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エピソード

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ザビエルと、キリスト教の発展
 1526年、フランシスコ=ザビエル(19歳)は、パリ大学に入学しました。イグナチオ・ロヨラとはルームメイトでした。宗教学と同時に医学も学んでいます。これが面白いことです。
 1534年、ザビエル(27歳)は、パリの小さな聖堂で、イグナチオら5人と、清貧と貞節の誓いをたてました。これが、のちのイエズス会(1540年、ローマ教皇より認可)です。
 この頃、ポルトガル国王ジョアン3世は、植民地経営の一環として、インドでの布教活動に力を入れようと考えていました。そこで、国王ジョアン3世は、ロヨラにインド宣教への宣教師の派遣を要請しました。
 1542年、ザビエル(35歳)は、国王の要請に応えて、リスボンを出港し、インドのゴアに到着しました。医学を利用して、インド人の患者を診療して、信頼を得ています。
 1548年、ザビエル(41歳)は、ポルトガル商人から、「日本と呼ばれる大きい島国が発見された」と聞かされました。さらに、その商人は、「日本人は知識欲が旺盛で、そこに行けば国中に布教することが出来る」とも聞かされていました(イエズス会士宛にあてた手紙)。
 ザビエルは、マレー半島のマラッカに行き、そこで、ヤジロウという日本人と出会いました。殺人を犯して日本を脱出していた武士のヤジロウは、ザビエルに会ってキリスト教に帰依し、ゴアの学院で教理を学びました。ザビエルは、ヤジロウの才能を認め、ヤジロウを育てた日本に布教地としての可能性を実感しました。
 1549年7月、13代将軍足利義輝は、三好長慶に追われて、近江に逃れます。
 8月、ザビエル(42歳)は、日本布教の意を固め、鹿児島の山川に上陸します。
 9月、ザビエルは、薩摩の島津貴久と会い、布教の許可を求めました。ポルトガルとの貿易を望んでいた島津貴久は、これを認めました。ここに1年間滞在し、その間100人が洗礼を受けました。島津貴久も受洗しています。眼病の患者を診療し、新鮮な水で、目を洗わせて、快癒させるなどの方法で、信頼を得て、信者を獲得しています。
 1550年、ポルトガル船は、平戸に来航しました。そこで、ザビエル(43歳)は、鹿児島から平戸に移りました。そこで、ザビエルは、領主松浦隆信から布教の許可を得ました。ここに、2ヶ月滞在し、100人が洗礼を受けました。
 1551年、ザビエル(44歳)は、博多山口室津を通って、京都に入りました。
 しかし、荒廃した京都では、ザビエルは、近江にいる将軍足利義輝にも会えず、そのため、日本国中の布教活動も認められませんでした。
 ザビエルの出現で、洋風が流行し、大友宗麟織田信長豊臣秀吉らは、洋風の帽子を被ったと記録されています。
 ザビエルは、山口に戻り、そこで、大内義隆から布教の許可を得ました。ルイス=フロイスは、「ザビエルに対し、12人が反論しても、たった1つの答えで、皆を納得させてしまった」と記録しています。ここに、4ヶ月滞在して、500人以上が洗礼を受けました。
 その後、ザビエルは、豊後の府内に行き、領主大友宗麟から布教の許可を得ました。大友宗麟は、2番目の妻ジュリアと娘キンタとともにカトリックへ改宗しました。この時、ポルトガル船が、豊後日田に来航しています。ザビエルの手引によるのでしょう。
 11月、ザビエルは、中国へ行くように聖霊に強く促されて、豊後を出港しました。そして、広東港外のサンチャン(上川)島に着きました。
 1552年11月、ザビエルは、そこで、中国本土へ案内するはずの中国商人を待っていましたが、熱病で倒れてしまいました。
 12月、ザビエルは、亡くなりました。
 1579年、来日したアレッサンドロ=ヴァリニャーノ(50歳)は、織田信長から布教の許可を得て、安土城下セミナリオ神学校)を設立しました。今も石碑が立っています。
 そのほか、豊後府内にコレジオ宣教師養成学校)、豊後臼杵ノビシャド信者の修練所)も設立しました。
 1582年、ヴァリニャーノの進言で、天正の遣欧使節が派遣されることになりました。大友宗麟・有馬晴信大村純忠から推薦された伊藤マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノの4少年がローマに派遣されました。少年使節4人は、有馬セミナリオの学生で14歳でした。
 ヴァリニャーノに付き添われて、長崎→マカオ→マラッカ海峡→ゴア(ヴァリニャーノと別かれる)→喜望峰→マドリード→ローマという経路をとっています。
 1584年、少年使節の4人は、マドリードでスペイン国王フェリーペ2世に謁見しました。
 1585年、少年使節の4人は、ヴァティカンにあるローマ法王庁の「帝王の間」において、時のローマ教皇グレゴリウス13世に謁見しました。
 1586年、少年使節の4人は、リスボンを出港しました。
 1587年、天下をとった豊臣秀吉は、キリスト教を禁止しました。
 1590年、少年使節の4人は、インド副王の使節という資格で日本入国を許可され、長崎に帰ってきました。時に21歳でした。しかし、彼らを待ち受けていたものは、禁教令でした。
 1601年、伊東マンショは、マカオにおもむいて、同地で3年近く修道士として研鑚をつんだ。
 中浦ジュリアンは、伊東マンショとともにマカオに派遣され、3年ほど神学などを学びました。
 千々石ミゲルは、有馬晴信の従兄弟で、大村純忠の甥という関係からか、棄教して、千々石清左衛門と名乗りました。しかし、晩年は不遇であったといわれています。
 1604年、伊東マンショは、長崎のイエズス会学院で病死しました。
 1608年、中浦ジュリアン・原マルチノは、長崎で司祭になりました。
 1614年、キリシタンの国外追放令が出されました。高山右近ら300人余がマカオ・マニラに追放されました。
 原マルチノも、この時、マカオに追放されて、そこで亡くなりました。
 しかし、中浦ジュリアンは、踏みとどまり、九州各地で決死的な布教を続けました。
 1633年、筑前小倉で捕まった中浦ジュリアンは、逆さ吊りの刑に処せられ、3日後に絶命したといいます。
キリスト教の布教は、植民地経営の一環
 イエズス会の目的の1つは、プロテスタントによりヨーロッパで失った土地をアジアで奪い返すことです。イエズス会士ザビエルが日本に来た理由は、キリスト教の布教が目的ではなく、植民地経営の一環としてです。
 ザビエルは、上からの布教方法として、ポルトガル商人と結託し、キリスト教に友好的な領主との貿易を促進し、貿易(経済)を布教の手段として活用しています。
 サビエルは、ゴアのポルトガル財務官に、「日本の金銀とヨーロッパの品物を交換すれば、多くの利益が得られる。もし日本の国王がキリスト教に改宗すれば、ポルトガル王にとっては物質的な利益は著しいものになる」という手紙を送っています。また、日本にない品物を列挙して、それらを持ち込めば、高い利益を得られることも書いています。
 1579年、来日したアレッサンドロ=ヴァリニャーノは、「シナ、日本などのポルトガル国の征服に属する地域」という手紙を書いています。。
 また、17世紀頃のイエズス会の記録には、「日本はポルトガルの征服に属しており…それ故、国王は、日本など東アジアの征服地にスペイン人は行ってはならないというふうな勅令を発布した」とあります。
 日本のリーダーが、イエズス会の真の狙いを理解せず、キリスト教をファッションと理解しているところがとても面白い。
 使命に燃えるザビエルは、日本人を冷静に分析しています。日本支配の一環として見るべきか、個人的興味なのか、私には判断できません。多分、一環としての情報分析なのでしょう。
 「日本人より優れている者は無いと考えられる。…日本人は大抵貧乏である。しかし武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は一人もいない」
 「住民の大部分は読むことも書くこともできる。これは、祈りや神のことを短時間で学ぶための頗る有利な点である」
 「私は今日まで旅した国に於いてそれがキリスト教徒たると異教徒たるとを問わず、盗みに就いてこんなに信用すべき国民を見たことが無い」
 「大変心の善い国民で、交わり且つ学ぶことを好む」
 ザビエルは、今の日本人に失われた資質を列挙しています。
 ザビエルは、一般庶民には、医療を施し、迷信と戦う手段で、信者を得ています。ここらあたりは、今もエセ宗教団体が、布教の方法に医術(足裏療法など)を利用するのと共通しています。
 私が姫路の学校に勤めていた時、ザビエルについては、こんな思い出があります。
 「1550年、ザビエルが、山口から京都に上る途中、室津(姫路近くの御津町にある港)に上陸しました」と説明していると、例の生徒が「室津のどの港ですか」質問しました。普通は、「室津」といえば、「へー、そうなんだ」で終わるのに、この生徒だけは、その場所を特定することを要求します。
 私は、そこまでの答えを用意していなかったので、早速、室津に行って聞きました。しかし、教育委員会の人をはじめ、誰も知りませんでした。地元の漁師に、「多分、ここではないか」と案内されました。
 1622年、ローマ教皇は、ザビエルとロヨラを聖人としました。
 1927年、ザビエルは、ローマ教皇から「東洋の使徒」という称号を授けられ、全世界の宣教師の保護聖人となりました。日本史に関係ある人が、世界史でも認められる人だったというのは、嬉しいものです。

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