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エピソード

086_02

山城の国一揆
 『大乗院寺社雑事記』という有名な史料に、「今日山城国人集会す」という記述があります。用語集を見ると、「荘官・地頭などが地方に土着して領主層になった有力武士」とあります。以前の悪党土豪とどう違うのか、分かったようで、さっぱり訳がわかりません。
 そこで、『日本史広辞典』(山川出版社)を見ると、「地侍・土豪とは異なり、鎌倉時代の地等領主クラスの系譜をもち、一円的に所領を集中させ、交通・流通の要衝に居館をおき、定期市を掌握し、一部の手工業者を直接支配した。国人領主間の地縁的結合である国人一揆を結び…」とあり、これでかなり具体化しましたが、それでも、物足りません。
 以前の土豪とは違い、国人は、「貴人」でカリスマ性があり、「知識人」であり、有力な農民であると同時に、商工業をも支配しています。
 今までにない求心力を持っている、また、国人は、武力や知識を活用して、非力な荘園領主を排除して、土地を自然村落的に支配しています。全く新しい性格の新興勢力といえます。
 国一揆は、国人一揆とは異なり、在地領主である国人と農民(土民)が結集した形の一揆のことで、国人と土民を結びつける媒介は、惣など自然村落が舞台となっています。
 1477(文明9)年、応仁の乱の和睦に不満の畠山義就は、河内に下向しました。
 1482(文明14)年、畠山義就軍は、山城の守護職をめぐって、南山城に侵入し、畠山政長軍と交戦しました。南山城には河内・大和など他国の軍も出陣しました。
 1485(文明17)年12月11日、南山城3郡(綴喜・相楽・久世)の国人が寄合を開きました。これを国人一揆といいます。参加者は、上が60歳、下が15歳か16歳だったといいます。同時にこの時、国中の土民らも群集しました。これを土一揆といいます。集会の目的は、「両畠山軍に、山城からの撤退を申し入れるため」でした。記録者は、国人と土民をはっきり区別しています。
 12月17日、古市、筒井、十市、越智らが山城を去りました。両畠山軍も引き上げました。これは、山城国中の国人らが申し入れた結果です。その後、国人らは、次のような掟を作り、自治的村落を確立したということです。
 (1)今後、両畠山軍を国内に人れないこと
 (2)本所領はもとのように直務とすること(他国の者を代官にしないこと)
 (3)新関を設けないこと
 1486(文明18)年2月13日、山城の国人は、藤原頼通が作った平等院で集会をしています。掟法を定めました。こうして成立した自治的村落を指導したのは、「三十六人衆」とという国人・土豪であり、月行事が交代で執務したといいます。
 1492(明応元)年、伊勢貞宗は、山城の守護職に就任しました。
 1493(明応2)年、伊勢貞宗は、大和の国人古市澄胤を山城の守護代に任命して、南山城の支配権を与えました。こうして、国人層を分裂させ、国一揆を壊滅させることに成功しました。
分裂政策と、歴史の智恵
 歴史上なかったような納税者が誕生しました。税金を納めない代わりに、自治活動をするというのです。小さな政府という考え方です。『大乗院寺社雑事記』は、興福寺の大乗院門跡尋尊の日記です。尋尊は一条兼良の子ですから、公家でもトップ級で、超がつく徴税者です。そういう立場からすると、「下極(剋)上の至也」と自分の将来を不安視する表現をしています。
 国人一揆と違い、国一揆は、規模も大きく、荘園領主の尋尊からすると、この動きが大きくなれば、天下のためによくない(「興成せしめば天下のため然るべからざる事や」)と感じています。ここでは、「天下」という文字を「自分」と置き換えるべきです。
 支配する側の論理をみると、巧みなレトリックがあることに気がつきます。
 国一揆は、国人と土民(農民)で構成されています。国人と土民とは、相容れない部分があります。そこを巧みについて、一揆を分裂させます。
 分裂によって、誰が得をしているのか、歴史から学ぶ智恵でもあります。

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