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エピソード

092_01

慈照寺銀閣と枯山水庭園
 1482(文明14)年、将軍足利義政が祖父足利義満金閣寺に対抗して、京都東山に別荘東山殿を建立しました。その5年前には応仁の乱の和議が成立していますから、戦乱をよそに建立したというのは正しくありません。義政の遺言で、臨済宗相国寺派の寺となり、慈照寺と改められました。
 柿葺の屋根を持つ銀閣は、正式には観音殿といい、下層が心空殿と呼ばれる住宅上層が聴音閣と呼ばれる仏堂になっています。
 銀閣が名前としてはよく知られていますが、有名なのは一層の東求堂です。書院造のルーツです。書院造とは、書院(接客用広間)を中心に、玄関を置き、床・棚・襖・畳があり、付書院の明障子を開けると、枯山水の庭が広がる武家の建築様式です。東求堂内にある同仁斎は足利義政の書斎として作られ、書院造の原点を見ることが出来ます。
 足利義満の北山文化は、貴族文化と武家文化の融合という要素がありました。足利義政の東山文化は、伝統文化を武士が吸収して、独自に新しく創造しているところの意味があります。
 武士のテーマは「」です。文化的には「わび・さび」と表現されます。同仁斎を見ると、「無」の世界が伝わってきます。
 「枯山水」とは、水を使わずに、石と砂だけで、省略できるものはすべてを省略(無に)し、極度に象徴化された、山水自然の生命を表現した庭園といえます。
 作る側も禅の思想(無の心)を持っています。見る側も禅の思想(無の心)をもって見れば、心の静寂を得ることが出来るというのです。
 多くの人は竜安寺の石庭を一番に推薦します。幸い私は、大学が京都であり(というより、京都で歴史を勉強したかった)、知人が竜安寺から2〜3分の所に下宿していたので、何度も竜安寺を訪れました。喧騒な時間を避けて、心静まる時をねらって、何時間も座って、見ましたが、結局、多くの人が言う「素晴らしさ」を発見できませんでした。
 逆に、大徳寺大仙院では凄い体験をしました。観光客は、コース順なのでしょう、起ったまま見たり、歩きながら見たりして、「すごい!」を連発して去っていきます。私は、その一団が去った後、当時の人はどの位置からこの石庭を眺めたのか、色々探りました。動きのある砂が、縁側の下まで流れてきていることに気がつき、その縁側に座りました。かなりの時間が経過して、岩から流れる砂が一気に、私に襲いかかる場面に遭遇しました。しかし、その後何度も訪れましたが、同じ体験は出来ませんでした。
 作庭家と一度だけ対話が出来ました。彼と同じ心を「無」に出来た瞬間だったのでしょう。
枯山水を理解するには、心が無の状態にする
 以前、イギリスのサッチャー前首相は、竜安寺の「枯山水」を見て、絶賛したことを新聞で読んだことがあります。
 西洋では、自然に対する考え方を反映して、イングリッシュ・ガーデンの様に、自然との調和を優先しています。或いは、ベルサイユ宮殿の庭のように、自然は対立し征服すべきもので、人工性が強調され模様や色を楽しむ様になっています。あくまで木は木であり、林は林であり、森は森として考える。
 逆に日本の庭は、「箱庭」と揶揄されるように、狭い空間を利用して、「無」を表現する。無から無限の存在を把握しようとする。「わび・さび・ゆうげん」を感じようとする
 石や砂などすべての物に霊を感ずるのが東洋思想です。物を物として見る西洋の合理思想をもつサッチャー前首相が竜安寺の枯山水を絶賛したという。本当に心を「無」にして、鑑賞したというのなら、日本文化の理解者だといえます。しかし、何を、どこを、絶賛したのか、知りたいと思いました。

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