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エピソード

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室町時代の教育(『庭訓往来』、『節用集』)
 真実かどうか分かりませんが、私が生まれ育った地域では、こんな噂がありました。子供心に記憶に残っています。今考えてみても、的を得た噂だと思います。
 その1つが、「ここら辺には大きなお店がないので、勉強してサラリーマンになるしかない」というものでした。もう1つは、「あの地域は、田んぼを持っている人が少なく、サラリーマンが多いので、よく勉強する子が多い」というものです。即ち、親の財産を当てに出来ないので、勉強して、自立するしかないのです。 
 室町時代の武士の状況をみると、百姓をしながら、先祖が得た守護や地頭という役職についている。今風に言えば、兼業農家といえます。サラリーマンとしての役職を無事果たすために、『貞永式目』(今の民法)や『庭訓往来』(一般常識)を教科書として使っていました。
 『庭訓往来』は、ひと月に往信と返信を各1通提示し、12ヶ月分の24通と「八月十三日状」の1通を加えた25通で構成されています。文章は「久不啓案内之間不審千万何等御事候哉」のように漢文となっています。内容は、5月は大名・高家の饗応、6月は盗賊討伐への出陣、8月は司法制度・訴訟手続きなどがテーマになっています。往復書簡25通を学ぶと、単語が964語学べることになっています。そのうち、370語が日常生活に必要な衣食住関係、教養・文学などは105語となっています。
 商工業者の教育は、「読み」「書き」「計算」を基本としています。仕事を維持・発展させるために、必要な道具でもありました。客が来なくても困るし、来ても買ってくれないと困るし、現実的な要望でした。
 『いろは歌』は、「 いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす 」(「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢みじ 酔ひもせず」)という七五調の分かりやすい「かな」47文字で構成されています。47文字を覚えれば、すべての日本語は表記されるので、徹底して、繰り返して、覚えさせたといいます。
 『節用集』(国語辞典)は、「路(ロ)」の項として、乾坤(路次、路頭、鹿野苑など)、官位(漏刻博士、六位など)、草木(盧橘、蘆葦など)、衣食(櫨甲、禄物など)など18部門を紹介しています。
 『童子教』(日常道徳)には、次のような話が出てきます。「人として礼無きは衆中又過(トガ)有り、衆に交はりて雑言せざれ」、「語多きは品少なし、老ひたる狗の友を吠ゆるが如し」、「懈怠の者は食を急ぐ、疲れたる猿の菓(コノミ)を貪るが如し」、「人は三寸の舌を以つて  五尺の身を破損す。口は是れ禍の門、舌は是れ禍の根なり。口をして鼻の如くならしめば、身を終るまで敢へて事無し」、「過言一たび出づれば、駟追(シツイ)舌を返さず」などがあります。「口は災いの元」とか「寡黙は金、多弁は銀」などの今にも役立つ諺の類を取り上げました。
 農村社会でも、「読み」「書き」「計算」が浸透していきました。
 宣教師のフランシスコ=ザビエルは、足利学校を「坂東の大学」と紹介しています。
 ザビエル後に来た宣教師も、「キリスト教に対する日本人信者の理解の早さは教育水準の高さによる」と述べています。
百年の計は教育(若者)にあり
 以上見てきたように、勉強や教育は、仕事を果たすために必要であり、また仕事を円滑にするためには、日常生活の規範も大切でした。
 また、子供は若者になり、若者は大人になり、社会の柱になっていきます。社会の発展や大人の老後は、若者の生き方に負っています。 
 私にとって、学校は、色々な先生や友達との出会いがあって、楽しい所でした。息子や娘もほとんど休むことなく、通ったものです。
 台風で全市が水没した兵庫県豊岡市では、学校が再開されました。小学生の明るい笑顔に接した時は、本当にホッとすると同時に、新しいエネルギーを与えられたものです。
 本来、屈託のない、天真爛漫な子供たちが、今、とても危ない。
 30日以上登校していない生徒を不登校生という。平成12年の小中学生の不登校は13万4,282人に達っしています。平成14年度は13万1,252人、平成15年度は12万6,226人でやや減少傾向にあります。しかし、友達と会える、楽しいはずの学校を、嫌いな生徒がこれだけいる、予備軍を含めるともっといる。それはとてつもなく、日本の将来にとって不幸なことです。
 高校から就職して3年で離職する者は50%、大学から就職して3年で離職する者は30%といわれています。
 フリーターは217万人、ニートは52万人に上ります。失業率は24歳以下で10.1%です。(2003年度統計。厚生労働省発表)。特にニートは義務教育終了後、就職もアルバイトもせず、教育機関にも通わず、職業訓練を受けていない人を指しています。引きこもったり、立ちすくんだりする特徴があります。 
 しかし、今、100年後を考えると、憂鬱な気分になります。子供や若者の姿は、大人社会の投影です。元首相や元官房長官や元与党の幹事長ら日本のトップを務めたリーダーたちが、「1億円授受」について、「記憶にない」と平然と言い放ったり、「罪のなすり合い」(朝日新聞社説)を演じています。
 どうして、子供や若者に、教えを説くことができるでしょうか。
 TVによく出演する精神科医なる教育評論家は「金をもうけるには、医者か弁護士になれ」「そのためには、学校を休んで、塾や予備校に行け」と広言しています。「医は仁術」でなく、「医は算術」を提唱し、社会の木鐸である弁護士には、「大企業や大金持ち」を弁護せよと、額に汗して働く人々を冷笑する。
 名誉や地位もある人が、我利我利亡者となって、どうして、若者に夢を与えられるのでしょうか。
 楽しいはずの学校が、遠くなってしまったのは、何が原因でしょうか。
 私は、日本のリーダーが自ら泥試合を演じて、子供や若者の夢を打ち砕いたことに原因の1つがあります。昔のリーダー(武士も含め)は、潔く身の処し方を知っていた。
 次に、子供や若者の見本になるべき人が、金のために何をしてもいいと広言しています。「汚く儲けて綺麗に使う」のではく、「汚く儲けて汚く使う」という悪賊(義賊ではない)の風潮が蔓延していることです。 
 次に、勉強の基礎基本の考え方が失われていることです。室町時代の教育を見ても、実学を重視して、まず生活力を身につけさせ、その上で人間として必要な教養を徹底して、反復して教えていることです。 私は、売れるような「柴」が作れたり、牛で田や畑を自由に鋤けるようになると、大人から「やっと一人前になったな」と言われたものです。親から離れても「食える物差し」を重視する社会がありました。
 小学校の時に伸びる生徒、中学校で伸びる生徒、高校で成長する生徒、大学で飛躍する生徒、社会人になって目立つようになる人など、人間の成長は様々です。それを、低学年の段階で、「食えもしない物差し」(ペーパー上の成績)で、人間を評価することが、子供の夢を奪っているのです。
 この項を書いたのが、2004年12月16日です。12月19日付け朝日新聞は、OECDで義務教育「世界一」の評価を受けたフィンランドを紹介しています。そこには、興味深い記事がありました。
 フィンランドには『学校や生徒をテストでランク付けする仕組みがない。現行制度では、高校進学に影響する中学3年の成績を除き、成績をつけるための明確な基準もない。数学が得意だというカッリ・コムシくんは「競争ではなく、自分がやりたくて、できるようになりたいから勉強している。数学が苦手な友達を助けてあげるのはいいこと」と話した』。

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