した勝元軍は16万1000人、堀川の西に布陣した宗全軍は11万6000人です。
 その位置関係から、細川勝元方を東軍(東陣)、宗全方を西軍西陣)と呼びます。
 山名宗全の横暴を憎んでいた足利義政は、細川勝元を支持しました。身の危険を感じた足利義視は、伊勢に逃亡しました。
 嘉吉の乱で山名宗全に滅ぼされた赤松政則は、当然、細川勝元の東軍に参陣しました。一族の宇野政秀は、播磨に下り、国人層の支持を得て、山名氏から播磨を取り返しました。
 越前守護代の甲斐氏の家臣朝倉孝景は、西軍に属し京都で戦っていました。
 朝倉氏の出自は但馬の地方豪族であり、南北朝の動乱期に、朝倉広景が北朝方の斯波高経に従って越前に入ったのが越前朝倉氏の始まりとされています。
 朝倉孝景は、朝倉広景から数えて、越前朝倉氏の7代目に当たります。朝倉教景とか、朝倉敏景とも名乗り、法名は英林宗雄、曾孫の朝倉孝景(一乗谷第4代:宗淳孝景)と区別して、最近は英林孝景と呼ばれます。
 南北朝以降、越前守護は斯波氏が継承してきましたが、しだいに、守護代の甲斐氏が台頭してきました。
 1457(長禄元)年、守護の斯波義敏と守護代甲斐氏が交戦しました。これを長禄合戦といいます。
 1459(長禄3)、甲斐氏が勝利しました。朝倉孝景は、甲斐氏に味方して奮戦し、その実力を斯波・甲斐双方に認めさせました。
 1468(応仁2)年、西軍は、大内政弘の東上により戦局を盛り返したものの、将軍を擁した東軍に対して名分がありませんでした。そこで山名宗全らは、伊勢に逃げていた足利義視を西軍に迎えました。
 足利義視は、西軍の「将軍」となリ、斯波義廉が管領に、そして西軍の諸将が守護に任命されました。 東軍の細川勝元は、大内氏の分国支配を撹乱しようと九州の大友氏らを動かし、北部九州の大内方の諸城を攻略させました。
 1469(文明元)年、当初の細川勝元=足利義視、山名宗全=足利義尚・日野富子という関係が、細川勝元=足利義尚、山名宗全=足利義視という関係に逆転しました。そんななかで、義尚は将軍に就任しました。
 赤松政則(14歳)は、播磨から美作・備前を手中に入れました。そして、侍所の別当に就任し、先祖が失った地位と所領を回復しました。
 1471(文明3)年、越前に越前に帰った朝倉孝景は、越前守護任命を条件に東軍に寝返り、越前守護代で自分の主人の甲斐氏と戦いを始めました。そして、越前を支配するようになりました。
 このように戦乱は、京都だけでなく、全国的に広がり、大きな地殻変動をもたらし始めました。 
 1473(文明5)年、山名宗全、細川勝元が相次いで死ぬと、それ以前からしばしば起こっていた和平の動きが活発化しました。
 1477(文明9)年、山名政豊は、細川政元と和睦し、さらに幕府へ降伏を申し入れました。さらに、政豊は、新将軍足利義尚に謁見して山名氏の所領が安堵されました。
 ここに応仁の乱は、京都を荒廃させ、戦国時代への幕を開けて、終わりました。
 この項は、『日本合戦全集』などを参考にしました。
戦乱の時代の人間模様
 将軍足利義政は、政治的にも軍事的にも無能であり、「芸術趣味に生きた隠者将軍」とレッテルを貼られています。しかし、慈照寺銀閣が完成したのは1489年ですから、応仁の乱の集結して10年以上も経過しています。むしろ、指導性を発揮しない、凡庸な人物だったと評価すべきでしょう。
 その分、妻の日野富子の方が非凡だったといえます。富子は、待望の男子を出産しました。 しかし、生後間もなく死亡してしまいました。将軍の寵愛を受けていた今参局が「呪い殺した」と嫌疑をかけられ、富子は、今参局を琵琶湖の竹生島に流しました。今参局をそれを怨んで、自害したといいいます。
 賀茂の河原で、餓死者がたくさんでました。それを焼くのを見て、ベトナムのゴ・ジン・ヌー夫人のように「人間バーベキュー」と富子は言ったといいます。
 夫義政が凡庸なため、富子は息子義尚の為に、財政的に援助しようとしました。まず、あちこちに関所を作って関銭を徴収しました。物を買占めて、物価が上昇した時をねらって販売しました。応仁の乱の時には、相手方の武将にまで銭を高利で貸し付けたりしたということです。
 次に山名宗全=宗全のことです。一休宗純は、宗全のことを「業は修羅に属し、名は山に属す」と評しています。
 『塵塚物語』に「山名宗全と或大臣問答事」という記事があります。ある公家の大臣が古い例を出して教えを説きました。それに対し、山名宗全は「例といふ文字をば、向後は、時といふ文字にかへて、御心得あるべし」(先例という文字を、今後は「時」という文字に変えたほうがいい)と反論しました。つまり、 「貴族は、先例にとらわれるから没落したのだ。武士に勢力を得たのは、時(時勢・時の流れ・時代の動向)を重視したからだ」という、新興勢力の意見(下剋上の考え)が述べられています。
 京都の荒廃を伝える人がいます。飯尾彦六左衛門尉です。
 「汝やしる 都は野辺の 夕雲雀 あがるを見ても 落る涙は」(『応仁記』)
 応仁の乱の結果は、次のようなものです。
(1)幕府や公家・社寺の権威・権力が崩壊しました。
(2)傭兵的な足軽が登場し、社寺などの由緒なる建物が放火され、宝物が消失しました。
(3)地方では、守護代や国人が台頭し、下剋上の時代が始まりました。
(4)戦乱の京都を離れた公家や芸術家や技術者が、地方の有力者を頼ったため、中央の文化・技術が各地に伝播されました。

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