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エピソード

094_04

西国三十三か所巡礼を終えて
 私たち夫婦は、2009年4月27日(月)より、観光バスツアーで、西国三十三か所巡礼を始めました。平日が混んでいないだろうと、JR西日本明石駅7時55分発を選びました。
 しかし、第2回目から平日はなくなり、日曜日発となったので、自宅の近くとなるJR西日本姫路駅発を選ぶこととなりました。
 飛びとびで行くより、一気に行く方法を採用しました。
 第1回〜第11回の予定で、三十三か所を巡礼しました。
 その間、先達さんには、女性・年配・若年・壮年の4人の方にお世話になりました。
 その資格を調べると、三十三か所の巡礼を1回終え、礼録(1万円)を納めると、先達になれます。
 先達には、色々な称号があります。巡礼回数と札録によって差を設けています。最高位は特任大先達で、巡礼の回数は34回、礼録は30万円です。
回数 称号 礼 録 授  与  品
01 先達 1万円 赤金襴軸装納経帳・袈裟・頭陀袋・名札
03 中先達 1万円 名札
06 大先達 1万円 青金襴軸装納経帳・金色名札
11 特任先達 3万円 特任先達軸装納経帳・特任用頭陀袋・特任先達名札・特認先達袈裟巻
17 特任権中先達 3万円 特任権中先達軸装納経帳・特任権中先達名札・特任権中先達袈裟巻
23 特任中先達 3万円 特任中先達軸装納経帳・特任中先達名札・特任中先達袈裟巻
29 特任権大先達 3万円 特任権大先達軸装納経帳・特任権大先達名札・特任権大先達袈裟巻
34 特任大先達 30万円 特任大先達軸装納経帳・特任大先達名札・特任大先達袈裟巻
 札所の順番でなく、ツアーで巡礼した順に紹介します。
 ツアーの順番が札所の順番と違うのは、本尊の公開日にツアーの予定を設定するためです。
 参詣している間に、旅行社の人が掛け軸に朱印をする。手数料として1か寺500円なので、36か寺×500円=1万8000円になります。
 個人で行った場合、参詣し、なおかつ、朱印を押すと、時間がかかります。ご本尊ご開帳(公開)の場合、朱印を押す人が行列を作っています。成相寺・長命寺・観音正寺には、急激な坂道が延々と延びているので、ツアーの場合、タクシーやマイクロバスで行きました。お寺の駐車場は狭いので、マイカー族は駐車場の空きが出来るまで、下で待たされます。タクシーの場合、駐車場がいらないので、バスから下車すると、すぐ出発できました。
 上は37万8000円、下は10万円を出すと、朱印を押した掛け軸を入手できます。
 ツアーの費用は1回約1万円なので、11回×11万円です。しかし、参詣することで、その掛け軸に意味があります。ツアーより、個人のマイカーで苦労しながら、巡礼すれば、より意義があります。さらに、電車やバスを使うと、より意味があります。さらにさらに、昔のように歩いて、三十三か所を巡礼すると、信仰の真の意味に近づくでしょう。
札所 寺 院 本 尊 本尊公開 所 在 地
27 19 行願寺【革堂】 千手観世音菩薩    京都市中京区
18 頂法寺【六角堂】 如意輪観世音菩薩   京都市中京区
17 六波羅蜜寺 十一面観世音菩薩 京都市東山区
16 清水寺 十一面千手千眼観世音菩薩   京都市東山区
番外 元慶寺 薬師如来   京都市山科区
24 03 粉河寺 千手千眼観世音菩薩   和歌山県粉河町
04 施福寺【槙尾寺】 千手千眼観世音菩薩 大阪府和泉市
05 葛井寺【藤井寺】 十一面千手千眼観世音菩薩   大阪府藤井寺市
28 27 圓教寺 六臂如意輪観世音菩薩 兵庫県姫路市
22 総持寺 千手観世音菩薩   大阪府茨木市
25 清水寺 十一面千手観世音菩薩   兵庫県社町
26 一乗寺 聖観世音菩薩   兵庫県加西市
26 28 成相寺 聖観世音菩薩   京都府宮津市
29 松尾寺 馬頭観世音菩薩 京都府舞鶴市
30 11 上醍醐寺 准胝観世音菩薩 京都市伏見区
15 観音寺【今熊野】 十一面観世音菩薩   京都市東山区
20 善峰寺 千手観世音菩薩   京都市西京区
23 24 中山寺【中山観音】 十一面観世音菩薩   兵庫県宝塚市
番外 花山院 薬師瑠璃光如来   兵庫県三田市
21 穴太寺【穴穂寺】 聖観世音菩薩 京都府亀岡市
23 勝尾寺【弥勒寺】 十一面千手千眼観世音菩薩   大阪府箕面市
10 25 31 長命寺 千手十一面聖観世音菩薩 滋賀県近江八幡市
30 宝厳寺 千手千眼観世音菩薩   滋賀県びわ町(竹生島)
11 29 10 三室戸寺【御室戸寺】 千手観世音菩薩 京都府宇治市
12 正法寺【岩間寺】 千手観世音菩薩   滋賀県大津市
13 石山寺 二臂如意輪観世音菩薩   滋賀県大津市
14 円城寺【三井寺】 如意輪観世音菩薩   滋賀県大津市
12 20 06 南法華寺【壺阪寺】 千手千眼観世音菩薩 奈良県高取町
07 岡寺【龍蓋寺】 如意輪観世音菩薩 奈良県明日香村
08 長谷寺【初瀬寺】 十一面観世音菩薩 奈良県桜井市
番外 法起院【徳道上人廟】 徳道上人   奈良県桜井市
09 南円堂 不空羂索観世音菩薩   奈良県奈良市
・8 02 金剛宝寺【紀三井寺】 十一面観世音菩薩 和歌山県和歌山市
01 青岸渡寺 如意輪観世音菩薩   和歌山県那智勝浦町
25 32 観音正寺 千手千眼観世音菩薩 滋賀県安土町
33 華厳寺 十一面観世音菩薩   岐阜県谷汲村
 観世音菩薩(観音さん)は、大衆を救済ことで成仏(如来)する修行中の身と言われています。大衆を救済するとは、様々な形で現れ、人々を教え導くことをいいます。あるいは、すでに悟りを開いているにも関わらず、仏陀の手足となって活動する菩薩という考えも誕生しました。
 大衆に迎合するために華美で妖艶な魅力的な容貌をしています。大衆を救済するために、現世利益的で現実的な姿・形したり、持物を持っています。水瓶にはいくら使ってもなくならない水(功徳水)が入っているとされています。
 一番、現世利益を象徴している菩薩が「十一面千手千眼観世音菩薩」と言えます。あらゆる方向を見るという意味で、十一面の顔を持っています。あらゆる人を残らず手を差し伸べるという意味で、千の手・千の眼を持っています。
右手の持物
01 月 輪 熱病にかかった時、冷気を得る
02 化 仏 十方の仏たちが来て、将来の成仏を確約する
03 宝 鏡 広大な智慧を得る
04 宝 珠 衣・食・住に恵まれる
05 三鈷杵 一切の天魔・外道を抑制する
06 青蓮華 十方の浄土に生まれ変わる
07 宝 篋 地中の宝を得る
08 宝 経 仏の教えを得る
09 蒲  桃 木の実・草の実・穀物を得る
10 独鈷杵 怨敵をくじき、鎮める
11 鉞 斧 役人の難を避ける
12 宝 印 弁舌にすぐれる
13 楊 柳 体のもろもろの病気を治す
14 宝 箭 よき友人を得る
15 白蓮華 さまざまな功徳を成就させる
16 施無畏 あらゆる場所で、恐れを払う
17 胡 瓶 人間関係の和睦を得る
18 数 珠 十方の仏たちが来て、手を差し延べる
19 錫 杖 全ての人々を慈愛し、守護する
左手の持物
01 日 輪 盲目な人が光を得る
02 化 仏 十方の仏たちが来て、将来の成仏を確約する
03 宝 螺 天神、善神を呼び寄せる
04 宮 殿 胎生の中に身を受けない
05 宝 輪 仏の身になるまで悟りを求める心を得る
06 五色雲 不老長寿を得る
07 紅蓮華 諸天の宮殿に往生する
08 宝 鐸 音声を得る
09 宝 釧 よき従者を得る
10 宝 戟 外国の敵を避け、追い払う
11 宝 剣 一切の悪鬼を鎮める
12 髑 髏 一切の鬼神を意のままに操る
13 払 子 さわりを除く
14 紫蓮華 十方の一切の仏達を目前に見るを得る
15 宝 弓 出世する
16 澡 瓶 梵天の世界に生まれ変われる
17 傍 牌 悪い獣を追い払う
18 羂 索 さまざまな不安から救われる
19 宝 鉤 善神、竜王の守護を得る
両手の持物
01 宝 鉢 お腹の病の難からすくわれる
02 合 掌 人々が常に来て、お互い敬い、相手を思いやる
ホームページ「archaic仏」を参照しました
 観世音菩薩には、十一面四十二臂の菩薩像があります。臂は肘のことで、「肩から手首に至る腕全体の部分」です。普通は手と訳します。
 合掌する2本の手を除くと、40本の手になります。仏教では、1本の手で25世界(三界二十五有)を救うという意味があります。三界とは「欲界(欲心の盛んな人間世界)・色界(物質や肉体に執着している世界)・無色界(物質の束縛から解放された精神の世界)」のことであり、二十五有とは「欲界に十四有、色界に七有、無色界に四有」のことです。つまり40本×25世界=1000世界です。
8  西国三十三か所巡礼の「33」には、どういう意味があるのでしょうか。
 観音経(『観世音菩薩普門品』)には、観世音菩薩が大衆を救済するために、衆生に応じて33通の姿に化身するとあります。これを普門示現といいます。
三十三観音
01 仏身 12 居士身 23 童男身
02 辟支仏身 13 宰官身 24 童女身
03 声聞身 14 婆羅門身 25 天身
04 大梵王身 15 比丘身 26 龍身
05 帝釈身 16 比丘尼身 27 夜叉身
06 自在天身 17 優婆塞身 28 乾闥婆身
07 大自在天身 18 優婆夷身 29 阿修羅身
08 天大将軍身 19 人身 30 迦樓羅身
09 毘沙門身 20 非人身 31 緊那羅身
10 小王身 21 婦女身 32 摩■羅迦身
11 長者身 22 童目天女身 33 執金剛身
ホームページ『Wikipedia観音菩薩』を参照しました
 六地蔵とか六観音信仰というのがあります。
 真言宗では、本来の聖観音を母体に、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称しています。
 天台宗では、本来の聖観音を母体に、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、不空羂索観音を六観音と称しています。
 六観音は六道(6世界)輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれました。
 六道と六観音の組合せは次の通りです。
 地獄道(聖観音)、餓鬼道(千手観音)、畜生道(馬頭観音)、修羅道(十一面観音)、人道(准胝観音)、天道(如意輪観音)
10
札所 寺 院 本 尊
01 青岸渡寺 如意輪観世音菩薩
 仁徳帝(313〜399)の頃、裸形上人がインドから熊野浦に漂着し、熊野の各地をめぐってこの那智滝にたどりつき、苦行の結果、観世音を感得したこの地に庵をむすびました
02 紀三井寺 十一面観世音菩薩
 為光上人が諸国を行脚中、たまたま名草山の麓で山項からの一筋の光を発見し、翌朝、山項へ登ってみると、金色の千手観音像が光り輝いていた。そこで刻んだ金色の観音像を胎内に納め、堂字を建立して安置しました。
03 粉河寺 千手千眼観世音菩薩
 宝亀元(770)年、猟師・大伴孔子古が、山中で異様な光を見て、感得して仏像を刻みました。1カ月後、孔子古の建てた小堂に童子が来て、千手観音像を彫刻してどこともなく立ち去りました。
 この童子は河内の長者の娘を治し、礼として娘から箸筒を与えられました。長者が粉河を訪ねると、小堂の千手観世音像の前に娘の筈筒があり、その縁で、粉河寺を建立したといいます。
04 施福寺 千手千眼観世音菩薩
 宝亀2(771)年、法海上人の下で修業を終えた客僧が帰りの旅費を乞うと、寺僧はそれを拒みました。すると、客僧は「ここは悪鬼の棲家となろう」と出て行きました。法海が後を追うと、客僧は海上を歩いていました。法海は観音の化身であったと悟り、千手観音の像を刻んで祀ったといいます。
05 葛井寺 十一面千手千眼観世音菩薩
 神亀2(725)年、聖武天皇の勅噂によって大伽藍が建立され、紫雲山剛林寺と名づけられました。そして稽文会・稽主勲父子が千手観世音を彫刻しました。
 大同元(806)年、在原業平が奥ノ院諸堂を造営しなした。 永長元(1096)年、藤井安基が荒廃した伽藍を再建しました。そこで、藤井寺とよばれるようになりまし。
06 壺阪寺(南法華寺) 千手千眼観世音菩薩
 大宝3(703)年、元輿寺の僧・弁基上人が壷阪山に庵をむすび、水晶の壷の中に観世音のお姿
を感得し、像を刻み、壷を坂の上の庵に納めました。
 養老元(717)年、元正天皇は、八角殿を建ててその壷を納め、観音像を安置し礼堂などを建てて、南法華寺としました。
07 岡寺(龍蓋寺) 如意輪観世音菩薩
 五個龍寺の開基・義淵は、農民を苦しめた悪龍を法力によって池に封じこめ、阿字と書いた大石で蓋をしました。これによりこの寺は龍蓋寺と言われてます。義淵の門下には玄時・行基・艮弁などがいます。
08 長谷寺 十一面観世音菩薩
 聖武天皇の頃、近江国三尾崎の白蓮華谷から楠の大木が流出しました。徳道上人は、これを見て、稽文会・稽主勲父子に十一面観世音菩薩を彫刻させ、小堂に安置しました。
番外 法起院 徳道上人
 病で亡くなった徳道上人は、聞魔大王に会って三十三か所の観音霊場をひろめ、悩める民衆を救済するように、婆婆にかえされました。
その後、徳道上人は、観音信仰に徹して、衆生を導き、ここに隠棲したといわれています。
09 興福寺南円堂 不空羂索観世音菩薩
 藤原内麻呂は、藤原家の繁栄を永久に保つ道を、弘法大師にたずねました。弘法大師は、自ら彫刻した三目八臂の不空羂索観世音菩薩を与えなした。内麻呂はわが家に持ち帰り、持仏堂に安置して供養礼拝しました。
 その子の冬嗣も、弘法大師に教えを乞いました。弘法大師は、「しかるべき地に堂字を建て、そこに不空羂索観世音菩薩を安置し、民衆に解放せよ」と説きました。弘仁4(813)年、冬嗣は、興福寺の西南の一隅に、白銀によって千躯の観音像をつくり、土中に埋めて地鎮とし、この上に堂を建てて観音像を安置しました。
 この時、春日明神が老翁の姿になってあらわれ、この建立に協力したと言われています。堂が完成すると、老翁は「ふだらくや南の峰に堂建てて今ぞ栄えん北の藤波」と詠んだと言います。
10 三室戸寺 千手観世音菩薩
 宝亀元(770)年、光仁天皇が宇治の離宮に来た時、不思議な予兆を感じました。それは宇治川の上流の岩淵の滝の千手観世音菩薩でした。その観音を宇治の離宮に安置し、御室戸の寺号としました。
11 上醍醐寺 准胝観世音菩薩
 貞観16(864)年、理源大師が深雪山に登った時、老翁があらわれました。その老翁は、落葉のなかの清水をくみ「ああ醍醐味なるかな」と言ったということです
12 岩間寺 千手観世音菩薩
 養老6(722)年、泰澄大師が岩間山に堂字を建立し、桂の大木で彫刻した千手観世音を安置しました。ところが、落雷で堂塔が焼失してしまいました。そこで、泰澄大師は雷を縛りあげ、雷を落とさないことを約束させたということです。
13 石山寺 二臂如意輪観世音菩薩
 聖武天皇は、東大寺の大仏鋳造を完成させましたが、さらに、艮弁僧正に金峰山から金を得るよう命じましたた。ところが、金峰山の蔵王権現は、艮弁僧正に「近江の瀬田辺に観音の霊地があり、そこで析噂すれば金が得られる」とのお告げを伝えました。そこで艮弁僧正が瀬田辺に行くと、比良の明神
は「山の上の大きな岩が観音の霊地である」と告げました。
 艮弁僧正はそこに如意輪観世音を安置し、祈願したところ、陸奥の金華山より金が掘出され、大仏を荘厳することができました。その後、如意輪観世音菩薩は岩に固着して離れないので、そこに堂字を
建立したということです。
14 三井寺(園城寺) 如意輪観世音菩薩
 貞観5(863)年、智証大師が巡行していた時、如意輪観世音を感得して、それを刻んで、安置しました。ここの井戸水は、天智・天武・持統天皇の産湯に使われたので、御井といわれていました。その後、智証大師が三部濯項の法水に用いたため、三井といわれるようになりました。
番外 元慶寺 薬師如来
 寛和2(986)年、花山天皇は、寵愛していた弘徴殿の女御を失い、悲嘆にくれていました。それを見た藤原兼家は、「おともして出家いたしましょう」と勧めて、元慶寺で出家させました。石川寺の仏眼上人や、書写山の性空上人の勧めで修業し、観世音の慈悲にふれて蘇生し、徳道上人のあと300年も絶えていた巡礼行を再興しました。
15 今熊野観音寺 十一面観世音菩薩
 天長年間(824〜833)、弘法大師がこの地に来た時、白髪の老翁に出会い、老翁から十一面観音像を与えられました。弘法大師が「どなたですか」とたずねると、「今熊野権現である」と言ったということです。
16 清水寺 十一面千手千眼観世音菩薩
 大和の延鎮が音羽の滝にたどりつき、老翁から暗示を受けて棟行をしていました。
 坂上田村麻呂は、妻の安産のために、鹿の懐児を求めて音羽山へやって来ました。延鎮は、殺生による安産の非を諭して、観世音の慈悲を説きました。
 坂上田村麻呂は、征夷大将軍となり、軍功をあげました。そこで、報恩感謝のために、延鎮とともに本尊を造立し、堂字を建立したと言うことです。
17 六波羅蜜寺 十一面観世音菩薩
 天暦5(951)年、京都を中心に悪病が流行しました。村上天皇は、空也上人に悪病退散の勅命を
下しました。空也上人は、自ら十一面観世音菩薩像を造り、この像を車に載せて市中をひきまわりました。そして青竹を八葉の蓮のように割り、茶をたててその中へ小梅干と結昆布を入れ、仏前に供え、念仏を唱えながら病人に与えました。
 空也上人は、悪病で亡くなった死者を供養するため、鳥辺野の入口・六原(六波羅)に堂字を建立し、そこに十一両観世音を安置しました。
18 頂法寺(六角堂) 如意輪観世音菩薩
 用明天皇2(587)年、聖徳太子は、四天王寺建立のため、その用材を求めて巡行していました。その時、聖徳太子は、泉の近くで霊夢を感じ、ここに六角の堂を建て、護持仏の如意輪観世音を安置しました。その後、小野妹子が聖徳太子が沫浴した池畔に坊を建立し、朝夕、仏前に花を供えたと言います。
19 行願寺(革堂) 千手観観世音菩薩
 若いころの行円は、狩猟が好きで、山野をかけめぐっていました。ある日、行円が射とめた牝鹿の腹の中から仔鹿が出てきました。仏門に入った行円は、射殺した牝鹿の革を衣にして身につけ、千手陀羅尼を読証しながら市中を歩きまわりました。
 さらに行円は、加茂神社の槻の巨木で千手観観世音菩薩を彫刻したと言います。
20 善峰寺 千手観世音菩薩
 長元2(1029)年、源算上人が創建しました。しかし、あまりにも山が険しかったので、多くの猪が踏みならし平地にしたと言われています。
21 穴太寺 聖観世音菩薩
 応和2(962)年、曽我部の郷の宇治宮成の妻・妙智は、京都から仏工の感世を招いて聖観音像を彫刻させました。礼として、仏工の感世に、夫・宇治宮成の芦毛の馬を与えました。ところが宮成はその馬が惜しくなり、待伏せして、白羽の矢で感世を射殺し、馬をつれもどしました。ところが、家に帰ってみると、聖観世音菩薩像の胸に白羽の矢がささっていました。つれもどったはずの馬もいなくなっていました。宮成は、京都の感世の家をたずね、無事な感世と、芦毛の馬を見つけました。宮成は、悔い改め、堂字を建立し、聖観音像を安置しました。
22 総持寺 千手観世音菩薩
 山蔭高房が太宰大弐に任ぜられて筑紫へ向かう途中、淀の穂積の橋のほとりで、漁師につかまり、殺されようとしている大亀と出会いました。高房は漁師から大亀を買いとり、水中へ放しました。翌日、出港の時、乳母があやまって愛児山蔭政朝を川の中へ落しました。山蔭高房が祈念すると、助けた大亀が山蔭政朝を背にのせて水上に浮かびあがりました。大宰府についた高房は、早速唐人に観世音を刻む香木を依頼し、帰国した唐人は清涼山のふもとの川の中から香木を得たが海外流出の禁令のため、やむをえず海の中に投じる。その後、中納言・山蔭政朝は、海辺で香木を発見します。そこで政朝は、長谷観音に祈願したところ、童子があらわれ、千手十一両観音像を彫刻したといいます。
23 勝尾寺 十一面千手千眼観世音菩薩
 神亀4(727)年、善仲・善算の兄弟が草堂を建立しました。その後、開成皇子が仏弟子となりました。
 宝亀6(775)年、善仲・善算なきあと、その遺志をつぎ、道場を建立しました。その後、十一面千手観音像を安置し、開成皇子自身も薬師三尊を彫刻しました。
24 中山寺 十一面観世音菩薩
 聖徳太子は、物部守屋の亡霊をしずめるとともに、仲衷天皇の先后であった大仲姫一門の供養のため、堂字を建立しました。
番外 花山院 薬師瑠璃光如来
 花山天皇(19歳)は、藤原兼兼にそそのかされて出家し、仏眼上人のすすめによって那智で修業し、西国巡礼の後の長保5(1003)年から寛弘5(1008)年までの5年間をこの地で隠遁生活を送りました。
25 清水寺 十一面千手観世音菩薩
 インドの帰化僧・法道仙人は、景行天皇の頃この地に止まり、欽明天皇の頃堂字を建立し、推古天皇35(627)年、金堂を建立し、十一両観音像を安置したといいます。
 神亀2(725)年、行基菩薩が大講堂を建立し、自刻の千手観音像を安置しました。
26 一乗寺 聖観世音菩薩
 法道仙人は、日本に渡って、法華山にとどまり、「飛鉢の法」をもつて民衆の救済にあたっていました。法道仙人の持ち物は、観音像・仏舎利・鉄の宝鉢でした。
 大化5(649)年、法道仙人に病気を治癒された孝徳天皇は、法華山に金堂を建立し、一乗寺の額を授けました。法道仙人は、聖観世音を安置して本尊としました。
27 圓教寺 六臂如意輪観世音菩薩
 性空上人は、10歳で法華経を習い覚えたと言われます。
 天禄元(970)年、性空上人は、この地に庵を結び、近くの岩の上に、桜の老木があったので、生木のまま如意輪観音像を彫刻し、本尊としました。
 和泉式部は上人に帰依し、上人にあてて詠んだ歌があります。
 「暗きより 暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月」
28 成相寺 聖観世音菩薩
 慶雲元(704)年、真応上人が諸国を行脚している時、天橋立の美しい風光にひかれ、この地を霊地としました。
 慶長14(1609)年、山主の賢長は、新しい梵鐘を鋳造しましたが、音が出ません。再び鐘を造りましたが、やはり音が出ず、三度目の鋳直しのとき、孔呑児が銅湯の中に落ちこみ、できあがった鐘は音が出たものの孔呑児の悲鳴の声となって響くので、それ以来、孔呑児の成仏を願って鐘はつかないといわれています。
29 松尾寺 馬頭観世音菩薩
 慶雲元(704)年、唐僧・威光上人は、日本に渡来して諸国を行脚していました。その時、中国の馬耳山(馬の耳のような山)に似た山に出会いました。霊峰であると信じた威光上人は、項上をさして登ってゆくうち、その中腹の平地に、松の大木があったので、その下に坐して法華経を読諭しはじめたところ、金色まばゆい馬頭観音像が、いつのまにか上人の手に渡されていた。そこで威光上人は、ここに庵を結び、観音像を安置しました。
30 宝厳寺 千手千眼観世音菩薩
 神亀元(724)年、行基菩薩がこの島に渡って、弁財天を安置し、千手千眼観音像を自ら彫刻しました。
31 長命寺 千手十一面聖観世音菩薩
 景行天皇20年、武内宿禰がこの山に登り、「寿命長遠諸願成就」の文字を柳の木に刻み、長寿を祈願した。のちに聖徳太子が来山して、柳の木の前にとどまると、白髪の老人があらわれ、柳の霊木で千手、十一両、聖観世音三尊一体の聖像を刻み、伽藍を建立するようにといって立ち去りました。報徳太子はお寺を建立しました。
32 観音正寺 千手千眼観世音菩薩
 聖徳太子が諸国を遍歴しているとき、茸の繁る湖の中より、一疋の人魚が浮び出て、「私は堅田の浦にすんでいた漁師であったが、殺生をこととし、仏法を信じなかったため、このような姿になりはて、毎日水中で多くの魚から生血を吸われ、その苦しさにたえられないので、救済してほしい」と哀願しました。
 そこで太子は、千手観音像を刻み、ここを有縁の地とし、伽藍を建立して人魚の成仏のために供養したといいます。
33 華厳寺 十一面観世音菩薩
 延暦17(798)年、奥州黒河郷の大口大領は、十一面観音像の造立を念願し、その霊木を求めて、奥州永井村の文殊堂に祈願したところ、霊感があって榎の大木を得ました。そこで京都に上り、仏工に観音像を刻ませ、奥州へ運ぶ途中、美濃の谷汲山で像は動かなくなりました。大口大領はこの地に観音像を安置しました。このとき、堂字に近い岩穴から油が湧き出たため、それを知った醍醐天皇は、谷汲山の山号と、観音像に華厳経が書写されていることから、華厳寺の扁額を下賜したといいます。
平幡良雄著『西国観音巡礼』などを参考にまとめました。感謝申し上げます
四国三十三か所札所巡礼と法然・親鸞の誕生
 親鸞の有名な悪人正機説があります。「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なお往生す、いかにいはんや善人をや」
 善人と悪人を現代風に解釈すると、この親鸞の意図は理解できません。
 善人とは善行を積んだ人(造寺造仏・写経・巡礼などをした人)、悪人は善行が出来ない人(造寺造仏・写経・巡礼などができない人)と解釈すると、親鸞の意図は理解できます。
 造寺造仏・写経・巡礼が出来る人は、当時でいえば貴族や武士の一部の人です。大多数の人(大衆・衆生)は造寺造仏をするほどお金がありません。写経をするほど学問がありません。巡礼するほど時間的な余裕がありません。
 法然や親鸞が出る前の当時、大衆は、往生を遂げられないとされていました。
 法然は、衆生救済が仏教の実践項目と考え、「南無阿弥陀仏」という念仏を称えると、阿弥陀さんが救ってくれると言うのが弥陀の本願だと主張し、実践しました。
 京都には、法然の浄土宗の本山・知恩寺がありますが、この地名を百万遍と言います。なぜ百万遍というかというと、「南無阿弥陀仏」という念仏を「百万遍」称えると、阿弥陀如来が極楽浄土させてくれるという教えに因んでいます。
 善行を主張していた旧仏教から激しく非難を受け、土佐に流罪となりました。親鸞も越後に流罪となりました。
 法然は初めて他力本願を説きましたが、まだ「百万遍」という自力の要素がありました。しかし、その弟子親鸞は自力を捨て、絶対他力を説きました。悪いと自覚している人ほど必死に「南無阿弥陀仏」と念仏します。
 これを理解すると、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なお往生す、いかにいはんや善人をや」という意味が分かります。
 西国三十三か所巡礼には、自力の要素が多い。
 納経帳に朱印を押します。二回目の巡礼の時、重ね印を押します。押せば押すほどご利益があるというのも自力の要素です。
 最も代表的な話が『壺阪霊験記』です。盲目の夫・沢一の目を治そうと、夫に無断で、妻のお里は壷阪寺の観音様に早朝から3年間もお参りして来ました。満願の日、お里の外出を不倫と誤解した沢一の追及に、お里は事実を話しました。そこで、沢一は、お里に苦労を懸けるのは自分の為と思い、壺坂寺から谷底に身を投げました。これを知ったお里も沢一の後を追い、身投げしました。この時、観音様の霊験が現れ、2人は生き返り、沢一の目も見えるようになりました。
 3年間お参りすると、現世利益が現れるという観音信仰の象徴的なお話です。

 天台宗・真言宗・浄土宗では、共通して般若心経を唱和しますが、絶対他力の浄土真宗にはありません。
浄土真宗ではこうした自力による現世利益を否定しているからです。
 私は浄土真宗の家に生まれ、親鸞教の弟子を自認しています。
 その私が三十三か所を巡礼して得たものがありました。
 以下は、西国三十三所札所会の会報より抜粋しました。

 西国第32番札所の観音正寺は、1993(平成5)年5月22日、本堂とご本尊の千手千眼観世音菩薩像を焼失しました。私ですら、代々受け継いできた寺宝を焼失してことの残念さを思います。ましてや、住職の衝撃はどれくらいだっとかと想像します。山主の岡村潤應師は「本尊を自分の代で失った。寺の歴史に泥を塗っただけでなく、”西国三十三所観音霊場”という聖域の一角にもきずをつけてしまった。焼け跡に立ってみた。あまりの光景と責任の重さとで「死のう」しかなかった。・・気持ちを取り直すに三カ月を要したが、”ご本尊を白檀で作れ”という不思議な啓示を得て困難を承知で白檀原産国インドへ渡った。交渉に三年を費やした。ついにインド政府の大いなる慈悲で輸出の許可が下りた。奇跡だと泣いた。檀家もない観音正寺。復興に向け必死の托鉢行脚がはじまった。軒先で塩をまかれたこともあった。
一度捨て身になった人間は強かった。”一心称名……”観音さまの慈悲は絶大である証しをとくと見せていただいた」。
 2004(平成16)年5月22日、身の丈3.5b・総高6.3b、白檀23トンの十一面千手千眼観世音菩薩の開闢法要の時、インド大使は「我が国がこれだけの白檀の輸出をよく許可したものですねえ」と漏らしました。
 ここには、自力で得た結果を観音様のお導きという考えがよく表現されています。
 そういえば、掛け軸には空白が2カ所あります。それは、三十三か所満願の後、そのお礼詣りに元善光寺と善光寺に行くことで真の満願になるというのです。
 インドの月葢長者の娘・如是姫が重病になり、阿弥陀如来にお祈りして救ってもらいました。そこで、長者は、お釈迦さんにお願いして竜宮城からもらった金で一光三尊の阿弥陀如来像を作りました。この如来像は、後に百済から日本に伝えられ、蘇我稲目のお寺に安置されました。仏敵である物部氏は、この如来像を難波の堀江に投げ込みました。
 推古天皇10(602)年、本多善光は難波の堀江で一光三尊を見つけて持ち帰り、自宅(長野県飯田市)の臼の上に安置しました。すると、その臼が光を放ったので、人々は坐光寺と呼びました。
 その後、この如来像は、本田善光の前に現われ、「信濃に連れて行くように」と命じたので、芋井の里(現在の長野県長野市)に移しました。ここを本多善光の名を取り、善光寺といい、坐光寺を本尊が元いたということで、元善光寺と言うようになりました。
 元善光寺には木彫りの本尊が作られ、「毎月半ば十五日間は必ずこの故里に帰りきて衆生を化益せん」というお告げをしました。「善光寺と元善光寺と両方にお詣りしなければ片詣り」とは、15日間はどちらかが本尊の留守なので、両方お参りすれば、間違いなく、本尊にお会いできるという意味です。

 「牛にひかれて善光寺参り」という諺あります。昔、不信心な老婆が、角に布を引っかけた牛を追いかけているうちに善光寺に着き、信仰に目覚めたという話からきたものです。これも観音様のお導きという説話が含まれています。
 三十三か所巡礼は自力です。色々な出会いを観音様のお導きという考えは他力です。
 絶対他力というは言い易く、行い難し。「自力+他力=現実的」ということでしょうか。巡礼を終えて得た結論が「現実的」ということでした。これも観音さんのお導きかも知れませんね。

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