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エピソード

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宗教改革(ルター・カルヴァン)と、反宗教改革(イエズス会)
 1514年、ローマ教皇レオ10世は、サン=ピエトロ聖堂再建の資金にする目的で、マインツ大司教贖宥状の販売を許可し、富豪フッガー家の協力によりドイツ国内で大々的に販売が進められた。贖宥状は免罪符ともいわれ、これを買ったものは罪が許されるとされ、教会とそれに結託する御用商人の金儲けの手段に多用された。
 1517年、ルター(34歳)は、ヴィッテンベルク教会で、『免罪符に対する九十五箇条の提題』を発表しました。内容は、魂の救済は福音への信仰のみによるという信念から、「贖宥状と魂の救済とは無関係である」というものでした。
 1520年、ルターは、『キリスト者の自由』を発表し、「人は信仰によってのみ義とされる」(魂の救済は信仰以外にありえない)という信仰義認説を主張しました。レオ10世は、「60日以内に撤回しなければ破門にする」と通告してきましたが、ルターは、皆の前で、破門状を焼き捨てました。
 1521年、ルターは、破門されました。ルターは、ヴォルムス国会に召還され、ここで皇帝カール5世の前で福音主義信仰を表明しました。皇帝は、屈服しないルターをドイツ帝国の罪人と断じて、法律の保護外に置きました。
 しかし、教皇や皇帝に反感を抱く諸侯や没落騎士、自由を求める勤労市民、それに封建制の重圧に苦しむ農民らは、ルターの教えを支持しました。ザクセン選候帝は、ルターをヴァルトブルク城に保護しました。かくまわれ、ここで新約・旧約聖書をドイツ語に翻訳します。
 1522年、ルターは、この城で、ラテン語の新約聖書をドイツ語に翻訳して出版しました。建物の教会や神の子の使いである牧師でなく、神の言葉である聖書を中心にする(聖書中心)主義をとるルター最大の功績とされています。
 1523年、ツヴィングリは、スイスのチューリヒで、ローマ教会との公開討論に勝利し、聖像やミサの廃止などの教会改革を押し進めました。
 この頃、カルヴァン(15歳)は、パリ大学・オルレアン大学で、法律学を学んでいました。
 1524年、トマス・ミュンツァーらを中心としたルター派支持の農民らは、領主の過酷な搾取に対し反乱を起こしました。これを、ドイツ農民戦争といいます。しかし、ミュンツァーは、再洗礼派の影響を受けて、教会の襲撃するなど過激化していきました。
 そこで、ルターは、ミュンツァーを「悪魔の手先」と非難し、領主側を支持しました。それに対し、ミュンツァーは、ルターを「嘘つき博士」と激しく非難しました。
 ルターに支持された諸侯軍は、農民の反乱は徹底的に鎮圧しました。この結果、ルターは、北ドイツの諸侯や豊かな勤労市民、そして豪農らに基盤を持つようになりました。
 1531年、ツヴィングリの宗教改革は、チューリヒを中心にスイス北部諸州から西南ドイツ地方にまで拡大しましたが、頑強なカトリック信者と内戦となりました。従軍中のツヴィングリは、戦死しました。
 ツヴィングリの主張の一部は、カルヴァンに取り入れられました。
 1534年、ルターは、ラテン語の旧約聖書をドイツ語に翻訳しました。この翻訳旧約聖書は、グーテンベルクの印刷機により、ドイツ国内に急速に広まり、しかも各地の方言に再訳されていきました。
 1534年、カトリック教会により、カルヴァンの福音主義(信仰は聖書を基準とし、救済は信仰によってのみ得られる)は危険思想として弾圧されました。そこで、カルヴァンは、パリからスイスの新教都市バーゼルに逃れました。
 1534年、マンレサの洞穴で修業中神の霊を体験したイグナティウス=ロヨラは、フランシスコ=ザビエルほか6人の同志と、モンマルトルの聖堂で清貧、貞潔とイェルサレムでの伝道を誓い合いました。
 1536年、カルヴァンは、バーゼルで『キリスト教綱要』を発表しました。その中で、カルヴァンは、「全ての者は、同じ条件のもとに創造されたのではない。…神は、永遠の計画によって、救済にあてようとする者と、滅亡にあてようとする者とをあらかじめ定めたのである」と書き、「魂が救われるか否かはあらかじめ神によって定められているが、人は信仰によって”自分は救われる”と確信することが出来る」と主張しました。これを「予定説」といいます。
 1540年、ロヨラやザビエルらの団体は、ローマ教皇パウルス3世から独立の修道会として認可されました。ここに、「イエズス会」(Jesus)が誕生しました。日本では、ヤソ会といわれました。この会に所属する人をジェズイット(Jesuite)といいます。
 その特徴は、イエズス会士は、教皇に対してのみならず、修道会内部の上長に対しても絶対的服従を誓い、また、厳格な組織と規律を保っていました。そして、具体的な行動としては、ヨーロッパ内における伝道、異教地における布教と学校経営を掲げていました。
 イエズス会は、教皇の要請によって反宗教改革のために大きな成果をあげました。会士は、スペインの海外進出とともに、アジア諸国や新大陸での布教に活躍しました。
 1549年、日本に来たザビエルも、イエズス会士です。
 1583年、中国に来たマテオ=リッチも、イエズス会士です。
 この項は、『世界史B用語集』(山川出版社)などを参考にしました。
相手(権力者・権威者)を上回る理論武装が必要
 私は、クリスチャンでないため、詳しくは、分かりません。ただ、近くの姫路市には、カトリック系とプロテスタント系の私立女子高校があります。また、私の子供たちが、相生市の私立幼稚園に通っていたことから、大胆に推理するしかありません。
 生徒は、別に信者とは限らないので、シスターといわれる人の服装で判断してみました。カトリック系のシスターは顔以外ほとんど、衣で被われていました。「神に仕える者は、肌を露出してはいけません」という話でした。他方、プロテスタント系のシスターは、一般の職員と同じ服装なので、「シスターです」と紹介されるまでは分かりませんでした。
 宗教改革以前のキリスト教の教えは、次のようなものです。
 「金持ちが天国に行けるのは、ラクダが針の穴を通るようなものだ」といわれ、死ぬ前に、教会に寄付することが当然視されていました。汗水流して稼いだ金も、不労所得の金も同じ扱いだったのです。
 参拝するには教会前の銅像にキスをする必要がありました。その他、様々な規則や形式が厳しく定められていました。それは、形から信仰に入ることを前提にしているのです。
 それに対して、ルターやカルヴァンは、キリスト教の革新を起こしました。これをプロテスタンティズム(新教主義)とかプロテスタントいいます。それに対して従来のキリスト教をカトリシズム(旧教主義)とかカトリックといいます。
 ルターが行ったことで有名なのが、魂の救済は、形式ではなく、信仰しかないという主張です。もう1つは、聖書のドイツ語訳です。ラテン語の新約・旧約聖書では、普通のドイツ人は読めません。一般人で読める人がいると、専門の牧師よりも、深く理解する人がいて、牧師や教会の権威を傷つける恐れがあります。1500年間もそんな権威主義がまかり通っていたのです。ドイツ人にも読めるドイツ語の聖書が誕生すると、牧師も必死に勉強するようになります。これは、日本でもあてはまります。分からないお経は、権威主義の何物でもありません。出家者の怠慢を助長するだけです。
 カルヴァンが行ったことで有名なのが、福音主義(聖書を信仰の基礎に置く)と「予定説」です。
「予定説」では、自分の仕事を神から与えられた天職として励めば、やがて自分が救いの対象となっていることを確信すると説いています。そして、天職に励んだの結果得られる富の蓄積は、信仰上正しいとも説きました。このためカルヴァンの教えは、新興の市民階級(商工業者)に支持され、資本主義の発展に貢献する思想になりました。
 カルヴァンの唱えた福音とは、「良い知らせ」(GoodNews)を意味します。聖書の良い知らせとは、神の御子イエス・キリストを救い主として信じる者は、赦され、神との関係が回復され、だれでも永遠のいのちをもつことができるということ、らしいです。
 カルヴァン派は、フランスではユグノー(同盟者)、イングランドではピューリタン(清教徒)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、オランダではゴイセン(乞食)と呼ばれて、拡大しました。
 また、カルヴァン派は、ルター派以上に、歴史上、大きな影響を残しました。
 他方、イエズス会をみると、厳しい修練と試験にもかかわらず、会土の数は、約1,000人(1556年)、 1万5,544人(1626年)、2万2、589人(1749年)になっています。
 イエズス会の経営する学校は、769校(1706年)になっています。しかし、イエズス会の発展とその教皇至上主義は反感をひきおこしました。
 1773年、ローマ教皇クレメンス14世は、イエズス会の解散を命じました。
 1814年、ローマ教皇ピウス7世は、イエズス会の復活を認めました。日本では、イエズス会系の大学として上智大学が有名です。
 私の子供たちが通っていた頃のカトリック系の私立幼稚園は、神父さんがオランダ人でしたが、盛んに日本の七夕や盆踊りなどの行事を取り入れていました。
 私も、役員をした時、再々神父さんと接する機会がありましたが、独身でなければならないという以外、特にカトリック系を意識することはありませんでした。
 数年前、私達夫婦は、一番季節がよいとされる5月に、スペインへ行きました。バルセロナの北方のモンセラート修道院へ行った時、イグナティウス=ロヨラの銅像を発見しました。東の端の日本と、西の端のスペインとが結びついた瞬間でした。深い悦びをかみしめて、スペインを後にしたものです。

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