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エピソード

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北山文化(寝殿造と書院造)、五山制度
 将軍足利義満は、京都駅からみて、北方の峯地帯(北山地方)に別荘鹿苑寺を築きました。この鹿苑寺を中心にしたこの時代の文化を、北山文化といいます。
 義満の時代は、将軍の権威が確立し、守護大名が成長したじだいです。同時に、公家社会へのあこがれから脱皮できず、また勘合貿易により大陸の文化が輸入された時代です。
 その象徴が、鹿苑寺の金閣です。金閣の閣は、台脚でささえた建物ですから、台脚で支えられた金の建物という意味になります。金閣は舎利殿として建てられました。一層は、貴族の寝殿造を模していますので、鏡湖池には釣殿が大きく張り出しています。二層は、寝殿造と武家造(書院造)の折衷様になっています。三層は、唐様(禅宗様)となっています。この時代の性格を反映しています。
 室町時代には、荘園領主が没落したので、彼らに支持されていた国家仏教などの旧仏教勢力も没落していきました。
 それに代わって登場してきたのが、禅宗、特に臨済宗です。いつでも死ねる覚悟が必要な武士と、心を無にする修行(坐禅)を主とする禅宗の考えとが一致したのです。戦乱を生きる武士にとって、「ただひたすら座禅せよ」(只管打坐)と突き放す曹洞禅よりは、「公案」による指針を与えられる臨済禅の方がとっつき易かったのです。
 臨済宗の側も積極的に権力に接近しました。有名なのが夢窓疎石です。彼は、将軍足利尊氏の帰依をうけ、臨済宗発展の基礎を作りました。
 足利義満は、逆に臨済宗を利用して、武力だけでなく、精神的にも、支配者になろうとしました。そして中国南宋の五山・十刹の制度を導入しました。宗教界のピラミッドの一番高い所に、将軍を置いたのです。
 南禅寺を五山の別格として、その下に、天竜寺(第一位)→相国寺建仁寺東福寺万寿寺(第五位)というような寺格を設けました。これを京都五山といいます。
 鎌倉でも、建長寺(第一位)→円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺(第五位)というような寺格を設けました。これを鎌倉五山といいます。
 この時代の思想は、中国の朱子学(宋学)が中心で、禅僧の必須学問となりました。そのため、積極的に中国に渡る者が出てきました。
 その代表が、中厳円月絶海中津桂庵玄樹らです。
京都の高校生はうらやましい、いながら歴史の勉強
 私が京都の大学に入学した時、つくづく京都の高校生は「いいな」と思いました。いながら、歴史を学べるからです。
 京都駅を中心に、北を見ます。北に北山、東に東山があります。北山に金閣(北山文化)、東山に銀閣(東山文化)があります。嵐山のすぐ近くに天竜寺があります。御所の北に相国寺があります。東山には南禅寺があります。京都駅と南禅寺の間に建仁寺があります。京都駅と伏見稲荷の間に東福寺があります。万寿寺は、火事のため、門前九条通りの東福寺境内に入る参道の東側の地にあったらしいということしか分かりません。
 寺とは、字源的に見ると、「寸(手)+音符之(シ)(足)」のことで、つまり、手足を動かして雑用をするという意味です。侍は「人+音符寺」のことで、侍(はべる)や接待の「待」の意味です。漢代に西域から来た僧を鴻臚寺という接待所に泊めたため、のち寺を仏寺の意に用いるようになったとも言われています。
 とにかく、雑用したり、旅行者の接待をする場所を、寺と言っていたのです。今風のボランティア会場なのです。それが、権力と結合し、結託して、庶民を支配する道具と化したことから、お釈迦さんの慈悲と無縁の会場となってしまったのです。
 しかし、私達の子供時代は、村のコミュニティセンターとしての機能を持っていました。お寺には文化的に進んだものが何でもありました。老齢の人も、お寺さんの説教を楽しみにしていました。
 上の文章は、2004年10月20日に書いたものです。
 その後、五木寛之さんの「百寺巡礼」(築地本願寺編)を見ました。「何時でも、誰にでも、オープンなのがいいですね」という五木さんのコメントがありました。
 2004年10月28日の朝日新聞社説は、新潟の地震による被災住民をとりあげていました。「体育館では眠れない」というものです。寺の本来の機能からして、活動しているとは思いますが、寺院側からは何のアピールも記事やTVからは伺えませんでした。大々的にPRして欲しいと思いました。
 神戸新聞(2004年11月20日付け)によると、台風23号により、市内の殆どが水没したという豊岡市では、「避難所に指定していない寺院や商業施設など六ヶ所に、避難者の受け入れを要請した」とありました。
 この記事を見て、ホッとした思いです。

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