print home

エピソード

092_02

東山文化と水墨画(雪舟)
 妙心寺の塔頭退蔵院には如拙の『瓢鮎図』があります。水辺に、一人の鯰(ナマズ)の顔をした男が両手で瓢箪を持って立ち、水中の鮎(鯰のこと)を捕まえようとしています。奇妙な絵なので、記憶に残っているでしょう。
 これを描いた如拙は、禅僧です。描いた絵は、禅機画(禅の悟りの契機)といい、禅の公案(円滑の瓢箪をもって無鱗多涎の鮎魚を押さえ捕らえうるかどうか)を画にしたものです。
 この図には、瓢鮎以外にも、31の賛が見えます。これは、将軍足利義満が、当時高名な31人の禅僧に、この絵(公案)を見て、書かせたものです。
 (1)「瓢箪で鮎を押さえつけるとは、なかなか巧いやり方である。もっと巧くやるなら、瓢箪に油を塗るのがよい」という解答もあります。
 「瓢箪で押さえつけた鮎で吸い物をつくろう。米がなければ、砂を掬って炊こうではないか」というのもあります。
 次の雪舟の話です。
 1420(応永27)年、雪舟は、備中(岡山県総社市赤浜)で生まれました。
 1432(永享4)年、雪舟は、13歳の時に、備中井山の宝福寺(岡山県総社市)で修行を始めました。
 1436(永享8)年、雪舟は、17歳の時に、京都の相国寺に入り、禅の修行を始め、等楊をいう名を与えられました。禅の修行と水墨画は密接な関係があったので、雪舟は、将軍足利義教の御用絵師を勤めていた周文の弟子となりました。しかし、周文は、風景のほとんどを霧でぼかして描いていました。
 雪舟は、師の周文に不満で、直接の師ではない如拙を「先生」と呼びました。絵は絵であって、絵ではない世界を求める如拙の精神を求める気持ちが、雪舟の中に芽生えていました。
 1464(寛正5)年、雪舟(45歳)は、中国への夢断ちがたく、守護大名の大内氏を頼って、京都より周防の雲谷庵に移りました。
 1467(応仁元)年、雪舟(48歳)は、応仁の乱を知ってか、知らずか、水墨画の修行をするために、大内氏の派遣する遣明船に乗って、中国(明)に渡りました。雪舟は、中国大陸の壮大な自然に心をうたれて、膨大なスケッチをしたといいます。しかし、張有声や季在から破墨などの技術を学びましたが、それ以上の画家はいなかった(「揮染清抜の者はまれである」)と言い切ります。日本でのデスクワークで、中国の水墨画の水準を越えていたのです。
 1469(文明3)年、帰国した雪舟(50歳)は、中国の水墨画の技法を取り入れ、日本的な水墨画を完成させました。
 1486(文明18)年、雪舟(67歳)は、『四季山水図巻』(『山水長巻』)を描きました。『四季山水図巻(春の巻)』では、錐立つ険しい山を描がいたり、石段には人を歩かせます。師の周文には見られない、描写です。絵の専門家でない私には、どこがいいのか評論できません。
 1506(永正3)年、雪舟は、亡くなりました。時に87歳でした。
絵の解説は専門家にまかせ、素人は素直に感じたままに
 絵をよく見ると、ナマズ男は瓢箪を持っているのではありません。両手で、浮かび上がろうとする瓢箪を押さえつけようとしています。瓢箪を心、ナマズも心ととらえ、瓢箪(心)でナマズ(心)を求めるという解答を主張する人もいます。
 小僧さんは、お経を読まずに絵ばかりかいていたため、お寺の本堂の柱にくくりつけられました。涙を絵の具に、足の指を絵筆にしてネズミの絵を描いて、気を紛らわしていました。外出先から帰ってきた和尚さんが、小僧さんの足元でネズミが走り回っているので、びっくりして、よく見ると、それはネズミの絵でした。 そこで、和尚さんは、小僧さんを京都の相国寺で修行させることにしたといいます。このお寺が宝福寺で、小僧さんが雪舟だということです。
 雪舟は、技術にいくら卓越していても、絵に魂がなければと考えて、修行を積んだのです。
 絵に素人の私が関心を持ったのが、雪舟筆『慧可断臂図』です。
 インドの僧達磨は、禅の布教に中国に来ましたが、梁の武帝は許可しませんでした。失望した達磨は少林寺の洞窟の壁に向かい、9年もの間、座禅し続け、手足は無いも同然となりました。そんな達磨に心うたれた神光(後の慧可)は、達磨に弟子入りを懇願します。しかし達磨は、固く口を閉ざして一言も喋りません。そこで、神光は、自らの左腕()をち、達磨に差し出しました。神光の決意を知り、達磨が9年間の沈黙を破り眼を開いたのです。
 達磨は、奥深い洞窟の中で、壁面に向かって坐禅を組んでいますが、目はカッと見開き、瞳は慧可を見ています。慧可は切断した左腕を差し出しています。その目はやや開き、戸惑いを含んだ瞳は、前を見ていますが、達磨からは外れています。
 洞窟の描写は激しく力強く、達磨の体は輪郭のみ一気に、大きな鼻、髭のある口元、目は眼光鋭く描かれています。禿げた慧可と対比するとき、しばらくその場を離れることが出来なかった記憶が、今も甦ります。今も、雪舟は、この絵を通して何が言いたかったのか、模索しています。

index