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エピソード

097_01

さまざまな戦国大名と下剋上
 戦国大名の定義は、「戦国時代に各地に割拠した大名」(山川『日本史B用語集』)とあります。戦国時代とは、「応仁の乱(1467年)後、約1世紀の間」とあります。
 各地に割拠した大名とは、どんな大名なのでしょうか。それは、大名領国制を確立できた大名といえます。では、大名領国制とはどんなものでしょうか。家臣団を城下町に集住させ、その力で、郷村制の農民を一円的に支配する制度です。
 戦国大名になれる資格は、次の2点です。
(1)下剋上の気風のある地侍や国人を、家臣団に組み入れることが出来る大名のことです。
(2)自由・独立の精神が旺盛な郷村社会の農民を、どう一円的に支配出来るかということです。
 このようにして、誕生した戦国大名の出身を見てみましょう。国人が圧倒的の多いことが分かります。国人とは「大名と主従関係を結んで、侍身分を得た農民」と規定されます。まさに下剋上の極みです。
(1)守護-甲斐(武田信玄)、駿河(今川氏親)、豊後(大友宗麟)、薩摩(島津貴久)、周防(大内義隆)   常陸(佐竹義宣)
(2)守護代−越後(上杉謙信)、尾張(織田信長)、越前(朝倉孝景)、出雲(尼子経久)
(3)国人−陸奥(伊達植宗)、近江(浅井長政)、安芸(毛利元就)、土佐(長宗我部元親)、肥後(龍造   寺隆信)、肥後(相良義陽)、下総(結城政勝)、三河(徳川家康)、山形(最上義光)、 備前(宇喜多  秀家)、関東(北条氏)、安芸(小早川隆景)、南部(南部信直)、会津(葦名盛舜)
(4)その他−相模(北条早雲)、美濃(斎藤道三)、豊臣秀吉
 堀越公方のその後の情勢を見ましょう。
 1432(永享4)年、伊勢新九郎長氏が生まれましたが、生国も身分もはっきり分かっていません。
 1469(文明元)年、伊勢新九郎(38才)は、妹の北川殿が駿河の守護大名今川義忠に嫁いでいた縁により招かれて、駿府の今川氏に仕えました。
 1476(文明8)年、今川義忠は、一揆討伐の最中、戦死しました。今川義忠の嫡子竜王丸(母は北川殿)は、6歳だったので、家臣の中には義忠の従兄弟である小鹿範満を当主に推す者が現れ、御家騒動に発展しました。駿河の進出をねらっていた扇谷上杉定正堀越公方足利政知は、それぞれ駿府に兵を派遣してきました。そこで、北条早雲(45歳。伊勢新九郎)は「竜王丸が元服するまでは小鹿範満に家督を代行させる」という折衷案を提案し、調停に成功しました。
 1487(長享元)年、竜王丸は、17歳になりました。しかし、小鹿範満は守護職を譲りません。そこで、北条早雲(56歳)は小鹿範満を駿府今川館で急襲して殺害しました。竜王丸は、元服して今川氏親と名を改め、戦国大名に成長していきます。
 1488(長享2)年、北条早雲(57歳)は、その功によって駿河の沼津に興国寺城を与えられました。
 1491(延徳)年)、堀越公方の足利政知(57歳)が病没しました。政知には、先妻の嫡子茶々丸と、後妻円満院の次男潤童子と三男足利清晃がいました。円満院は、わが子可愛さに、茶々丸を土牢に押し込めました。しかし、茶々丸は土牢を抜け出し、継母円満院と潤童子を殺しました。足利清晃は堀越御所から京都へと逃亡しました。こうして、嫡子茶々丸は、堀越公方になりましたが、生来粗暴な性格だったため、所領の伊豆は混乱に陥いりました。
 北条早雲(60歳)は、扇谷上杉定正と組んで、今川氏親からの援兵も得て堀越御所を急襲しました。堀越公方の茶々丸は、守山城に逃れましたが、願成就院で自害しました。ここに堀越公方家は滅亡しました。33年間の歴史でした。
 1495(明応4)年、相模小田原城では、大森氏頼が亡くなり、若い大森藤頼が城主となりました。北条早雲(64歳)は、大森藤頼の信頼を得て、「鹿狩りをしていたら、鹿が小田原城の裏山に逃げてしまいました。鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」という手紙を藤頼に送りました。早雲をすっかり信頼している大森藤頼は、これを許しました。勢子に扮した早雲の兵が、多数の牛の角に松明を取り付け、裏山から一気に小田原城を攻め落としたのです。間抜けなような本当の話です。
 1516(永正13)年、北条早雲(85歳)は、三浦義同三浦義意父子を新井城に攻め、相模の平定にも成功しました。
先妻
‖━ A茶々丸
@足利政知
‖━ 潤童子
後妻円満院 足利清顕(義澄)
 古河公方のその後の情勢を見ましょう。
 1455(享徳4)年、鎌倉公方足利成氏は、下総古河に敗走しました。これが古河公方です。
 1486(文明18)年、扇谷上杉定正が家臣の太田道灌を殺害しました。
 1497(明応6)年、足利政氏(父は足利成氏)が2代目古河公方となりました。
 1512(永正9)年、足利高基は、父の足利政氏を古河城から追放して、3代目古河公方となりました。
 1518(永正15)年、足利義明(父は足利政氏)は、兄の足利高基に背いて、下総小弓城に入城しました。これを小弓公方といいます。
 1535(天文4)年、足利晴氏(父は足利高基)が4代目古河公方となりました。
 1538(天文7)年、北条氏綱(父は北条早雲)が小弓公方の足利義明・里見義堯連合軍を撃破し、小弓公方の足利義明が敗死しました。これを第一次国府台合戦といいます。
 1546(天文15)年、北条氏康(父は北条氏綱)が山内上杉憲政扇谷上杉朝定軍を撃破し、扇谷上杉朝定が敗死して扇谷上杉氏は滅亡しました。古河公方の足利晴氏が幽閉されました。これを河越合戦といいます。
 1552(天文21)年、足利義氏(父は足利晴氏。母は北条氏綱の娘)が5代目古河公方となりました。
 山内上杉憲政は、北条氏康に追われて、越後の長尾景虎上杉謙信)を頼りました。
 1560(永禄3)年、前の古河公方足利晴氏が亡くなりました。古河公方の足利義氏の弟足利藤氏の外祖父である簗田晴助と北条氏康が対立しました。
 北条氏康と対立する越後の長尾景虎が侵入すると、古河公方の足利義氏は北条氏綱を頼って、小田原に逃げ出しました。この時の足利藤氏を6代目古河公方という説もあります。
 1573(天正元)年、織田信長が15代将軍足利義昭を追放して、室町幕府が滅亡しました。
 1583(天正11)年、古河公方の足利義氏が亡くなりました。古河公方の跡継ぎにいなくなり、ここに古河公方が滅亡しました。約130年間の歴史でした。室町幕府滅亡の10年後でした。
梁 田 晴 助
‖━ 藤氏
@足利成氏 @政氏 B高基 C晴氏
義明 ‖━ D義氏
北条早雲 北 条 氏 綱
氏康
 将軍家の情勢を見ましょう。
 1489(延徳元)年、9代将軍足利義尚(父は足利義政)が亡くなりました。
 1490(延徳2)年、10代将軍に足利義材(父は足利義視)が就任しました。
 1493(明応2)年、管領の細川政元は、11代将軍に足利義澄(父は堀越公方足利政知。北条早雲に追放された足利清晃)を擁立しました。足利義材は、越中に逃れました。あちこち流れ歩いたので「流れ公方」といわれます。
 1507(永正4)年6月、細川澄元(24歳)は、父で管領の細川政元(42歳)を殺害し、弟細川高国(19歳)を追放しました。 
 8月、細川高国は、兄の細川澄元を殺害しました。
 1508(永正5)年、管領の細川高国は、11代将軍足利義澄を追放し、10代将軍足利義材を復位させました。将軍足利義稙です。
 1521(永正18)年、細川高国は、将軍足利義稙を淡路に追放し、足利義晴(父は足利義澄)を12代将軍に擁立しました。
 1531(享禄4)年、管領家の家臣である三好元長は、主家の管領細川高国(48歳)を殺害し、実権を握りました。
 1546(天文15)年、三好元長は、将軍足利義晴を退位させ、足利義輝(父は足利義晴)を13代将軍に擁立しました。
 1549(天文18)年、三好長慶(28歳。父は三好元長)は、元将軍足利義晴と現将軍足利義輝を近江に追放しました。
 1563(永禄6)年、三好家の家臣松永久秀(50歳)は、主家の三好義興(父は三好長慶)を毒殺して実権を握りました。
 1565(永禄8)年、松永久秀は、13代将軍足利義輝を殺害しました。
 1577(天正5)年、織田信長は、松永久秀を自刃させました。
E足利義宣(義教) F足利義勝
‖━ 日 野 富 子
日野 重子 ‖━ H足利義尚
G足利義政 足利義視
‖━ I足利義材(義稙)
日野政光の娘
‖━ 足利 政知 茶々丸
斉藤朝日氏 J足利義澄(義高) K足利義晴
‖━ L足利義輝(義藤)
近衛尚通の娘 N足利義昭
足利義惟
‖━ M足利義栄
周防介大内氏
独占欲と支配欲が生んだ戦国大名
 1457(康勝3)年、関東管領扇谷上杉氏の家宰太田道潅(26歳)は、江戸城を修復しました。
 この太田道潅がもっと若かった頃、狩に出かけ、雨に降られました。道潅は「蓑を借りたい」というと、娘は山吹の小枝を差し出しました。道潅は、「わしは、蓑が借りたいのだ。山吹ではない」と怒りました。
 帰城して、その話を聞いた重臣が、泣きながら、次のように諌めました。山吹には「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」(『後拾遺集』兼明親王の歌)という歌があり、八重山吹は実がないので、「箕がない」と言ったのです。
 「田舎の娘でもそれくらいの教養があるのに…」と恥じた道潅は必死で学問に励んだといいます。
 身分も分からない北条早雲が、一国の主になるには、運と、情報分析と、戦略・戦術と決断力があったことが分かります。戦国乱世は、秩序もない代わりに、全く自由な時代でもありました。
 将軍家と管領家の下剋上を見てきました。気持ちが悪いくらい、同族相い憎む感じです。独占欲と支配欲がもたらしたこの世の地獄絵図です。
 同時に、歴史は古い権威を葬り去り、新しい権威を生んでいくのですね。昔からあったといっても、それほど古くなかったりします。
 西武の堤王国は象徴的です。以前、新聞で、西武本社の社長室前には赤の絨毯が敷いてあって、社長と出会った社員は、土下座の礼をしたと書いてありました。社員は「余り偉大すぎて、とっさに土下座をする」のだそうです。とても違和感を感じました。堤義明社長は、まだ2代目です。

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