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エピソード

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連歌(二条良基、宗祇、山崎宗鑑)
 連歌は、3人以上の奇数の作者が、和歌の上の句(五七五)と下の句(七七)が順番に、しかも交互に読むという形式をとります。万葉の時代には既に行われていました。
 正統な和歌と違い、ゲーム的感覚で、面白く、楽しく、皆で盛り上がるというのが趣旨でした。
 鎌倉時代になると、連歌は、歌言葉だけを使って、発句に始まり挙句に終わるまで、上の句と下の句を交互に百句連ねる、よりゲーム的な百韻連歌が流行しました。
 室町時代には、このゲーム感覚が受けて、庶民間にも普及しました。
 連歌の魅力は、何といっても「座の文芸」言われるように、多数の人が、ルールにとらわれず、「尻取り」ゲーム的に、即興で、面白く、楽しく、次々と歌を詠み継いでいく所にあります。
 そのため、この頃は、『二条河原の落書』に「在々所々ノ歌連歌、点者ニナラヌ人ゾナキ」とあるように、和歌をも上回る人気でした。
 南北朝時代、摂関や太政大臣を歴任した二条良基は、連歌の規則を集大成して、『応安新式』にまとめました。「一、可隔三句物…霞 霧 雲 煙(如此聳物)」とあり、霧を詠んだ句の後に別の句が入り、次の句で霧と似たような霞を詠むようなことを嫌います。「可隔三句物」とは霧と霞は間に三句挟んだ後でしか使ってはいけないものとされています。
 このルールに従って編集したのが『莵玖波集』で、連歌は、貴族社会の中でも。和歌と対等の地位を得ました。
 応仁の乱後、宗祇は、正風連歌を提唱して、ゲーム的・娯楽的な庶民の連歌を、有心幽玄の芸術にまで高めました。
 正風連歌をまとめたものが『新撰莵玖波集』です。『水無瀬三吟百韻』は正風連歌の代表作です。
雪ながらやまもとかすむ夕かな (発句) 宗祇
 行水遠く梅にほふさと (脇句) 肖柏
河かぜに一むらやなぎはるみえて (第三) 宗長
 舟さすおともしるきあけかた (第四) 宗祇
月やなほきり渡る夜に残るらん (第五) 肖柏
 しもおく野はら秋はくれけり  (第六)  宗長
鳴くむしのこころともなく草かれて (第七) 宗祇
(下略) 
(挙句)
 
 16世紀前半、連歌は、ルールも煩雑にって形式化し、連歌の魅力がなくなってきました。そこで、山崎宗鑑は、俳諧連歌を提唱して、ルール(式目)も簡素化し、連歌の俳諧(=滑稽)部分を独立させ、自由な気風の連歌を確立しました。
 滑稽で卑俗ではあるが、庶民の自由奔放で、明るい歌を集めたのが、『犬筑波集』です。
連歌という前史があって、俳句が誕生
 庶民の間で連歌が流行すると、連歌やルールを指導する人々が登場します。
 彼らは、連歌師といわれ各地を遍歴して、連歌のみならず、京都や各地の文化を伝達しました。日本の文化は、高野聖や連歌師、修験者、後世のイタコなどによって広められていったのです。
 和歌(五・七・五・七・七)から連歌(五・七・五と七・七)が誕生しました。
 連歌の中で一番重要なのが、発句です。必ず季語や切れ字を入れなければなりません。次に重要なのが、上の句(五・七・五)です。連歌は、発句や上の句を、和歌から独立して考える場を与えました。
 その結果、発句や上の句を独立させる俳句という発想が誕生したのです。
 文化とは、多くの人によって、さまざまな状況から、誕生していることが分かります。それを、1人のスーパースターがまとめていったと考えることが出来ます。

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