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エピソード

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民族文化ー能・狂言の誕生(観阿弥・世阿弥)
 室町時代には、日本の民族文化といえる能、狂言、茶道、花道が誕生しました。今回は、能を取り上げます。
 のルーツを探ると、2つの系統が認められます。1つは、奈良時代に中国から伝来した散楽(曲芸や物まねなど)の系統です。室町時代、猿楽は「散楽」と呼ばれておりました。寺院が保護し、猿楽能(物まね芸能)として発展し、一般庶民の娯楽となりました。
 もう一つの系統は、五穀豊穣を祈る日本古来の芸能があります。元々、民謡は労働歌と言えるもので、激しく、苦痛をともなう労働を和らげるために、庶民が生み出した生活の知恵です。それが田楽です。おどり手が笛や太鼓に合わせて鼓やササラや小太鼓を持って、リズミカルに踊ります。これが田楽能として発展し、一般庶民の娯楽となりました。
 猿楽能と田楽能を融合したのが、室町時代の観阿弥です。観阿弥は、猿楽の物まねや田楽の舞踊性を基本としつつ、曲舞の音曲などを取り入れるなど芸術性を高め、将軍足利義満に保護されました。
 その子世阿弥
は、父観阿弥の物まね主体で写実的な芸風を、臨済禅と融合させた歌舞中心で洗練された幽玄美を根本とした、芸術性の高い能楽(能)を誕生させました。また、世阿弥は、シテが人間と霊と2つの姿で登場するという能楽を完成させました。
 他方、日常性・娯楽性の高い分野が狂言となりました。
世阿弥は、幽玄美を備えた能に転換した。
 当時、奈良(大和)の興福寺や春日神社を本所とする能楽の座が4つありました。これを大和四座といいます。
 まず、観世元清(観阿弥)が始めた観世座は、観阿弥・世阿弥父子が出て、一世を風靡しました。
 次に、観阿弥の兄である宝生大夫が始めた宝生座で、小田原の北条氏に保護されました。
 最も古い家柄が、金春座です。世阿弥の娘婿金春禅竹が有名で、豊臣秀吉に後援されました。
 法隆寺に属した坂戸座が源流の金剛座があります。「土蜘蛛」の千筋の糸を創案した金剛唯一が有名です。
 四座以外では、金剛座の役者であった北七大夫長能が、徳川秀忠に後援された喜多座があります。
 時代とともに、保護者が寺社から武士に変化しました。「武士は死ぬこととみつけたり」という諺があるように、武士は何時でも死ねるように、常に心を無の状態にする必要があります。宗教的には臨済禅が彼らの心のより所となりました。
 武士に保護された能楽も、テーマは「」です。無は無限の無で、あらゆる可能性、あらゆる想像力を誕生させます。この視点で見ると、必要以上の飾りが「無」い能舞台や、殆ど表情が「無」い能面の意味が理解されるでしょう。
工場のBGM(民謡)が能や狂言のルーツ
 以前、弱電機(今は死語)の流れ作業の工場を見学したことがあります。単調の作業の倦怠感を取っ払い、軽快に仕事がはかどる様に、工夫されて、BGMが流れていました。
 私はこれを聞いて、能や狂言のルーツを連想したものです。田楽は、まさに、単調な田仕事を、軽快にさせるBGMだったのです。
 私の学生時代、知人とともに春日大社の若宮の御祭を調査しました。
 12月17日午前0時から遷幸の儀といって、若宮様をお旅所へ遷す行事があります。
 午前1時から暁祭といって、お旅所へ遷した若宮様に朝の御饌をお供えし神楽を奉納する行事があります。
 行事の後、安宿に帰るのももったいない恍惚な雰囲気だったので、2人は、日中の薪能のあとの残り火で暖ををとって朝を迎えることにしました。一日で一番冷える時を経験しました。深夜でなく、夜明け前がシンシンとすることを知りました。
 御祭の行事の前(12月16日)に、春日大社と若宮で田楽が奉納されます。著名な写真家土門拳さんが、着物姿の美人を連れて撮影を行っていました。土門さんには、モデルを使った写真は見たことがないので、今なお、彼女が誰だったのか、気になっています。
 私が勤めていた学校では毎年、高校生に本物の芸術を体感させる芸能鑑賞会がありました。場所も学校を離れて文化ホールなどを使いました。全く動きのない能楽は、人間国宝級の能楽師が演じても、高校生には通じませんでした。
 能と能の幕間に演じられた狂言には、笑いあり、拍手あり、若者にも共感を与えました。
 元々、芸能は、時代を反映する鏡だといえます。
 能の歴史は、武士の時代に極致を迎えました。この伝統を維持するためにのみエネルギーを使い、新しい時代の要請にエネルギーを使ってこなかったのではないでしょうか。
 狂言は、現代に通ずる風刺が支持されているのでしょう。
 同じ古典芸能であっても、歌舞伎が伝統の型を維持しつつ、新しいジャンルに貪欲にチャレンジしています。「古い皮袋に新しい酒を入れる」ということなんでしょうね。

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