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エピソード

093_01

伝統文化と茶道(村田珠光、武野紹鴎、千利休)
 団茶
 唐の時代、お茶を飲むことが流行しました。最澄空海らによってもたらされたお茶は、団茶(団子状に蒸してつき固めてた茶)といって、一時流行しましたが、不味かったので、下火となりました。
 坐禅の茶
 栄西は、中国から新しい茶種を持ち帰り、『喫茶養生記』」(「茶は養生の仙薬、延齢の妙術なり」)を著しました。お茶は、薬として飲まれました。
 京都高山寺の明恵上人は、栄西から贈られた茶の実を京都にある栂尾で栽培しました。明恵上人は座禅の時、この茶使用しました。また、この茶は、山城の宇治に移植されました。宇治茶のルーツです。
 西大寺を再興した叡尊は、説教をする時、民衆に茶を与えました。これを、施茶といいます。
 闘茶茶寄合
 南北朝時代、中国から入ってきた闘茶のが流行しました。闘茶は、参加者が寄り合って、何種類かのお茶を飲み、本茶である栂尾産の茶であるかどうかを競うものです。今の利き酒です。
 庶民にもお茶を飲む風習が広まりました。「一服一銭」という立売茶があらわれました。
 道具茶・書院の茶殿中の茶 
 室町時代の茶の湯は、中国伝来の唐物など美術骨董品を部屋中に飾ったり、話題が茶より茶器の鑑賞になったりしたので、道具茶と言われました。
 また、禅宗や貴族の作法、殿中の形式重視したので、「書院の茶」とか「殿中の茶」とか言われました。
 地下茶
 庶民の間で流行していたのが、地味で簡素で、粗末な抹茶を飲む習慣でした。庶民の茶ということで、地下茶と言われました。
 草庵の茶
 村田珠光(1422〜1502)は、「殿中の茶」と「地下の茶」を取り入れ、さらに、京都の大徳寺塔頭の真珠庵で、一休禅師より禅の修行をしました。その結果、「茶禅一味」(茶と禅の精神を統一)という境地に到達しました。
 書院造の環境に相応しく、茶をたてて心の静けさを求めたのでした。つまり、茶の湯を道具茶より解放して、茶を行なう者の精神性を強調したのです。
 その後、村田珠光は、草庵を結び、そこで、茶の湯を行ったので、草庵の茶といわれます。だから、村田珠光は、茶道の創始者といわれます。
 侘び
 武野紹鴎は、堺の商人でしたが、大徳寺で禅の修業をしました。その後、茶の湯に関り、唐物のかわりに信楽、瀬戸、備前などの日用品を茶器として取り入れたり、三畳・二畳半の茶室を創作しました。
 武野紹鴎は、村田珠光の草庵の茶を一層深化させ、簡略化させ、精神性をより高めたことから、禅的な「佗び」の理念を打ちたてた人です。だから、武野紹鴎は、茶道の洗練者と言われます。
 侘び茶
 千利休(1522〜1591)は、堺の商人で、小さい時から茶の湯を好み、大徳寺で禅の修業をしたり、武野紹鴎から侘びの精神を学びました。
 千利休は、茶器に対する意識を改革しました。豪華な、高価で、派手で、話題性のある茶器を廃し、日常性の中から茶碗や水指などの茶道具を見つけだしました。飯器の高麗茶碗、井戸に使う釣瓶の水指、菜籠の炭斗、竹薮から切ってきた竹の花入れ、黒楽茶碗などが有名です。
 千利休は、茶室に対する意識の改革しました。二畳間の妙喜庵の茶室「待庵」は、無の境地です。
 千利休は、「世の中に茶のむ人は多けれど、茶の道を知らぬは、茶にぞのまるる」と詠んでいます。
 また、千利休は、「茶の湯とは、ただ湯をわかし、茶を点てて、飲むぱかりなることと知るべし」とも言っています。どちらも、禅の心得(無の心)があって初めて、精神が解放され、茶の湯を楽しむことが出来るという意味です。
茶道の精神性は失われ、芸の切り売り主義に堕している
 岡倉天心は『茶の本』で、茶道を「日常生活の俗事のなかに見出されたる美的なものを崇拝することに基づく一種の儀式」と定義しています。
 利休は、生活と芸術、日常性と虚構性を追求してきたのです。毎日の生活の中に、美的、禅的な物を見出そうとしたのです。
 茶道の「道」とは、単なる技術を習得するだけでなく、お茶を通じて、心を無にする精神修行の手段・方法である。
 以前、勤務していた所で、お茶の先生がいました。私が日本史を教えているということで、この掛け軸が数十万円したとか、家元から譲られたこの茶筅は数万円したとか、この抹茶椀は誰にも手に入らないと説明を受けて、見せられたものです。
 私は、「それは千利休の侘び茶の精神とは違うでしょう。千利休のブランドを切り売りする家元制度の犠牲ではないですか」と思わず言いたくなる衝動をこらえるのに相当の忍耐を要しました。
 高校生の中でも、お茶を本格的に習う者は少ない。その理由を聞くと、一式茶道具を揃えるのに大変なお金がいるという。本来、茶道は、心を無にする精神修行が目的で、心が無になればすべてから心が解放され、あらゆることを素直に受け入れることが出来ます。
 だから、道具はあくまでその手段・方法だったはずです。それがいつの間にか、道具を揃えなければ、茶道が出来ない悲しい現実です。千利休が知ったら何と言うでしょうか。
 「家元栄えて、茶道滅ぶ」といわれる所以です。花嫁資格として、細々と生き続けることでしょう。
 以前、緊張する私の前で、小さな茶碗に湯を入れ、それをお茶の葉が入った急須に戻し、再び小さな茶碗に入れて、差し出されたことがあります。一連の操作が、自然体であり、一瞬の静寂に、自分を取り戻し、落ち着いて重要な話を、冷静に聞き入れたことがありました。
 茶器はどこにでもある、日常的な物でした。

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