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エピソード

098_03

毛利元就、中国地方を平定(厳島の戦い)
 1497(明応6)年、毛利元就は、毛利弘元の次子として、吉田の郡山城(広島県吉田町)で生まれました。幼名を松寿丸といいます。
 1500(明応9)年、毛利弘元(33歳)は、長子毛利興元(8歳)に家督を譲り、松寿丸(4歳)と共に多冶比猿掛城に移りました。
 1501(文亀元)年、松寿丸が5歳の時、母が亡くなりました(「我等は五歳にて母にはなれ候」)。
 1506(永正3年)、松寿丸が10歳の時、父の毛利弘元(39歳)が亡くなりました。(「十歳にて父にはなれ候」)。その結果、松寿丸(10歳)は、多冶比猿掛城主となりました。
 1507(永正4)年、兄の毛利興元が元服式を迎えた時、大内義興は、興元の名付け親になりました。
 1511(永正8)年、松寿丸(15歳)は、元服して毛利元就と名を改めました。この頃、宗家の重臣井上元盛が、元就の後見人という立場を利用して、元就を土牢に閉じ込めました。
 1515(永正12)年、安芸の守護武田元繁は、大内義興に背いて、隣接する己斐城(広島市西区)や吉川氏有田城を占領しました。大内義興の命を受けた毛利元就(19歳)の兄毛利興元は、有田城を取り返し、吉川氏に返しました。これから、毛利氏と吉川氏の縁が始まりました。 
 1516(永正13)年、毛利元就(20歳)の兄の毛利興元(24歳)が亡くなりました。(「十九歳之時、興元早世候」)。毛利興元の長子幸松丸が家督を相続しました。これを機会に、尼子経久と結んだ武田元繁は、多治比領内に攻め入ってきました。
 1517(永正14)、毛利軍1000騎に対して安芸の守護武田元繁軍5500騎です。毛利元就(21歳)は、元繁を川におびき寄せ、戦死させました(大内義興は、この戦いを「多治比(元就)のこと神妙」と記録しています)。これが、元就の初陣でした。
 この頃、元就は、小倉山城(山県郡大朝町)の城主吉川国経の次女を妻に迎えました。
 1523(大永3)、猿掛城主の毛利元就(27歳)の長子千代寿丸(のちの毛利隆元)が生まれました。
 郡山城(高田郡吉田町)城主幸松丸(9歳)が病死しました。老臣15人の連署(「家中一致」)により、毛利元就が宗家の家督を相続し、郡山城に入りました。
 しかし、宿老15人のうち、坂広秀渡辺勝ら尼子派は、大内派の毛利元就では毛利家が危ないと、異母弟相合元綱を当主にしようと画策しました。相合元綱と坂広秀・渡辺勝は、殺害され、広秀のいとこ桂広澄は責任を取って自害しました。桂広澄の息子は、毛利元就の説得で、自害を思いとどまり、元就の力になります。
 1530(享禄3)年、毛利元就(34歳)の次子松寿丸(後の吉川元春)が生まれました。
 1533(天文2年)、毛利元就(37歳)の三子徳寿丸(後の小早川隆景)が生まれました。
 宿敵だった隣接の五竜城(高田郡甲田町)へ出掛けて、城主宍戸元源と和解し、毛利元就の娘を宍戸元源の嫡孫宍戸隆家に嫁がせました。敵の懐に捨て身で飛び込む、元就の度量の大きさが見えます。
 毛利元就は自分が殺した熊谷元直の息子である三入高松城(広島市安佐)の城主熊谷信直と和解しました。後に、次子元春は、信直の娘を正室に迎えています。元就の人間性を見る思いです。 
 1537(天文6)年、尼子氏を継いだ孫尼子晴久は、祖父尼子経久に相談せず、新宮党尼子国久(尼子経久の弟)と図って毛利攻めを決定しました。
 毛利元就(41歳)は、宗家の危機回避するために、長子千代寿丸(15歳)を人質として大内氏に差し出しました。この時、元就は、3人の子を集め、3本の矢を使って、結束の教訓をしました。
 1540(天文9)年、尼子晴久・新宮党3万に対して、毛利軍は2000の兵でした。毛利元就(44歳)は領内の住民を郡山城内に入れ、籠城戦を採用しました。
 尼子晴久も、兵糧攻め作戦を採用しました。佐東銀山城武田信実も参陣しました。
 大内の援軍もなく、長期戦になって、毛利軍には食糧が不足しました。必死になって尼子本陣に打って出ましたが、新宮党に阻まれ、退却せざるを得ませんでした。
 開戦より4ヵ月後、戦局を見ていた陶隆房(後の陶晴賢)は、大内軍を率いて参陣し、勝敗は決しました。
 武田信実は、敗走中に戦死しました。
 1541(天文10)年、毛利元就(45歳)は、武田信実の家臣連が立てこもる佐東銀山城を陥れ、鎌倉以来の名門である安芸武田氏を滅亡させました。 
 毛利隆元は、人質の役を終えて、山口より帰ってきました。
 尼子経久が亡くなりました。時に84歳でした。
 1542(天文11)年、尼子経久の死を好機として、大内義隆は、出雲に出兵し、毛利元就(46歳)も、出陣しました。
 1543(天文12)年、尼子軍の抗戦に、大内軍は戦意を消失しました。その上、毛利元就(47歳)の妻妙玖の甥である吉川興経(興経の両親と毛利元就夫妻は義理の兄弟)が、尼子軍に寝返えったので、月山富田城(能義郡広瀬町)の攻撃に失敗しました。元就は、大内軍のしんがりをつとめつつ、退却しました。
 自刃も覚悟の瀬戸際に追い込まれた時、渡辺勝の長子渡辺通が、毛利元就の甲を着けて身代わりとなり、その場で壮烈な最期を遂げました。渡辺通は「毛利を生かすことで、渡辺家の名誉を回復できる」と遺言しました。
 小早川家は、本家の沼田小早川正平(高山城主)が、尼子氏攻めに参加して、討ち死にしました。本家の沼田小早川の家督は、嫡子小早川繁平が継ぎました。庶家の竹原小早川興景(木村城主)が、嫡子がないまま、病死しました。
10  1544(天文13)年、毛利元就(48歳)の三子毛利隆景(12歳)は、竹原小早川氏を継承して、木村城(竹原市新庄町)に入りました。これが小早川隆景です。
 1545(天文14)年、毛利元就(49歳)の妻妙玖が、急死しました。時に47歳でした。元就は「毎々妙玖之儀存計候」(そのつどそのつど妙玖のことが思い出されます)と書いています。
 1546(天文15)年、毛利元就(50歳)は、家督を長子毛利隆元(24歳)に譲りました。 
 吉川経世が、直系といえども変節極まりない吉川興経を切り捨てて、宗家存続のために、毛利元春の養子縁組を、毛利元就に申し入れました。
 1547(天文16)年、渋った毛利元就(51歳)は、吉川興経は毛利氏領内に移住させる条件で、毛利元春の養子縁組を承諾しました。これが吉川元春です。興経は、毛利氏領内の布川(広島市安佐)に幽閉されました。
11  1549(天文18)年、毛利元就(53歳)は、次子の吉川元春と三子の小早川隆景をつれて、山口の大内義隆に謁見します。これが縁で、毛利隆元(27歳)は、大内義隆の養女で内藤興盛の娘と結婚します。
 この時、毛利元就は、大内義隆と陶隆房(のちの陶晴賢)の対立を肌で感じて、安芸に帰りました。
12  1550(天文19)年、毛利元就(54歳)は、商いをしている井上元兼を「私腹を肥やしている」として、宗家を無視し続けた井上元兼一族30人余を殺害しました。元就は、毛利隆元に当てた書状に「これは自分の代でため直し、これを隆元の代に持ちこさないために決断した」と記しています。
 毛利元就の次子吉川元春(21歳)は、母妙玖の実家、吉川氏の養嗣子となって小倉山城(山県郡大朝町)に入りました。元就は、幽閉先の居館を急襲して、吉川興経と嫡男千法師を殺害しました。ここに吉川氏は毛利領となりました。
13  1551(天文20)年、小早川隆景を本家の沼田小早川繁平の妹と結婚させて、両家を合体させようという動きが出てきました。毛利元就(55歳)は、沼田小早川家の反対派を殺害し、隆景(19歳)は、繁平に代わり、沼田小早川家を相続しました。そして、木村城から高山城に入城し、ここに両小早川氏は合体しました。ここに小早川氏は毛利領となりました。元就は、直属の家臣36人を、高山城に送り込みました。
 ここにに、重臣筆頭の陶隆房ら武闘派が決起しました。追い詰められた大内義隆を中心にした文治派は、長門国大寧寺(長門市深川町)で自害しました。時に、大内義隆は45歳、嫡子大内義尊はわずか7歳でした。
14  1553(天文22)、毛利隆元の長子幸鶴丸(後の毛利輝元)が郡山城で誕生しました。
 主君の大内義隆を倒した陶晴賢(陶隆房を改名)は、大内氏残党の激しい抵抗に合い、国内制圧に手間取っていました。大内義隆の姉むこにあたる津和野三本松城(鹿足郡津和野町)の城主吉見正頼が、義弟の復讐に立ち上がりました。吉見正頼は、毛利元就(57歳)に支援を要請しました。攻めあぐねた陶晴賢も、毛利元就に加勢を求めてきました。
 毛利元就は。内心はともかく、陶晴賢に義理立てを主張しました。大内義隆を義父にもつ当主毛利隆元は、陶晴賢征伐を訴えました。父の毛利元就に従順な子の毛利隆元が、初めてみせた自己主張でした。
15  1554(天文23)年、毛利元就(58歳)は、陶晴賢との関係を断ちました。大内氏の支配下にあった銀山、己斐、草津(いづれも広島市)、桜尾(廿日市市)の四城を攻略し、さらに、厳島(佐伯郡宮島町)に進出しました。陶晴賢の拠点を押さえたことになります。
 新宮党は、尼子経久の次子尼子国久を中心にした武闘集団(尼子氏の「杖柱」)で、月山北麓の新宮谷を本拠に置いていたので、この名があります。新宮党は、事あるたびに「尼子経久」の名をだすので、尼子晴久は、嫌気がさしていました。
 陶晴賢は、毛利攻めを決定しました。尼子晴久は、手薄になった毛利攻めを決定しました。この時、毛利元就から新宮党党首の尼子国久宛の手紙が、尼子晴久に届きました。尼子晴久は、尼子久やその3人の息子を殺害しました。しかし、これは毛利元就の謀略、情報戦でした。
16  1555(弘治元)年、陶晴賢は、毛利元就(59歳)から届いた陶晴賢の重臣江良房栄への手紙を手に入れ、そして、江良房栄を殺害しました。これも、毛利元就の謀略、情報戦でした。
 厳島合戦の戦力は、陶軍2万に対し、毛利軍は4000でした。厳島進出を果たした毛利元就は、島内東側の要害山宮尾城を建設し始めました。厳島神社の門前町と港を支配してきた陶晴賢は、のど元に剣先を突き付けられた格好に追い込まれ、本隊を塔ノ岡(豊国神社=千畳閣付近)に集結して、厳島死守の構えに入りました。
 両軍は、わずか700メートルほどの距離に対峙しました。毛利元就は、宮尾城を陶軍に攻めさせ、その間に背後の山と海から挟み打ちにする奇襲戦法を採用しました。
 因島(因島市)・能島(越智郡宮窪町)・来島(今治市)を拠点とする村上水軍が、毛利勢に味方することを決めました。その理由は「毛利元就は、側に寄る者を活かす」というものでした。
 奇襲攻撃まで持ちこたえなければならない宮尾城は、陶軍の度重なる波状攻撃を受けて、落城寸前でした。地御前にいた毛利元就の軍勢は、村上水軍の力を借り、陶晴賢の本拠塔ノ岡の背後にある包ゲ浦まで、嵐を突いて渡海を強行しました。包ゲ浦から博奕尾を一気に駆け降り、陶軍の背後を襲撃しました。小早川隆景が率いる水軍は、陶の援軍と見せかけ、嵐の中を厳島神社正面から上陸しました。 挟み撃ちにあった陶軍は、大混乱に陥り、敗走しました。風雲児の陶晴賢は、「これも運命。惜しいことも、怨むことも、何も無い」と言って自害しました(「大江と言うところにて腹を切らせ申す」)。時に35歳でした。陶氏が滅亡しました。
17  1557(弘治3)年、毛利軍が、陶晴賢の居城である若山城(新南陽市)を攻略したので、大内義長は、且山城(下関市)に逃れ、ついに自害しました。ここに名門大内氏は滅亡します。
 大友氏は、大内氏旧領の豊前国、毛利氏は、周防・長門を領有することで、決着がつきました。毛利氏は、安芸・備後・周防・長門の4カ国を支配する大大名に成長しました。
 毛利元就(61歳)は、すべてを毛利隆元(35歳)に譲って引退することを告げました。隆元は「自分が死んでしまえば元就は蟄居もできなくなる」と驚き、弟2人に助力を求めています。
 3人の子の説得で、引退を思いとどまった毛利元就は、「三子教訓状」を作成しました。こうして、戦国時代には珍しい「毛利両川」体制が形成されました。これも、元就の作戦勝ちです。
 また、この頃、毛利元就は、安芸の国衆ら12人、備後の国衆ら18人との間で、誓約書を交わしています。これが世に言う「傘連判」(円形状の連署)です。元就の懐柔策の1つの方法です。
18  1560(永禄3)年、尼子晴久が病死しました(毒殺されたとの説もあります)。時に47歳でした。
 1562(永禄5)年、毛利元就(66歳)は尼子氏の本城月山富田城を包囲し、持久戦を採用しました。また、尼子氏の海や陸からの兵糧輸送ルートを断つため、伯耆・因幡の属城を攻略しました。さらに、穀倉地域では、青田刈りをしています。
 1563(永禄6)年、毛利元就(67歳)の長子毛利隆元(41歳)が急死しました。
 1565(永禄8)年、毛利隆元の長子幸鶴丸(元就の孫)が元服して、毛利輝元と名を改めました。
 月山富田城を兵糧攻めにして、4年目に入りました。
19  1566(永禄9)年、籠城か開城かをめぐって、毛利元就(70歳)の手紙が届き、疑心暗鬼に陥った尼子義久は、家老宇山久信を殺害ししました。元就の陰謀、情報戦です。
 ついに、兵糧攻めに耐えられず、尼子義久ら3兄弟は、月山富田城を開城しました(「今度和談の儀、芸州に至り御下向あるべきの旨を以て、入眼せしめ候」)。助命嘆願が聞き入れられた尼子義久ら3兄弟は、安芸の円明寺(高田郡向原町)に幽閉されました。その後、3兄弟は、志路(広島市安佐)に領地をもらって移住しています。戦国の世では、珍しい処置です。
20  1569(永禄12)年、山中鹿介は、尼子氏の「新宮党」の遺児を頭にして、尼子氏再興のために挙兵しました。鹿介は「願わくばわれに七難八苦を与えたまえ」と、兜の三日月に向かって祈った人として有名です。
 1571(元亀2)年、毛利元就は、軍山城で亡くなりました。時に75歳でした。
 1577(天正5)年、山中鹿介は、織田信長軍の援助で播州上月城(兵庫県佐用郡上月町)に立てこもりましたが、毛利軍に捕らえられ、備中阿井の渡(高梁市)で殺害されました。時に34歳でした。
250回も戦った毛利元就
 毛利元就は、250回も戦っています。また、元就の戦哲学は、尼子経久の「計りごと多きは勝ち、少なきは負け」という戦術を継承して言われています。
 斉藤道三や北条早雲のように、一気に頂点を叩けば、権力が手に入る時代です。その方法を採用しなかったが故に、元就は、大変遠回りしています。元就を知るために、ここでは、拙速をとらず、無骨な文章で、生涯を紹介しました。お付き合い下さい。
 毛利元就の父弘元は33歳、祖父は39歳、兄は24歳で亡くなっています。酒による害だったと記録されています。強大な大内氏と尼子氏からの難題に、国人として対処するうちに、酒によって逃避するしかなかった厳しい現実があったのでしょう。
 しかし、元就は、兄が亡くなった時、「禁酒」を決意し、生涯この誓いを守ったといいます。苦しい状況に真正面から対峙した元就の精神力に敬意を表します。
 元就は、わずか300貫の猿掛城主から、中国地方を支配する大大名になりました。しかし、元就の遺言は「天下を望むなかれ」だったといいます。斉藤道三のように一気に頂点を目指さず、250回も戦った理由が、分かりました。
 とはいえ、敵側の情報を詳細に入手し、分裂する要素があれば、それを徹底的に利用しています。知将毛利元就と言われますが、謀略家毛利元就の顔もあります。情報戦略家毛利元就でもあります。
 余り触れられていないのが、人事面での元就です。生死の分かれ目、戦局の帰趨を決める重要なポイントで、救いの手が伸びています。殺害した人の子が身代わりになったり、味方になったりしています。厳島の戦いでは、村上水軍が元就がたにつきました。人を活かす上司だったのでしょうね。
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』、『毛利元就』(中国新聞)などを参考にしました。先人の労苦に感謝します
沼田小早川雅平 小早川正平 小早川繁平
━━━━━━
竹原小早川景平 ……… 小 早 川 興 景 小早川隆景 ←┓(養子
内藤興盛の娘   ┃
毛利広元 毛 利 興 元 ‖━ 毛利輝元  ┃
‖━ 毛 利 元 就 毛 利 隆 元  ┃
福原広俊の娘 ‖━ ━━━毛利元春 養子  ┃
吉川経基 吉川国経の娘 ━━━━━━━ ━━━ 毛利隆景
吉 川 元 経 吉川興経━千法師 吉川元春

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