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エピソード

098_01

斉藤道三
 1456(康正2)年、美濃の守護土岐持益の子土岐持兼が早死にしました。持兼の子亀寿丸を支持する揖斐氏と、土岐義遠の子土岐成頼を支持する土岐家の執権斎藤利永とが対立しました。その結果、一色成頼が守護となり、斎藤家が実権を握りました。
 1494(明応3)年、松波左近将監基宗の子として、京都乙訓郡西岡に生まれたといいます。幼名を@峰丸といいます。
 土岐成頼の後継をめぐって、再び争いが起きました。成頼の長子土岐正房を支持する執権斎藤利国と、成頼の末子土岐元頼を支持する斎藤家の家臣石丸利光とが対立しました。その結果、土岐正房が守護となり、斎藤家が実権を維持しました。
 1504(永正元)年、峰丸(11歳)は、父が法華宗の信者だった関係で、京都妙覚寺に入り、A法蓮坊と名を改めました。
 やがて、還俗して、B松浪庄五郎と名を改め、武芸に励むようになりました。
 松浪庄五郎は、同郷の油商人奈良屋又兵衛(屋号は山崎屋)の娘と結婚し、名をC山崎庄五郎と改めました。山崎庄五郎は、諸国に油を売り歩るきました。
 1517(永正14)年、美濃の守護土岐正房の長子である土岐盛頼と正房の次子である土岐頼芸とが対立しました。兄盛頼を支持したのは守護代斎藤利良、弟頼芸を支持したのが斎藤家の家臣長井利隆でした。これに、越前の朝倉氏、近江の浅井・六角氏が、それぞれの利害関係で、複雑に絡み合っていました。
 1520(永正17年)、山崎庄五郎(27歳)は、乱れに乱れている美濃に入りました。妙覚寺で同僚だった日運上人の世話で、油店を開き、稲葉山・川手・鷺山など油の行商に出かけました。
 油売りの技術を見た稲葉山城主長井長弘の目代矢野五左衛門は、山崎庄五郎を雇い入れました。
 鎗の技術を見た長井長弘は、山崎庄五郎を召抱えました。長井長弘は、山崎庄五郎を川手城の土岐盛頼に会わせました。しかし、政頼は、「尋常の人相にあらず、君子の親しむ者にあらず」と山崎庄五郎の野心を見抜き、採用しませんでした。
 山崎庄五郎の才を惜しんだ長井長弘は、自分の家臣である西村三郎左衛門尉の跡継ぎに山崎庄五郎を任命しました。そこで、山崎庄五郎は、名をD西村勘九郎正利と改めました。
 次に、長井長弘は、土岐盛頼と対立して鷺山城にいた弟土岐頼芸に、西村勘九郎を会わせました。遊芸を好んだ頼芸は、西村勘九郎の多芸多才に感心し、即座に、採用しました。
 1527(大永 7)年、土岐頼芸の信任を得た西村勘九郎(34歳)は、川手城攻略を進言しました。頼芸は、失敗したときのことを心配しましたが、油を売って情報を入手している西村勘九郎は「負けるはずない。負けてもすべての責任は私がとる」と口説きました。
 夜半、西村勘九郎は、5千の兵を率いて川手城の土岐盛頼を奇襲攻撃しました。不意をつかれた城内は大混乱に陥り、盛頼は越前へ逃れました。頼芸は、美濃守護となり、西村勘九郎は、その補佐役になり、ついに実権を握りました。
 1530(亨禄3)年、西村勘九郎(37歳)は、恩人である長井長弘を土岐頼芸に讒言して、上意討ちと称して、長弘を殺害しました。さらに長井家を乗っ取り、E長井新九郎規秀と改名し、稲葉山城を本拠としました。稲葉山城城下の加納に楽市令を布きました。これが楽市令の最初です。
 1538(天文7))年、守護代斎藤利隆が亡くなりました。土岐頼芸は、長井新九郎(45歳)に斎藤家の家督を相続させました。長井新九郎は守護代となり、名もF斎藤左近大夫利政と改めました。
 1542(天文11)年、守護代斎藤利政(49歳)は、大桑城の守護土岐頼芸を攻めて美濃を手中に入れました。頼芸は、尾張の織田信秀を頼り、美濃を逃げ出しました。
 1547(天文16)年、土岐頼芸の進言を入れ、織田信秀(信長の父)は、稲葉山城を攻めました。
 1548(天文17)年、斎藤利政(55歳)は、織田信秀と和睦して、剃髪して道三と号するようになりました。ここにG斎藤道三が誕生しました。道三は、織田家と同盟するために、濃姫織田信長に嫁がせます。
 1551(天文20)年、織田信秀が死に、織田信長が家督を受け継ぎました。
 1533(天文22)年、斎藤道三(60歳)は、尾張の正徳寺で、娘婿の織田信長と会見します。
10  1554(天文23)年、斉藤道三(61歳)は、国内の土岐勢力や土岐家恩顧の家臣を懐柔するために、斉藤義龍(母は元土岐 頼芸の側室の妻深芳野)に家督を譲ります。義龍は、その側室が道三に嫁いですぐに生まれたので、道三の子ではなく、土岐 頼芸の子だという噂がありました。
 斉藤道三は、斉藤義龍に、わが子を励ますために、「美濃は信長の領土になるだろう」と語りました。しかし、義龍は、父道三の真意を理解できず、逆恨みしました。やがて、義龍は、道三と父子の縁を断ちました。
11  1556(弘治2)年、斉藤義龍は、土岐家恩顧の家臣の支持を受け、弟2人を殺し、1万2千の兵を率いて、鷺山城の父斉藤道三(63歳)を攻撃します。応戦する道三の兵は、僅か2千でした。
 斉藤道三は、織田信長軍の深入りを心配してか、自害を覚悟し、娘婿の織田信長に美濃一国の譲り状を書き、唯一殺されなかった末子には僧になるよう遺言しました。
 斉藤道三は、最後に、斉藤義龍の采配を見て、「これで、斉藤家も安泰だ」 と語り、死んでいったといいます。道三の首は、息子義龍の命で晒されましたが、何者かが、これを盗んで葬ったといいます。
12  1561(永禄4)年、斉藤義龍(34歳)が急死しました。後を継いだ斉藤龍興は、まだ、14歳でした。
 1567(永禄10)年、織田信長は、「美濃一国譲り状」を大義名分として、稲葉山城を攻略し、斉藤龍興を追放しました。信長は、稲葉城を岐阜城と名を改め、斉藤道三にならって、楽市令を発しました。
野望を才覚と努力で達せいした、斉藤道三
 買い物に行って、寄り道をして帰ってくると、「どこで油を売ってきた」といわれた経験は、誰にもあります。その語源は、昔、油は、漏斗(ジョウゴ)を使って、油壷や油徳利に移していました。これにとても時間がかかりました。そこで、油売りは、客を退屈させないような話を長々としていたのです。
 山崎新九郎は、漏斗も使わず、しかも、一文銭の穴から、壷や徳利に移して、客から喝采を得ました。新九郎の狙いは、この技術を以て、出世の糸口にしようとしたのです。大変な努力を要しました。
 案の定、この技術を見た稲葉山城主長井長弘の目代矢野五左衛門は、早速新九郎を雇い入れました。新九郎は、ここでは鎗の猛練習をしました。木の枝に一文銭をつるし、三間半の長柄の鎗の穂先を釘状に細くし、10突10中(100%)するまでになったといいます。
 この話を聞いた城主長井は、新九郎を召しかかえたといいます。新九郎の作戦どうりでした。
 斎藤道三は、婿のうつけぶりをみようと、民家から織田信長の行列を覗き見ます。道三が見たものは、諸肌脱ぎで瓜をかぶりつき、腰には注連縄で結えた瓢箪をぶら下げた、信長の異様な風体でした。次に、道三が目を見張ったのは、鉄砲隊でした。道三でさえ、数十挺しか変えない高価な鉄砲を、信長は500挺も持っていたのです。
 道三も、信長も鉄砲の革新性を見抜いている点では同じですが、信長の方が経済力・外交力では、道三を上回っていたといえます。
 道三は、婿の服装に合わせて平服でした。しかし、信長は盛装でした。道三が、「是ぞ山城殿にて御座候」と紹介されると、信長は、「であるか」と答えました。これを見た道三の家臣は、「やはり、信長は、うつけ者だった」と感じましたが、道三は、「わしの子らは、あのうつけの門外へ馬を繋ぐであろう」と言ったといいます。「非凡なものは、非凡なものを理解出来る」という話です。
 斎藤道三は、美濃守護である土岐頼芸から「襖の虎の絵の目を槍で突けたなら、何でも与えよう」という賭けに勝ちました。そこで、道三は、頼芸が寵愛する側女の深芳野を望み、そして妻として与えられました。しかし、その時、すでに深芳野が妊娠していたという噂です。
 深芳野から義龍が生まれたことは事実です。しかし、義龍にとって本当の父は誰かという疑念が、ついに父道三を襲う結果となりました。血が濃い故の悲劇です。
 8度の改名は、斎藤道三の波乱の人生と、戦国時代の象徴です。

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