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エピソード

102_03

オスマントルコ、ビザンチン帝国を攻略
 以前、5月下旬から6月初旬まで、トルコに行ったことがあります。
 私は、在職中ならば、海外旅行の体験を授業に活かせることが出来るし、子どもたちも将来を考える上で大切だと考え、あちこち家族で行ったものです。
 しかし、退職後は、単なる自己満足を満足させる自慢話でしかないので、オーストリアのモーツアルトを巡る旅以後、海外旅行には消極的でした。
 しかし、妻は、知人からの自己満足的な自慢話を聞いて、私と違う発想をしたらしく、積極的に海外旅行を計画します。その結果、ドイツでは、何の目的もありませんでしたが、行って、本当に勉強になりました。第二次大戦では、日本もドイツも敗戦国となりました。しかし、ドイツのホテルや、観光地を見ても、戦前の日本のように物をとても大切にしていました。他方、日本には、消費は美徳というアメリカナイズされた頽廃的な思想が蔓延しています。
 今回のトルコ旅行も、全て、妻が計画し、その計画に私が従うという形式でした。
 しかし、行ってびっくりする事ばかりでした。イギリスやイタリヤ・フランスでは、私たちをみて「チャイニーズ(Chinese)?」と声をかけられます。トルコでは「こんにちは」と声をかけます。東洋人を見ても日本人だと信じ切っているのです。
 料理も、西欧料理と違って、始めから終りまで、シンプルな味付けにこだわる私の舌にぴったりあうのです。
 逆に、トルコの事と言えば、セルジューク朝トルコであったり、オスマントルコであったり、トルコ風呂であったり、世界史の中のほんの一部しか知りません。私たちが習い、教えて来たのは、世界史というより、西洋史ではなかったのかと深く反省しました。
 今回も行って、本当に良かったと思いました。
 妻に感謝、温かいトルコにお礼を申します。
 そこで、オスマントルコがビザンチン帝国を滅ぼした背景などを東西の視点から探って行きたいと思います。
 トルコについての外観を見ていきましょう。
 首都はアンカラですが、最も有名な都市はイスタンブールです。面積は日本の2.5倍ということで、如何にトルコに基本知識が欠如しているかよく分かりました。バルカン半島東端の東トラキア地方(ヨーロッパ側)と小アジアのアナトリア半島(アジア側)で構成されています。
 気候は北部は日本の青森県、南部は日本の九州に位置するため、様々な変化があります。ただし、乾燥気候のため、日本のような四季の移ろいはないとのことでした。
 国土の大半がアジアにありながら、軍事的にはNATO(北大西洋機構)に加盟し、経済的にはEU(欧州連合)に加盟を申請中です。貨幣単位もそのためTR(トルコ=リラ)を採用しています。
 共に行程をガイドしたトルコ人は、自分たちの先祖は日本人と同じモンゴルから来た遊牧民だと何度も説明していました。そのため、どの店に行っても「チャイ」(トルコのお茶)が振る舞われたり、蒙古斑も見られたと語っています。日本史では、トルコのことを「土耳古」と書きます。これはポルトガル語「トルコの」(turco)を漢字化したものです。
 今回の旅行で、ヒッタイト・フリュギア・セルジューク朝(首都コンヤ)・ビザンツ帝国(首都コンスタンチノープル)・オスマントルコ朝(首都イスタンブール)・トルコ共和国(首都アンカラ)に行ってきました。旅行することで、地理、地名、歴史がおぼろげならが理解できました。
 「歴史の教師は見て来たようなウソを言い」はよくない。「歴史の教師は見て来てウソを言い」は許されるかな。
 写真入りのトルコの歴史・旅行記は、別に「親日トルコの旅の歴史と文化」をアップしますので、ご覧ください。
 オスマン・トルコの歴史を検証します。
 トルコ人は、アルタイ語族と言われています。アルタイ語族には、モンゴル語族、日本語族、朝鮮語族が含まれます。アルタイ語の特徴は、日本語と同じような配列になっています。
 例えば、「トイレはどこにありますか」はトルコでは「Tuvalet nerede?」となります。「私の名前は山田太郎です」はトルコ語では「Adim Taro Yamada」となります。
 騎馬遊牧民とは、騎馬戦術を取り入れ、戦闘能力を身につけた、トルコ系・モンゴル系などとみられる遊牧民のことです。
 匈奴は、前4世紀末〜後1世紀にモンゴル高原で活躍した騎馬遊牧民です。
 フン人(Huns)は、カザフ草原地帯の騎馬遊牧民、ゲルマン民族の大移動をもたらした匈奴と同族という説があります。
 ビザンチン帝国(330〜1453)は、ローマ帝国が分裂後、その東半分を支配した東ローマ帝国の別称です。首都はコンスタンティノープルでした。
 サーマーン朝(875〜999)は、中央アジア最初のイラン系イスラーム王朝です。
 カラ=八ン朝(10世紀中頃〜12世紀中頃)は、中央アジアのトルコ系イスラーム王朝で、サーマーン朝を倒し、東西トルキスタンを支配し、トルコ人のイスラーム化を促進しました。
 セルジューク朝(1038〜1194)は、シル川下流域に移住してきた遊牧民が建てたトルコ系イスラーム王朝です。
 ホラズム朝(1077〜1231)は、アム川下流域からおこったトルコ系イスラーム王朝です。セルジューク朝を破り、イラン・アフガニスタンを支配しました。
 ルーム=セルジューク朝(1077〜1308)は、セルジューク族の一派がアナトリアに建国した王朝です。自立してオスマン帝国を建国した。首都はコンヤです。
 オスマン朝(1299〜1923)は、ルーム=セルジューク朝に仕えていたトルコ系部族のオスマン=ベイが小アジアからバルカンを制圧して建国した王朝です。
 オスマン朝の歴史を検証します。
 オグズ群トルコ人の一分派カイウ族から派生したオスマン部族は、周辺部族と混血し、モンゴル部族に押されて小アジアに入りました。
 13世紀の前半、オスマン部族のトルコ人族長エルトゥルル=ベイは、ルーム=セルジューク朝のスルタンであるアラー・ウッディン・ケイ・クバト1世(位1219−1236) に協力し、発展しました。
 1288年、エルトゥルル=ベイの子・オスマン =ベイは、イスラムに改宗し、族長を世襲しました。
 オスマン1世(オスマン=ベイ)は、ルーム=セルジューク朝崩壊後の混乱に乗じて、アナトリア西部に自立し、オスマン帝国初代君主(位1299〜1326)となりました。ビザンツ帝国とたたかって領域を拡大し、オスマン帝国の基礎を築きました。
 1326年、オスマン=ベイの子・オルハン・ベイ(位1326〜1359)は、アナトリア西北部のブルサを占領して、首都とする。
 1337年、オルハン・ベイは、小アジアのニコメディア(イズミット)をビザンツ帝国から奪取しました。イブン・バトゥータは「トルコ系遊牧民の君主中、もっとも富強で、100に近い城を持っている」と記しています。
 オルハン・ベイの時、オスマン帝国はより強大化します。その理由は、スパーヒ(騎兵)軍団とイェニチェリ軍団の組織化にあります。スパーヒ(騎兵)軍団とは、イスラム教改宗者で構成されています。イェニチェリ軍団は、キリスト教徒から税として徴発した心身健康な子弟をイスラム教に改宗させ、その上で、厳格な教育で訓練した親衛隊で、スルタンへの強烈な忠誠心にあふれた組織です。
 1362年、ムラト1世(位1359〜1389)は、トラキア地方 (バルカン半島) に侵攻して、ビザンツ帝国第2の都市でバルカン半島南東部にあるアドリアノープル(エディルネ)を占領しました。
 1366年、ムラト1世は、アドリアノーブルに遷都しました。
 1389年、オスマン帝国のムラト1世(位1359〜1389)は、コソヴオの戦いで、セルビア・ボスニアなどのバルカン半島のスラヴ勢力を破りました。この結果、ドナウ川以南のバルカン半島は19世紀にいたるまでオスマン帝国の支配下に入りました。この戦争で戦死したムラト1世を世襲してバヤジット1世(位1389〜1402)が即位しました。 
 1396年、オスマン帝国のバヤジット1世は、ニコポリスの戦いで、トルコ十字軍(ニコポリス十字軍)を組織して、ハンガリー王ジギスムントを中心とするバルカン諸国・フランス・ドイツ・イギリスの連合十字軍10万人を撃破しました。
 1402年、オスマン帝国のバヤジット1世は、アンカラの戦いで、ティムール朝に敗れて、捕らえられたのち、病死しました。オスマン帝国は以後、1413年まで空位時代が続きました。
 1413年、バヤジット1世の子どもたちの中で、メフメトが勝利し、メフメト1世(位1413〜1421)として即位し、オスマン帝国を再興しました。
 1421年、ムラト2世(位1421〜1451)が即位しました。
 1451年、ムラト2世の子・メフメトが幼弟を殺害して、メフメト2世(位1451〜1481)として即位しました。
 1453年、オスマン帝国第7代スルタン・メフメト2世は、コンスタンティノープルを包囲攻撃し、占領したため、ビザンツ帝国は滅亡しました。メフメト2世は、コンスタンティノープルに遷都し、コンスタンティノープルをイスタンプル(イスラム教徒の町)と改名しました。イスタンプルは、黒海から地中海への出口であるボスフォラス海峡に臨む重要な都市でした。
 コンスタンチノープルは、3方向を海に囲まれ、防波堤の上に城壁を設けていました。残る1方向は陸側に面していましたが、ビザンチン帝国最盛期に築かれたテオドシウス城壁がそびえていました。7000
人の守備隊が防衛していました。
 以前、十字軍勢力は、手薄な金角湾から攻めることにし、船の帆柱から渡した板から城壁上に飛び移り、城壁を占領することに成功した例がありました。
 その結果、ビザンチン帝国は、手薄な部分を補強していました。
 胡椒などの集積基地としてコンスタンチノープルを重視するヴェネツィア・ジェノヴァ商人らは、30隻の船を動員し、金角湾の入り口に鉄の鎖を張って防御線を構築していました。
 メフメト2世は、15万の大軍を動員し、100隻の船を用意しました。その上で、メフメト2世は、金角湾の反対側にあるガラタ方面の山を登る道を整備し、ガラタの斜面から金角湾までのびる二本のレールを敷き、トロッコの上に帆船をのせ、風と牛・人力を利用して、頂上に送り、そこから金閣湾に滑り落としました。
 メフメト2世は、陸からと海からの包囲網を完成し、大砲を利用して、50日後、コンスタンチノープルは陥落しました。
 ビザンチン帝国の皇帝コンスタンチヌス11世は、トルコ兵に切り込み、戦死しました。
 山川出版社『世界史用語集』や色々なホームページを参考にしました。感謝申し上げます。
私たちが習い、教えたのは「世界史」でなく「西洋史」?
 以下は、私たちが習い、教えた「ビザンチン帝国の滅亡」までのトルコ関連の教科書の記述です(『詳説世界史』山川出版社)。
2.トルコ化とイスラーム化の進展

●トルコ民族の進出●
 オアシス都市を結ぶ東西交易路に沿う地域の住民は,多くがイラン系であった。しかし6世紀に突厥がおこり,モンゴル高原と中央アジアを統一する国家を建設すると,しだいにトルコ系の要素が加わるようになった。さらに8世紀ころから突厥にかわってモンゴル高原に進出したトルコ系のウイグル人は,ソグド商人の協力をえて,豊かな遊牧・オアシス国家を建設した。
 しかし9世紀には,ウイグル人の国家は,同じトルコ系遊牧民の攻撃をうけてほろび,住民は四散した。彼らの一部は南下して唐の領域内に移住し,ほかの一部は西走して天山山脈の東にいたった。ウイグル人の西方移住は,はやくからパミール高原付近に進出していた別のトルコ人集団を圧迫し,彼らをさらに西方へと向かわせるきっかけとなった。

●トルキスタンの成立●
 モンゴル高原で遊牧生活をおくっていたトルコ人は,突厥の時代をへて,9世紀ころから中央アジアのオアシス都市へと移住し,その多くが定住生活にはいった。彼らの数が増大すると,オアシスの住民もやがてトルコ語を習得するようになった。ペルシア語で「トルコ人の地域」を意味するトルキスタンの呼称がおこったのは,このような数世紀間にわたるトルコ化の結果であった。
 トルキスタンは,パミール高原をさかいにして大きく東西にわけられる。西トルキスタンでは,イスラーム化以前にはソグド人を中心にゾロアスター教が信仰されていた。これに対し東トルキスタンでは,トルコ系のウイグル人を中心にマニ教や仏教の信仰がさかんであった。

●トルコ人とイスラームの出あい●
 8世紀初め以降,アラブのムスリム軍はトルキスタン地方に進出し,その支配の確立をはかった。タラス河畔の戦いで唐の軍隊を破ってから,アラブ人の進出はさらに本格化し,ムスリム商人の活動もしだいに活発となった。9世紀ころ,アラル海周辺まで進出していたトルコ人は,これらの商人と出あうことによって,はじめてイスラームと接触した。
 とくにイラン系のサーマーン朝が西トルキスタンに建国されると,この政権のもとでトルコ人のイスラームへの改宗が著しくすすんだ。トルコ人のイスラーム化は,10世紀にトルコ系イスラーム王朝であるカラ=ハン朝が東・西トルキスタンをあわせたことによりさらに進展した。イスラーム化したトルコ人は,その後も西方への移住を続け,西アジアの中心部にセルジューク朝やオスマン帝国を建設した。このようにトルコ人のイスラーム化と西方への民族移動は,その後の世界史の展開にも重要な影響をもたらすことになった。
3.トルコ・イラン世界の展開

●ティムール朝の興亡●
 14世紀なかばころ,中央アジアのチャガタイ=ハン国は東西に分裂した。西チャガタイ=ハン国出身のティムールは,1370年にティムール朝をひらき,東・西トルキスタンを統一した後,西進してイル=ハン国が滅亡した後の領土をあわせた。その間,彼はキプチャク=ハン国や北インドに侵入し,のち小アジアにせめいってアンカラ(アンゴラ)の戦い(1402年)でオスマン軍を破り,スルタンを捕虜とした。さらに明を討とうとして遠征に出発したが,その途中病死した。ティムールの死後,ティムール朝の広大な領域は東西に分裂し,ともにトルコ系ウズベク族にほろぼされた。
 ティムールがイラン人の世界とトルコ人の世界を統一したことにより,イル=ハン国で成熟をとげたイラン=イスラーム文化が中央アジアに伝えられ,トルコ=イスラーム文化として発展した。首都サマルカンドには壮大なモスクが建設され,14〜15世紀には中央アジアの商業・学芸の中心として繁栄した。ティムールや彼の子孫は学芸をこのみ,宮廷ではイラン文学や細密画の傑作がつくられたほか,すぐれたトルコ語の文学作品もあらわれ,ウルグ=ベクが建設した天文台を中心に天文学や暦法も大いに発達した。

●オスマン帝国の成立と発展●
 13世紀末,西方に進出したトルコ人は小アジア西北部にオスマン帝国を建設し,小アジア側のビザンツ帝国領をうばうと,やがてバルカン半島に進出してアドリアノープル(現在のエディルネ)を首都にした(1366年)。1396年,バヤジット1世はニコポリスの戦いでバルカン諸国とフランス・ドイツの連合軍を撃破したが,その後,小アジアに進出したティムールと衝突し大敗を喫した。しかし国力を回復したメフメト2世は,1453年コンスタンティノープルをおとしいれ,ついにビザンツ帝国をほろぼした@
 その後セリム1世は,新興のサファヴィー朝を破った後シリアへ進出し,1517年にはマムルーク朝をほろぼしてエジプトをあわせた。その結果,それまでマムルーク朝の管理下にあった両聖都(メッカとメディナ)の保護権を手に入れ,以後オスマン帝国のスルタンは,カリフ政治の後継者としてスンナ派イスラーム教を守護する中心の存在となった。
 オスマン帝国は,スレイマン1世のもとで最盛期をむかえた。彼はサファヴィー朝から南イラクをうばい,北アフリカにも支配をひろげたばかりでなく,ハンガリーを征服し,1529年にはウィーンを包囲してヨーロッパ諸国に大きな脅威をあたえた。さらに1538年にはプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィアの連合艦隊を破り,地中海の制海権を手中にした。また彼は神聖ローマ帝国に対抗するためにフランスと同盟し,フランス商人に領内での居住と通商の自由を認めた。これをカピチュレーションというA。その後レパントの海戦で敗れたものの,オスマン艦隊はいぜんとして東地中海を自由に航行し,17世紀末まで,オスマン帝国とヨーロッパ諸国との力関係に大きな変化はなかった。
 オスマン帝国のスルタンは,強大な権力をもつ専制君主であったが,イスラーム法にもとづく政治をおこない,州・県・郡にわかれる整然とした行政機構をととのえた。一方,帝国内に住むキリスト教徒やユダヤ教徒の共同体(ミッレト)には,法に定められた自治を認め,イスラーム教徒との共存がはかられた。
 スルタンの軍隊は,ティマールBを保持する騎士軍団とイェニチェリ軍団とからなっていた。とくに後者は,バルカン半島の征服後,キリスト教徒の子弟を強制的に集めて編成した歩兵軍団であり,スルタンの常備軍として,ヨーロッパやアジア各地の征服に活躍した。


@このときコンスタンティノープルに首都が定められ,以後イスタンブルの呼称が一般化した。
Aこの特権は,のちにイギリスやオランダにもあたえられた。18世紀以降,オスマン帝国が衰退期をむかえると,ヨーロッパ諸国はこれを中東侵略の有力な手段としてもちいた。
Bティマールとは,スルタンからあたえられた土地からの徴税権を意味する。このティマール制はイクター制を継承した制度であり,軍事奉仕の代償としてあたえられた。

●サファヴィー朝の興隆●
 ティムール朝がおとろえた後,イランでは神秘主義教団の長が武装した遊牧民の信者をひきいてサファヴィー朝をひらいた。この王朝は,はじめは統一あるイラン国家ではなく,主要な地域を遊牧民の長が支配する遊牧国家であった。しかし,サファヴィー朝は建国後,国内統一のためにシーア派を国教とし,古代以来イランの王を意味するシャーの称号をもちい,イラン人の民族意識の高揚につとめた。
 サファヴィー朝は,アッバース1世のときに最盛期をむかえた。彼はオスマン帝国とたたかって領土の一部をとり返し,ポルトガル人をホルムズ島から追放した。さらに新首都イスファハーンを建設して,美しいモスク・学院・庭園などでこの首都をかざり,「イスファハーンは世界の半分」といわれるほどの繁栄をもたらした。イランがはじめてヨーロッパ諸国と外交・通商関係を結んだのも,アッバース1世の時代であった。その後サファヴィー朝はしだいに混乱して崩壊に向かったが,この王朝のもとで建築・美術・工芸に代表されるイランの芸術は最高度の発達をとげた。
世界の宗教人口(1997年)
宗教名 人口
カトリック(キリスト教) 10億4000万
イスラム教・スンニ派 9億5200万
ヒンドゥー教 7億4700万
儒教・道教 3億6900万
プロテスタント(キリスト教) 3億6100万
東方正教(キリスト教) 2億2300万
大乗仏教(仏教) 1億9800万
イスラム教・シーア派 1億8400万
上座部仏教 1億3400万
英国教会派(キリスト教) 5500万
シーク教 2300万
チベット仏教 2100万
ユダヤ教 1500万
イスラム教・ワッハーブ派 1100万

キリスト教合計 19億6700万人
イスラム教合計 11億4700万人
仏教合計 3億5300万人
 西洋史に比し、西アジアの歴史の記述は非常に少ないです。
 大学入試問題の影響もあります。大学の学部・学科も西洋史・米国史・中国史などに比して少ないし、、学者や研究者が少ないのも原因か知れません。
 世界の宗教人口から見ても、世界の現状から見ても、西アジアやイスラム圏の歴史・文化を知らなくては現実に対応できません。そのことを深く反省させられた今回のトルコ旅行でした。
 トルコ旅行記を別項目で掲載します。その時は、この欄からリンクするように致します。

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