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エピソード

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ポルトガル人が種子島へ、イスパニア人が平戸へ
 1493年、教皇子午線が決定されました。その理由は、コロンブスが発見した島々をスペイン王の名で領有したため、ポルトガルはスペインに抗議しました。そこで、スペインは、教皇アレクサンデル6世に働きかけました。その内容は、アゾレス諸島ベルデ岬諸島の海上を通過する子午線を勢力分界線して、その東をポルトガル、その西をスペインの勢力圏としました。
 1494年、教皇子午線を変更し、トルデシリャス条約が調印されました。内容は、教皇子午線を西に移動させ、西経46度30分より東側がポルトガル、その西側がスペインという海外領土条約です。大航海時代の象徴的な内容です。
 1498年、ポルトガル人のヴァスコ=ダ=ガマ(30歳)は、アフリカの南端喜望峰を経由し、ポルトガル領海内だけを通過して、インド西海岸のカリカットに到達しました。
 1519年、ポルトガル人マゼラン(40歳)は、ポルトガルの活動にあせるスペイン国王に、「スペイン領海域だけを通過して香料諸島に到達する提案」をしました。マゼランは、5隻の船隊と237人の乗組員を率いて、サンルカル港を出港しました。
 1520年、マゼランは、マゼラン海峡(南アメリカ南端とティエラ・デル・フェゴ島との間にある海峡)を通過して、アメリカ大陸の南端を回って太平洋に出ました。
 1521年、太平洋を横断して、フィリピン諸島に到達しました。皇太子フェリペにちなんで「フィリピン」と呼ばれました。しかし、マゼラン自身は、セブ島の原住民との交渉に失敗して、戦死しました。
 1521年、スペイン人の征服者であるコルテスは、メキシコ高原に栄えたアステカ文明テノチティトラン中心)を滅ぼしました。
 1522年、残った一行は、スペイン人のエルカノを後任に、香料諸島で香料を購入し、唯一残ったヴィクトリア号で、サンルカル港に帰港しました。これが有名なマゼランの世界周航です。この結果、『地球球体説』や日付に一日のずれがある事が実証されました。
 1532年、スペイン人征服者のピサロは、ペルーに栄えたインカ帝国クスコ中心)を滅ぼしました。
 1543(天文12)年、インドのゴアを出発して、中国の寧波に向かうポルトガル船が、種子島に漂着しました。ヨーロッパ人が日本にやって来た最初です。鉄砲伝来については、別項で説明します。
 1551(天文20)年、ポルトガル商船は、豊後の日田に来航します。漂着(たどり着く)ではなく、来航とは、意思を持ってやって来たということです。
 1557(康治3)年、ポルトガル人は、中国のマカオに居住権を得て、東洋貿易の拠点としました。日本との貿易も時間の問題となりました。
 1571(元亀2)年、スペイン人は、ルソン島のマニラを占領し、東洋貿易の拠点としました。日本との貿易も時間の問題となりました。
 1584(天正12)年、スペイン商船は、肥前平戸に来航しました。スペイン人が日本にやってきた最初です。
日本の歴史は、世界の歴史です(U)
 当時のキリスト教の教えは、地球は神が創ったものであり、形は「平ら」としていました。平らな海をどんどん進むと火炎の地獄に行き当たると説かれました。肌の白い漁師が、真っ黒に日焼けした肌でその説を傍証します。
 ディアスは、その説に挑戦しました。しかし、赤道に近づくにつれ、牧師の教えにおびえる漁師が逃げ帰って、何度も挫折したといいます。どう説得したのでしょうか、ディアスはついに赤道を越え、アフリカの南端に達しました。これを偉業といいます。
 ディアスより、ガマを評価する人が多いです。私は、ディアスを支持します。その理由は、ポルトガル人は、ディアスの航海の結果、既に「赤道は通過できる」という知恵を持っています。
 また、インド人は、既に、インド洋からアフリカ東岸の赤道付近まで航路を開拓しています。あとは、喜望峰とアフリカ東岸の赤道付近を結ぶ作業が残っているだけです。しかし、「コロンブスの玉子」といって、ガマのしたことを過小評価するものではありません。
 「コロンブスの玉子」の逸話をご存知でしょうか。
 コロンブスが、西インド諸島に到達したことで、スペイン王朝には莫大な富がもたらされました。その結果、コロンブスは貴族に列せられました。ある時、宮廷で盛大な歓迎式典の開かれました。その時、成り上がりを喜ばぬ貴族たちは、コロンブスをチラチラ見ながら、「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。当たり前のことだ」とヒソヒソ話をしました。
 この時です。コロンブスは、テーブルにある卵を持って、「この卵をテーブルの上に、立てることが出来る人はいますか」と質問しました。貴族たちは、何度も挑戦しましたが、誰も立てることは出来ませんでした。そこで、コロンブスは卵をテーブルの端で、軽くたたいて殻を割り、そして立てました。
 すると、貴族たちは「それなら、誰だって出来るわい」とコロンブスのやり方を非難しました。しかし、コロンブスは「誰かがやったことを真似ることは簡単です。しかし、最初に考え付いたことが大切なのです」と反論すると、以後、誰も、コロンブスを非難する者はいなくなったという話です。
 ラプラプという名をご存知でしょうか。高校の教科書11冊のうち、扱っているのは1冊という名です。超難関私大の入試でしか、扱われない存在です。
 しかし、ラプラプは、フィリッピンでは民族的英雄・最初の民族独立の防衛者として、知らない人はいないということです。
 マゼランは、セブ島に上陸し、酋長ラジャフマボンと血盟を結びました。そして、マゼランは、近隣諸島の酋長らにラジャフマボンを、皆の王とするよう要求しました。しかし、セブ島に東接する小島のマクタン島の酋長ラプラプは、これを拒否しました。
 ラプラプと対立していた同じ島のもう1人の酋長ダトウ・スラは、この提案を受け入れました。そこで、マゼランは、ラプラプの討伐に向かいました。しかし、マゼランは、浅瀬の白兵戦で戦死しました。
 私は、自虐史観の立場でもなければ、皇国史観の立場でもありません。しかし、このラプラプの記事を書きながら、白人優位の歴史観が、日本人に根強いことも感じました。
 アジア人の立場で、日本の歴史を見つめなおせたらなーと考えています。

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