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エピソード

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桶狭間の戦い(織田信長 VS 今川義元)
 1547(天文16)年、代々織田家に仕えてきた山口教継鳴海城主)は、織田信長を見限って、今川氏に寝返えりました。鳴海城には嫡子山口九郎二郎を、笠寺に築いた砦に今川義元の部将戸部豊政を、中村砦に山口教継自身がが入りました。 
 1548(天文17)年、今川義元は、小豆坂の戦いで、織田信秀(織田信長の父)を破りました。この時今川義元は、さらに安祥城を攻めず、矢作川左岸の岡崎城に引き上げました。そこで、十分に態勢を立て直して、翌年、安祥城を攻撃しています。
 1549(天文18)年3月、松平広忠(岡崎城主)が亡くなりました。今川義元は、岡崎城を接収し、松平広忠の重臣を駿府に移しました。
 11月、今川義元は、安祥城を攻略して、織田信広(父は織田信秀)と松平竹千代(後に徳川家康)の人質交換に成功しました。今川義元は、西三河から織田氏の勢力を駆逐し、駿河・遠江と合わせて、92万石の大領主になりました。
 1553(天文22)年、織田信長は、鳴海城を奪回しようとしましたが、逆に、敗れました。山口教継は、勢いにのって大高城沓掛城を攻略しました。織田信長は、尾張南郡を失いました。
 しかし、今川義元は、「戸部豊政と山口教継が共謀し、今川義元を討つらしい」という噂を信じて、戸部豊政を駿府に呼び出して殺害しました。山口教継・二郎父子に対しては、今川義元の家臣である岡部元信を派遣して、駿府に誘い出し、切腹させました。これは、織田信長の謀略だと言われています。
 織田信長は、鳴海城付近に、丹下砦善照寺砦中嶋砦丸根砦鷲津砦の5砦を設けて、鳴海城と大高城を分断する作戦を採用しました。特に、丸根砦は、沓掛城から大高城に通ずる位置にあり、鷲津砦は、鳴海城と大高城を見下ろす位置にあって、重要な役割を持っていました。
 1555(天文23)年、今川義元(40歳)の重臣太原崇孚は、武田信玄北条氏康との間に、政略結婚を通して甲相駿三国同盟を成立させました。今川義元は、相模・甲斐の驚異が無くなったので、上洛を計画し、手始めに、尾張国の鳴海城を攻略しました。
 1559(永禄2)年、今川義元の命令で、松平元康(松平竹千代の元服名)は、困難な大高城に食糧を届ける任務を与えられました。松平元康は、深夜、現地に着くと、軍勢を2手に分けました。石川数政ら400人は、敵中深く入り込み、大高城も丸根砦・鷲津砦も通り越して、より奥の寺部砦に攻撃をかけました。驚いた織田方は、丸根砦・鷲津砦から援軍を派遣しました。これを見計らって、松平元康は、800人を率いて、小荷駄1,200匹を大高城に引き入れることに成功しました。
 1560(永禄3)年5月12日、今川義元(45歳)は、嫡子今川氏真を残して、2万の兵(92万石)を率いて、駿府を出陣しました。迎え撃つ織田信長軍は、5000の兵(23万石)です。今川義元の4分の1の兵力です。
 16日、今川義元は、岡崎城に入りました。
 18日、沓掛城に入った今川義元は、軍議を開き、「19日早朝、松平元康(後の徳川家康)率いる1200人は、丸根砦を攻撃すること。朝比奈泰朝の2000人は、鷲津砦を攻撃すること。義元は、本隊を率いて出撃する」ということを決定しました。
 一方、丸根砦は、佐久間大学盛重ら700人、鷲津砦は、織田信平ら400人が守備していました。
 18日の夜、今川義元が沓掛城にはいったという情報が、清洲城の織田信長に伝えられました。そこで織田信長は、軍議を開きました。林通勝らの重臣は、定石どおり、「大軍を相手にするには、籠城しかない」と主張しました。しかし、織田信長は、「城を出て戦う」ことを主張しました(『桶狭間合戦記』)。
 (『信長公記』は、その夜、軍議は開かれず、織田信長は、重臣らと雑談を交わし、夜半、諸将を帰らせたとあります)。
 織田信長が、「城を出て戦う」ことを主張した理由を考えてみました。
 今川義元は、清洲城を攻めるとは言い切れない。庄内川まで進出し、そこで態勢を立て直し、清洲城を攻めるという作戦例もあります(1548年の小豆坂の戦い)。そうなると、庄内川以東は、今川義元の支配下に入ってしまう。 
 次に、尾張の大半を手中にして、上洛すれば、天皇から尾張守護という錦の御旗を得ることも出来る、という、今川義元の作戦も考えられます。
 次に、今川義元の本隊は5000人、信長の本隊は約2000人です。本隊の比は2.5倍です。この場合は、狭い場所を利用すると、全く勝ち目がないとも言えません。
 19日早朝、松平元康(後の家康)の1200人は、丸根砦を攻撃しました。守備する佐久間大学盛重が死を覚悟しているのを知った松平元康は、兵を3隊に分けました。松平家広大久保忠世らの正兵隊は、弓と銃で使いながら、正面から攻撃しました。時を見て、松平重吉らの奇兵隊は、側面から攻撃しました。最後に、松平元康は、石川数正・本多作左衛門ら旗本隊を突っ込ませました。佐久間盛重は戦死し、丸根砦は陥落しました。今川義元は、その功を誉め、大高城に入って休息するよう命じました。それまで大高城を守備していた鵜殿長照が、代わって、今川義元の本隊に合流しました。
 朝比奈泰朝の2000人は、鷲津砦に放火して、攻略しました。
 さらに、今川義元方の兵は、蟹江城も攻略しました。
地図を見ると、鳴海城(○)の東に善照寺砦(■)、両者の間の北に丹下砦(■)があります。鳴海城の扇川を挟んで南に中島砦(●)、中島砦から白川に沿って南西に鷲津砦(●)、鷲津砦から南東に丸根砦(●)、鷲津砦と丸根砦の間の西に大高城(○)があります。丸根砦の東に桶狭間山があり、桶狭間山の北東に沓掛城(●)があります。大高城の伊勢湾を挟んだ西で、清洲城の南西に蟹江城(●)があります。
 この結果、清洲城は、東南方・東北方・西方より攻撃を受ける形になりました。
 ○(今川方の城)、●(織田方→今川方)、■(織田方の城)
 19日、「今川軍、動く」の報に接した織田信長は、時刻を確認した後、幸若舞の「敦盛」の謡の一節である「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり、一度生を受け、滅せぬ者のあるべきか」を謡いながら、3度舞ったといいます。この舞を見た者は、「今日、いよいよ死ぬんだ」という決意を共有したといいます。
 舞い終わると、法螺貝を吹かせて、全軍に出陣を命じ、具足をつけると、立ったまま茶漬けを流し込んで、馬に乗って駆け出しました。
 午前8時頃、2000人ほどが、熱田神宮に集結しました。織田信長が、願文を読み上げた時、神殿の奥深くで甲冑の触れ合う音がし、一羽の白鷺が悠然と舞い上がりました。織田信長や兵らは、勝鬨を上げ、勝利を確信しました。
 織田信長は、前田犬千代(後の前田利家)に300の兵を与え、本隊の行動を隠す囮部隊として、鳴海方面に出動させました。
 午前10時頃、熱田神宮を出た織田信長は、満潮の海岸を避け、井戸田から山崎を抜けた時、丸根砦・鷲津砦の陥落と佐久間大学盛重の戦死を知りました。
 織田信長は、善照寺砦に到着しました。この時、兵力は3000になっていました。ここで織田信長は、忍びの者から、沓掛城を出て西の大高城へ向かって移動する今川義元の本隊が、何故か少し南の桶狭間の方に向きを変え、その途中の田楽狭間で小休止している、との情報を伝えられました。同時に、前田犬千代らの囮部隊が、善照寺砦の西の鳴海城で敗北したという情報が伝えられました。
 この2つの情報を得た織田信長は、善照寺砦を出て中嶋砦に移ろうとしました。林通勝や柴田勝家らの重臣は、必死で止めたといいます。中島砦は、北に鳴海城・善照寺砦、南西の位置に丸根砦・鷲津砦と大高城が、周囲が敵に囲まれ中にありました。しかし、織田信長は、柴田勝家らの必死の制止を振り切って、中島砦に移り、しかも、そこから東にある、今川義元の本隊である桶狭間を目ざそうとしました。
 余りの無謀さに、柴田勝家ら重臣は、命をかけて、織田信長を遮りました。すると、織田信長は「小軍にして大敵をおそれるなかれ、運は天にあり。戦に勝てば、家も面目、末代までの高名。ただ励むべし」と説き、柴田勝家らの重臣は、その気概に打たれたといいます。
10  今川義元は、連戦連勝の報告に上機嫌であったといいます。今川義元は、2万の大軍を4つの部隊に分けて、織田信長の本拠地は避け、沓掛城から中島砦・鳴海城への西を目指しました。桶狭間(正式には田楽狭間)は、広さ1町ほどの窪地なので、大軍が通過するには、縦隊になってしまいます。
 午後0時、今川義元は、ここで昼食をとることにしました。そこへ、村の神主や百姓が、「勝利を祝して」と言って、酒や肴を持参しました。村の者も、「信長を見限った」と満足した今川義元は、気も緩み、部下にもこの祝い酒をふるまったといいます。
 織田信長が、中島砦と桶狭間の中間点である相原に着いた時、梁田政綱から「今川義元の本隊は、桶狭間で昼食をとっている」という重要な情報がもたらされました。織田信長らは、旗指物などは打ち捨て、田楽狭間の北方にある太子ヶ嶺に辿りつきました。今川義元は、警固の兵を配置していましたが、激しい雷雨が、織田信長らの行動を助けました。
 午後2時頃、雨が小止みになりました。織田信長は、攻撃の命令を出すと、全軍は、今川義元の本陣めがけて襲いかかりました。不意を衝かれた今川義元らは、大混乱に陥りました。服部小平太は、今川義元を探し出し、鎗で左脇腹を突き刺しました。今川義元が苦し紛れに払った刀は、服部小平太の膝をたち割りました。その瞬間に、織田信長の近臣毛利新介が、体ごとぶつかって、今川義元の首を掻き切りました。この時、今川義元の口は、毛利新介の人差し指を噛み切ったといいます。
11  20日、織田信長は、今川勢の首実検を行いました。総勢2753人に上ったといいます。
 大高城にいた松平元康(後の徳川家康)は、急死に一生を得て、岡崎城に入城しました。
12  1568(永禄11)年、今川義元の嫡子今川氏真は、武田信玄の軍勢を前にして、駿府の今川館を脱出し、家臣の朝比奈泰朝を頼って、掛川城に入りました。
 掛川城は、徳川家康(松平元康が改名)軍に包囲され、和睦し開城しました。今川氏真は、妻の実家である小田原の北条氏を頼り、浜松の徳川家康の庇護を受けながら家名再興を図りましたが、最後は、江戸で一生を終えました。
 その後の今川家は、江戸幕府の高家として活躍しました。
 この項は、『日本合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
信長は、百姓の青年男女と遊ぶって、本当?
 映画やTVで最も織田信長役にぴったりと感じた俳優は、NHK大河ドラマの高橋幸治さんです。剃刀のような研ぎ澄まされた感じがよく出ていました。
 織田信長のエピソードで最も印象に残っているのは、渡辺謙さん扮する信長が、百姓の若者と相撲をとったり、村の娘と遊んだりする場面です。
 マンガでビックリしたのが、横山光輝さんの『織田信長』(全4巻)です。冒頭の部分で、信長は、村の娘を褌姿にさせ、相撲をとらせている箇所です。
 信長は、百姓の若者や村娘と戯れたか、分かりません。しかし、信長は、熱田神宮を出るとき、百姓に竹竿を1本ずつ持ってくるよう命令したという話が残っています。信長軍を大軍にするのに協力しています。
 田楽狭間で休息をとっている義元に、村の神主や百姓が、「勝利を祝して」と言って、酒や肴を持参しました。義元を安心させるのに協力しています。
 信長は、忍びの者から、情報を得たことになっていますが、私は、地の利に強い百姓の情報を重視しています。
 信長は、戦後、論功行賞を行っています。当時の基準からすると、一番鎗の服部小平太が第一とすべきですが、実際は、梁田政綱に3000貫文以上の土地と沓掛城を与えています。
 信長が、如何に情報戦を重視していたかが分かります。ここら辺が信長の非凡なところなんでしょうか。
 熱田神社では、神殿の奥で甲冑がなりました。また、賽銭箱に入れた銭がすべて表になりました。これは神が勝利を祝福していると感動した信長の部下は、意識を高揚させたといいます。
 しかし、神官が甲冑を合わせたということであり、銭は2枚を張り合わせて、ともに表になるように仕組んだといいます。
 スポーツの世界でも、最後は精神力といいますから、この作戦も、重要な1つだったんでしょうか。
 このプリント日本史は、写真を使わず、「シンプル イズ ベスト」をモットーに制作しています。しかし、地図を使わずに、戦争を語ることは大変です。書くほうが苦労するのですから、読むほうはもっと難しいかもしれませんね。お許し下さい。

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