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エピソード

098_02

川中島の戦い、上杉謙信と武田信玄
 1506(永正3)年、越後の一向一揆は、越後守護代長尾能景(48歳。上杉謙信の祖父)を殺害しました。
 1507(永正4)年、越後の守護代長尾為景(上杉謙信の父)は、守護上杉房能を殺害しました。
 1530(享禄3)年、上杉謙信は、長尾為景の次子として、春日山城で生まれました。幼名は虎千代です。
 1537(天文3)年、長尾為景が亡くなりました。越後守護上杉氏恩顧の家臣が反旗を翻しました。
 1544(天文12)年、守護代を継いだ長尾為景の長子長尾晴景は、為景の次子長尾景虎(14歳。虎千代の元服名)を栃尾城に派遣しました。景虎は、華々しい活躍をしました。
 1548(天文17)年、戦国時代、長尾晴景では持たないと考えた家臣のクーデタにより、守護代は次子長尾景虎(18歳)が就任しました。
 1550(天文19)年、越後守護上杉定実は、跡継ぎも無く亡くなりました。長尾景虎(20歳)は、越後守護に就任しました。
 1561(永禄4)年、関東管領上杉憲政が、北条氏康に攻められて、長尾景虎(31歳)を頼ってきました。憲政は、関東管領職を景虎に譲りました。ここの関東管領の上杉景虎が誕生しました。出家して上杉謙信となりました。
 1511(永正8)年、武田信玄は甲斐の守護武田信虎の長子として、生まれました。幼名は太郎です。
 1541(天文10)年、戦国時代、農民に過酷過ぎる武田信虎では持たないと考えた家臣のクーデタにより、武田晴信(31歳。太郎の元服名)は、父の武田信虎を駿河の今川義元の元へ追放しました。
 1542(天文11)年、武田晴信(32歳)は、信濃の豪族諏訪頼重を攻略しました。
 1553(天文22)年、武田晴信(43歳)は、信濃の豪族村上義清を攻略しました。村上義清は、越後の上杉景虎を頼りました。その結果、第一次川中島の戦いが始まりました。
 1559(永禄2)年、武田晴信(49歳)は、出家して、武田信玄と名を改めました。
 1560(永禄3)年、桶狭間の戦いで、今川義元が討たれたので、武田・今川・北条の三国同盟が、くずれました。
 1561(永禄4)年、第四次川中島の戦いが始まりました(両軍にとって、最大の戦争となりました)。
 東側を千曲川が流れ、北側を犀川流れ、その合流地点を三角地付近を川中島といいます。犀川の北側に善光寺があります。川中島は、越後・甲斐・信濃・上野からの道路の交差点にあり、軍事的・経済的に重要な拠点です。
 武田軍がここを突破すると、越後の拠点頸城平野は眼下に入るし、信濃川下流の魚沼地方が占領されると、関越連絡網が遮断されてしまいます。私も忠臣蔵の調査で、諏訪まで言った時、川中島まで足を伸ばしました。川中島は、甲越両軍の最前線だったということを体験しました。
 1461(永禄4)年8月14日、上杉謙信(31歳)は、1万3千の兵を率いて、春日山城を出て、千曲川の南の妻女山に布陣しました。
 8月18日、武田信玄(51歳)は、2万の兵を率いて、躑躅が崎館を出て、犀川の南の茶臼山に布陣しました。武田軍は北、上杉軍は南に陣したので、互いに敵軍の退路を遮断した形で対峙しました。
 8月29日、武田信玄は、越軍の退路を断つことの不利を悟り、謙信のいる妻女山の前を通って、千曲川の広瀬の渡しを渡って、妻女山の西の海津城に入りました。
 9月9日深夜、武田信玄は、霧が深いことを確認すると、軍師山本勘介の啄木鳥戦法を採用し、1万2千の別動隊を組織して、海津城を抜け出し、間道を通り、妻女山の側面に向かわせました。信玄率いる8千の本隊は、早暁に海津城を出て、広瀬の渡しを越え、海津城の北の八幡原に出ました。そして、別動隊に襲撃されて、混乱のさなか、妻女山からあわてて出てきた上杉謙信の本隊を壊滅させる作戦を実行しました。
 上杉謙信は、海津城内から立ち上る炊煙の量の多さから、武田軍の夜襲を察知しました。そして、妻女山に残した100人に、大篝火を燃やさせて、上杉軍が陣取っているようにカムフラージュし、武田軍の夜襲部隊の目をかく乱させる作戦をさずけました。謙信は、本隊を率い、千曲川の雨宮・十二ケ瀬・狗ケ瀬を渡って、川中島に出ると、直ちに車懸りの陣を布きました。
 9月10日午前6時、八幡原に陣取った武田信玄の前に、濃霧の中から突如姿を現したのは、妻女山から追い出されて来た上杉謙信ではなく、謙信の襲撃部隊でした。信玄は、急遽、兵を鶴翼の陣を布きました。
 絶体絶命の武田信玄は、も抜けの妻女山から引き返してきた別働隊の到着で窮地を救われました。
 武田信玄は、体制を建て直し、反撃に転じたので、上杉謙信は、犀川から越後へ引き上げました。
川中島の戦い余話
 上杉謙信率いる上杉軍は、夜陰にまぎれて妻女山を下り、千曲川を渡りました。謙信が雨宮の渡しを渡った時の様子を、頼山陽が有名な詩にしました。
「 鞭声粛粛 夜 河を過る
  暁に見る千兵の大牙を擁するも
  遺恨なり 十年一剣を磨き
  流星光底に 長蛇を逸す」
 妻女山から降りた上杉謙信は、僧衣に、白手巾で頭を包み、放生月毛の馬に乗って、三尺の太刀を振りかざして、三度も信玄に斬りつけました。信玄は太刀を抜く間もなく、軍扇で謙信の太刀をかろうじて避けました。三度目の太刀は信玄の肩先を斬りつけたといいます。
 この時、駆けつけたのが原大隅守です。大隈守は、必死で、馬上の謙信をめがけて、槍を突き上げました。謙信は、それをかわしましたが、鎗は謙信の馬の尻を刺しました。馬は驚いて跳ね上がり、駆けていきました。これが世に言う、謙信と信玄の「三太刀、七太刀」です。
 『甲陽軍鑑』は、「卯の刻に始まりたるは大方越後輝虎のかち、巳の刻に始まりたるは甲州信玄公の御かち」と記録しています。多くの書物も引き分けとしています。
 しかし、謙信を頼った諏訪氏や村上氏の領地は、信玄がそのまま領有しており、川中島も信玄の支配下になっています。総合的には、信玄が勝利したといえます。
 ロマンとしては、両雄相譲らずというのが、いいのかも知れませんね。
 戦いにばかり目を奪われてはなりません。戦国大名として、上杉謙信は、佐渡・越後の金山を開発し、武田信玄は、甲斐の金山を開発し、信玄堤を作って新田を開墾させています。
 私の好きな武将の1人が武田信玄です。いずれ項を改めて(第二版)、紹介いたします。

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