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エピソード

095_01

一休さんこと、一休宗純(林下の禅)
 1394(応永元)年、北朝後小松天皇の子を宿した伊予局は、南朝の娘ということで、御所を追われ、嵯峨野で男の子を産みました。幼名を千菊丸といいます。それが、後の一休さんだといわれています。このご落胤説を疑問視する人もいます。
 ただ、一休さんの亡くなった時の寺である酬恩庵が、現在、宮内庁管轄になっているので、何らかの関係があるのではないかという説が、有力です。一休さん自身もそれをほのめかしています。
 1399(応永6)年、母の伊予局は、北朝の刃を逃れるため、千菊丸(6歳)を、十刹の1つである名門安国寺(臨済宗)に入れました。千菊丸は名を周健と改めました。
 幕府の保護を与えられた五山十刹は、「叢林」といいます。叢林の僧たちは、学問で身を飾ろうとする貴族に近づいたり、高僧と交際することで自分の権威をつけようとする豪商の酒色のもてなしを平気で受けるなど、堕落しきっていました。逆に、叢林以外の寺院は「林下」として軽視されていました。
 修行時代に、周健は、兄弟子の男色の相手もさせられています。
 1407(応永13)年、周健(13歳)は、そんな現実を嫌って、五山の1つ建仁寺に移り、慕哲につい漢詩を学びました。しかし、建仁寺でも堕落は同じで、寺童の中には、首まで白粉を塗って兄弟子の相手をする者がいる状態でした。
 周健(16)は、建仁寺の慕哲が武士の一行に頭を下げるのを見たり、修行僧が「自分は源氏の出である」「いや私は公家の出である」と自慢しあっているのを聞いて、次の漢詩を作りました。「法を説き、禅を説いて、姓名を挙ぐ。人を辱しむるの一句…」(仏門に入れば、だれも、釈迦の子なのに、自分の出自を自慢している。恥ずかしい)
 1411(応永17)年、周健(17歳)は、西金寺謙翁(為謙宗為宗易)と出会いました。謙翁は、妙心寺開山関山慧玄大徳寺開山大燈国師の弟子)の弟子無因の印可を謙遜して辞退したので、謙翁と呼ばれている人で、純粋禅の立場を堅持していました。住いも雨露をしのぐだけ、食べ物も托鉢によるだけの生活をしていました。
 謙翁から自分の名前宗易の一字を与えられ、周健は、宗純と名を改めました。宗純は、托鉢によって自分の食べ物を得ることを教えられました。
 謙翁は、宗純に「烏が塒(ねぐら)に帰る頃、また見えよう」と語りました。
 修行中、建仁寺の同僚に会いました。彼は「印可を受けていない謙翁の下でいくら修行しても、印可を受けられなし、印可のない僧は誰も認めてくれない」と言いました。それに対して、宗純は「世間に認められることが僧の生きる道ではない」と答えました。
 1413(応永20)年、謙翁は、宗純(20歳)に次のような話をしました。達磨から数えて5世弘忍公案に対して、弟子神秀は「身体は菩提樹のように尊く、心は明鏡のように清い。日々掃き清めて塵がつかないようにしたい」と答えました。もう1人の弟子慧能は「私には菩提樹も明鏡もない。ないのだから、塵のつきようがない」と答えました。そこで、弘忍は慧能に印可を与えたといいます。
 宗純は、「坐禅は悟りへ至る道ではない、悟りは迷いの中にある、坐禅をして悟りを得られると思うのは誤りである」ということを体得しました。20歳にして、宗純は、師謙翁の教えに到達したのでした。
 1414(応永21)年、宗純(21歳)は、謙翁の死に接し、6歳の時に生き別れた母の伊予局に無言の別れを告げて、瀬田の唐橋から投身自殺を図りました。宗純の死の予感がしたのか、母の指示で、侍従玉江が宗純を助けました(水上勉著『一休』)。 
 1415(応永22)年、宗純(22歳)は、琵琶湖畔にある堅田の祥瑞庵に住む華叟宗曇の弟子になりました。華叟は、以前、謙翁から純粋禅を極めている人物であると聞かされていました。大燈国師のあと大徳寺を継いだ徹翁の弟子が言外宗忠で、言外の弟子が華叟となります。
 華叟は、公家や武家や豪商に詩歌を教授する禅僧を茶坊主といい、公案を売り物にする禅僧を売僧と軽蔑し、庶民の住む堅田に移っていたのです。
 華叟は、謙翁より、厳しい純粋禅を求めており、喜捨による生活を維持し、托鉢により生活の糧を得ることを、門付け芸人のやることだとして厳禁していました。これは想像を絶する峻厳なものでした。
 宗純は、紙が無いので、華叟の大便を手でかき出したりしたといいます。
 宗純は、華叟の薬代を得るために、自分の時間が空くと、京都に出て、托鉢によらず、香包(香袋)や雛婦彩衣(雛人形の衣)を作っては、お金を稼ぎました。
 宗純は、建仁寺の同僚に会った時、「青白い顔をしているが、病気では?」と聞かれ、「私は禅によって生きているのではなく、禅を生きている(無心に生きている)」と答えたといいます。
 1418(応永25)年、宗純(25歳)は、華叟から「洞山三頓の棒」という公案を出されました。それは、次のような話です。
 曹洞宗を開いた洞山がまだ若い頃、雲門大師を訪ねました。大師は「どこから来たのか」と問うと、洞山は「サトから参りました」と答えました。次に大師が「この夏はどこにいたか」と聞くと、洞山は「湖南の報恩寺にいました」と答えました。そこで大師が「そこをいつ出発したか」と言うので、洞山は「8月25日に旅立ちました」と答えました。すると、急に大師は「三頓の棒(打ちのめすこと)をくれてやりたいところだが、今日は帰れ!」と大声を発して追い返しました。翌日、洞山は「私の返事のどこがいけなかったのでしょうか」と問いただしました。大師は「まだそんなことを言ってるのか、帰れ!」と一喝しました。この時、洞山は悟りに至ったというのです。
 宗純は、琵琶法師の祇王・祇女姉妹と仏御前の平家物語の一節を聞き、その心境を「有漏地より無漏地へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」(心の中のこだわりを捨て、一休みする、そうすると、からりとした心にうち戻る)と表現しました。華叟は、これを見て、一休という道号を贈りました。ここに一休宗純が誕生したのです。
10  1420(応永27)年、一休さん(27歳)は、琵琶湖のほとりで座禅をしていました。その時、烏の鳴き声を聞いて、洞山と同じ悟りを開いたのです。一休さんは「私自身が大自然と一体になり、山も川も自分もすべてが平等になった気がします」と表現しています。
 華叟は、一休さんに、印可を与えようとしましたが、一休さんはこれを断り、師の元を去りました。
11  1427(応永34)年、一休さん(34歳)は、父の後小松上皇(称光天皇に譲位)と対面しました。その少し前に、母が亡くなっています。
 1428(正長元)年、華叟は、一休の兄弟子養叟宗頤に印可を与え、亡くなりました。
 1429(正長2)年、養叟は、26世大徳寺住持に就任しました。養叟は、貿易で栄える堺に進出し、豪商に公案を出し、手引書を発行し、公案を解けば、印可証を与えて、人気と莫大な富を、手に入れました。
12  1435(永享7)年、一休さん(42歳)は、木刀を持って、堺に現れました。そして、養叟などの高僧の前で、「寺に納まっておれば、偉い坊さんで通るが、その正体は木刀で、金持ちに媚びへつらって、役に立たない」と痛罵しました。
 一休さんは、堺の庶民には、岩頭和尚(寺を捨て、船頭となって修行)などを例に、「自分の気持ちに正直に従い、与えられた場所で、与えられた人生をまっとうすることが一番なのじゃ」と説きました。
13  1436(永享8)年、一休さん(43歳)は、大徳寺開山大燈国師の100回忌に参列するため、京都に入りました。しかし、一休さんは、偽坊主の読経に我慢が出来ず、途中で抜け出して、塔頭の1つに入り、女の人と寝たと、自分で書いています(「事終えて後、夢閨の私語」)。
 養叟は、一休さんを懐柔するために、大徳寺の由緒ある塔頭である如意庵を与えました。しかし、一休さんは、「住庵十日、意忙々たり…魚行酒肆又淫坊」(10日住んで居心地が悪くなりました…私は、飲み屋か花街にいますよ)と手紙を書いて、姿を消しました。
14  1443(嘉吉3)年、一休さん(50歳)は、再び、魚を食べていた養叟の前に現れました。養叟は「これは魚の干物である。私の腹を肥やして仏果を得るよう、引導を渡したのだ」と弁解する。これを聞いた一休さんは、大徳寺の池の鯉を捕まえ、俎の上に乗せました。養叟は「私の魚は干物だ。お前は、殺生するのか」と詰問すると、一休さんは「私の腹に入って糞となれと、引導を渡そう」と言って、鯉を料理して食べました。
 一休さんは、養叟の「干物は死んでいるから食ってよいが、鯉は生きているから食ってはならない」という分別する愚かさを笑ったのです。
15  ある正月、みんなが「めでたい、めでたい」と祝っている時、一休さんは、棒の先端に髑髏を突きかざして、「この髑髏ほどめでないものはない、ご用心、ご用心」を言って歩きました。これは、「うかうかとしていると、あっという間に、死んで髑髏になる。日頃から、死をわきまえておきましょう」という意味です。
16  1454(享徳3)年、一休さん(61歳)は、華叟の墓参で、養叟と出会います。みすぼらしい姿の一驚を見て、養叟は「先師の顔の糞水を注ぐようなものだ。帰れ!」と怒鳴りました。これを聞いた一休さんは、「豪商に印可を売り、貴族や武士に媚びることは、先師の顔面に糞水をかけることにはならないのか」と言い返します。養叟が「師から印可証をもらえなかった者が、何を言うか」と罵ると、一休さんは「紙切れに何の価値がある」と高笑いをして、その場をさりました。
 この時の様子を、一休さんは「華叟の子孫、禅を知らず、狂雲面前、誰か禅を説く」(華叟亡き後、養叟は禅を知らない。私の前で禅を説く者は、私しかいない)と書いています。
 1458(長禄2)年、一休さんと多くの確執を起こした、大徳寺26世養叟が亡くなりました。時に、83歳でした。
17  1470(文明2)年、一休さん(77歳)は、住吉坂の井の雲門庵に移りました。
 盲目の遊芸人森女(30歳頃)と、同居するようになりました。この時の様子を、一休さんは、『狂雲集』に「森也が深恩若し忘却せば 無量億却 畜生の身」(森女の深い愛情を忘れたら、未来永劫に畜生の身になるでしょう)と書いています。森也の「也」は女性の秘部を意味していると解釈されています。
18  1471(文明3)年、一休さん(78歳)は、森女と山城の薪村に出来た酬恩庵(一休寺)に移りました。一休さんは、この時の様子を、『狂雲集』に「美人の陰に 水仙花の香あり」(美人の陰部に 水仙の香りがする)と書いています。陰とは陰部(女性の秘部)を意味していると解釈されています。
19  1474(文明6)年、一休さん(81歳)は、広徳寺柔中宗隆の訪問を受けました。柔中は、大徳寺入寺の勅使を同行していました。一休さんは、辞退することができず、酬恩庵を離れないということを条件に、大徳寺の住持を引き受けました。
20  1479(文明11)年、一休さん(86歳)は、その場に居なくても、大徳寺の法堂が再建されました。一休さんの徳を慕って、あっという間に大工さんが集まり、膨大な資材が寄進されたからです。
21  1481(文明13)年、一休さんは、波乱万丈・天衣無縫・天真爛漫な、四字熟語では納まりきれない、一生を終えました。時に88歳でした。
 この項は、水上勉著『一休』(中公文庫)、さちひろや原案『一休と禅』・『とんちの一休さん』(すずき出版)などを参考にしました。先人の労作に感謝いたします。
一休さんのとんち話
 私が個人的に興味を持った文人・宗教家は3人います。一番は芭蕉です。次が千利休と、今回取り上げた一休宗純です。略に、略しても、以上のような長文になってしまいました。 
 一休宗純は、文化人にも大きな影響を与えています。俳諧連歌の山崎宗鑑、能楽の金春禅竹、茶の湯の村田珠光らです。
 一休宗純は、臨済宗の僧ですから、坐禅と公案がテーマになります。一休さんの頓知話は、昔話や童話として、子供のときから慣れ親しんでいるので、深く考えることはありませんでしたが、実は公案だったのです。ここでは、たくさんある公案の何点かを紹介します。
 「襖のとら退治」は、臨済宗栄西のところで紹介いたしました。
 豪商に招かれたが、「このはし渡るべからず」という立て札がありました。一休さんは、どうどうと真ん中を渡っていきました。これが公案なのです。問題なのです。
 この答えは、「ことば」にとらわれたり、こだわったりしてはいけないということです。「ジャンプしたり、這って行く」という発想は、「渡る」という言葉にこだわっているからです。正解は、「渡らない」です。
 大徳寺住持の養叟を訪ねた頃に話です。豪商から法事の招きを受けました。一休さんは、ボロボロの普段着の法衣で訪ねました。それを見た店のものから、追い出されました。そこで、一休さんは、最高位の法衣を着て、再び訪れると、丁重なもてなしを受けました。しかし、一休さんは、着ていた法衣を仏前に置いてそのまま帰ってしまいました。
 この正解も同じく、「形にとらわれるな」ということです。
 ある村で石の地蔵さんを造りました。開眼供養に一休さんを呼びました。一休さんは、、ボロボロの普段着の法衣でやってきて、地蔵さんに小便をかけてしまいました。村人の怒ること、怒ることという事件がありました。
 正解は、「お釈迦さんやお地蔵さんは、本来、親しみ深いもの。それを形式ばって威厳を持たせると、遠い存在に追いやってしまう。それでは、お釈迦さんやお地蔵さんの本願に背くことになってしまう」
 一休さんの伝記を知っていても、一休さんの教えをいくら理解していても、実行しなくては、一休さんから笑われます。
 私は「一休」を「ひと休み」と理解して、実践していることがあります。クラブの試合でも、むきになって強打・強打で行き詰ると、生徒に「ひと休み」させ(タイムをとり)、「フェイント」も入れることを進言します。チームは生き返ります。
 押してダメなドアは、引けば開きます。これも、生徒指導や人生相談でよく使わせてもらいました。
 私が大切にしている座右の銘であり、実践の指針であり、私の人生観は「ひと休み」です。

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