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エピソード

103_02

鉄砲の伝来と、その意義
 1543(天文12)年、種子島最南端の門倉岬に漂着していたポルトガル人鉄砲を所持していました。この鉄砲は、火縄式の銃でした。島主だった種子島時尭(16歳)は、2,000両(今の2億円)で火縄銃2挺を購入しました。種子島時尭は、島の刀鍛冶だった八板金兵衛清定らに火縄銃の勢作を命じました。
 八板金兵衛清定らには、ネジのイメージがなく、鉄製の栓を溶着させて、苦心の末に、やっと国産火縄銃を完成させました。しかし、試し打ちの時、火薬の爆圧により尾栓が飛び、金兵衛は両眼を失明したといわれています。
 そこで、八坂金兵衛清定は、銃尾栓の製造技術を学ぶために、漂着していたポルトガル人に、自分の娘の若狭を差出し、その交換条件として銃尾栓の製法を聞き出したという話が残っています。
 1544(天文13)年、国産の火縄銃が完成しました。
 渡来した火縄銃の銃尾の込み栓には、雄ネジが切られていました。銃身の後尾側には、雌ネジが切られていました。銃尾栓をネジ込むことによって銃尾が塞がれる仕組みになっていました。
 金兵衛は、尾栓の雄ネジは丸棒をタガネで丹念に叩いてネジ山を作りました。次に、銃身後尾の雌ネジは、銃身を熱してから雄ネジをはめ込み、鍛えながらこれを回して抜く作業をくりかえし、銃腔の内側にネジ山を形成していきました。
 銃身は、次のようは方法で造りました。平らに鍛えた釼を、錬鉄製の心棒に巻いて叩きます。次に、接合面を湧かし付けしながら、溶接鋼管をつくります。これに、長く打ち伸ばした和鉄を、リボン状に巻き付け、接合部が見えなくなるまで鍛えて筒状に仕上げます。
 種子島時尭は、ポルトガル人より購入した火縄銃1挺を、薩摩の島津義久に贈りました。島津義久は、これを将軍足利義晴に献上しました。将軍足利義晴は、江州国友村の刀鍛冶にに火縄銃を見せ、おなじ物を造るように命じました。
 1544(天文13)年、国友村の刀鍛冶は、6ヵ月で2挺の火縄銃を完成させ、将軍足利義晴に献上しています(『国友鉄砲記』)。
 1549(天文18)年、織田信長は、国友村の刀鍛冶に500挺の火縄銃の注文をしています。
 国友村以外のルートとして、杉坊という僧侶が、種子島から火縄銃とともに火薬の製法を郷里の紀州根来寺へ持ち帰り、のちに根来寺は、鉄砲の生産地となりました。
 もう1つのルートは、泉州堺の商人橘屋又三郎が琉球貿易の途中で種子島に漂着し、そこで、1年間の滞在して火縄銃の製作を学びました。その後、橘屋又三郎は、堺に持ち帰り、堺は、江州国友村や紀州根来寺と共に、鉄砲の一大生産地になりました。
 1551(天文20)年、ポルトガルの商人メンデス・ピントが書いた『東洋遍歴記』には、「豊後国だけですでに3万挺、日本全国には30万挺の鉄砲があると聞いた」と記されていまする。
鉄砲の威力と、信長の先見性
 火縄銃の威力は、有効射程距離は50〜100mで弓よりは短いです。しかし、弓のような腕力もいらず、100m先の人間の頭を射抜く正確度を持っています。また、命中すれば厚い鎧も貫通するほどの破壊力を持っています。だから、脇差が10両、弓が4両で売買されたのに、火縄銃は120両で売買されたといいます。
 しかし、火縄銃は、火縄を使うことから雨に弱い、 先込めであるため弾丸の装填に時間がかかる、また火薬が黒色火薬であり、発射すると煙が大量に出て、 相手に居場所を教えるなどの欠点もあります。
 織田信長は、高価ではありますが、湿り気に強い木綿を使っています。
 銃口から火薬を入れる→鉛の弾丸をこめる→火薬を点検する→火薬バサミに火薬をはさむ→狙いを定めて引き金を引く。この一連の操作に15秒かかります。
 織田信長は、この欠点を克服するために、1000人ずつが3列に並ばせ、交互に5秒ごとに1、000発、1分間に1万2、000発の連続射撃を行ったといいます。
 織田信長は、長篠の戦の時、3万の兵のうちの3,500人を鉄砲隊として最前線に配して戦い、無敵と呼ばれた武田勝頼率いる騎馬軍を一蹴しています。
 ここで、私は、西洋のトップ技術を、あっという間に取得した日本人の技術の高度さに感動しました。
 その技術を、現実に適用した織田信長のリーダー性にも圧倒されました。
 と同時に、当時から、日本人の模倣術は、素晴らしかったんだと思いました。

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