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エピソード

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姉川の戦い(織田信長 VS 浅井長政・朝倉義景)
朝倉氏・浅井氏の因縁
 平安時代末、日下部氏は、但馬国養父郡朝倉に移住しました。その後、地名を姓にして、但馬朝倉氏が誕生しました。
 1333(元弘3)年、越前朝倉氏の祖である朝倉広景は、足利高氏が丹波国篠村で挙兵した時に、参陣しました。朝倉広景は、足利氏の一門である斯波高経に従い、藤島の戦いで、新田義貞を破り、越前を平定しました。朝倉広景は、その恩賞として越前坂南郡黒丸城が与えられ、以後、斯波氏の被官として活躍しました。
 1355(文和4)年、朝倉広景の嫡子朝倉正景は、足利側で奮戦した功により、足利尊氏から、尊氏の旧名の高氏の「高」を与えられ、朝倉高景と名を改めました。朝倉正景の子は、「氏」を与えられ、朝倉氏景と名を改めました。その後、朝倉高景は、足利尊氏から足羽荘の預所職を与えられました。
 朝倉高景は、斯波高経の乱の時、斯波高経に従わずに幕府に従い、越前の大部分の地頭職を新恩されました。
 1442(嘉吉2年)年、正親町三条公綱が、東浅井郡丁野村に流罪中、そこの娘との間に男子をもうけました。その子は、地名を姓にして、浅井重政と名乗りました。後に、父が罪を許され京都に戻った時も、浅井重政は、浅井に残り、江北守護京極持清の被官となりした。この浅井重政が、浅井氏の祖といわれています。
 1467(応仁元)年、朝倉為景の嫡子朝倉敏景は、応仁の乱の時、斯波義廉の武将として、山名宗全の西軍に属し、活躍しました。
 1471(文明3)年、朝倉敏景は、越前守護職を与えるという細川勝元の誘いにのって東軍に寝返り、数々の戦功をたてました。斯波氏の守護代朝倉氏が、守護に成り上がったのです。それに対して、同じ斯波氏の守護代織田氏は、一応、斯波氏の臣下としての礼をとっていたので、朝倉氏を「逆臣」と非難しました。それに対し、朝倉氏は、織田氏を「陪臣」と軽蔑しました。それ以来、朝倉氏と織田氏の対立が続きました。
 1472(文明4)年、朝倉敏景は、ほぼ越前一国を平定し、一乗谷を本拠に戦国大名に成長しました。
 1523(大永3)年、浅井重政の曾孫浅井亮政は、江北守護京極氏の政策に不満を持つ国人領主を利用して、北近江随一の実力者にのし上がりました。浅井亮政は、江南守護六角氏と戦っては、越前の朝倉氏に援軍を依頼しました。この時から、朝倉氏と浅井氏の関係が強化されてきました。
 1542(天文11)年、浅井亮政が亡くなると、その子浅井久政は、宿敵六角氏と和睦するなど、軟弱外交を採用しました。
 1560(永禄3)年、浅井久政の嫡子浅井長政(16歳)は、軟弱な父の浅井久政を隠居させ、江南守護六角氏と戦って勝利を得ました。こうして、浅井長政は、戦国大名に成長していきました。
 1565(永禄8)年、三好義継松永久秀らは、13代将軍足利義輝を暗殺しました。
 1567(永禄10)年、お市の方織田信長の妹)は、浅井長政と結婚しました。この政略結婚の目的は、共通の敵である斎藤義竜対策です。
 この時、朝倉氏の織田氏の長年の確執を知っている浅井長政は、織田信長に、「朝倉氏に事を起こす時は、事前に連絡する」ことを約束させたといいます。
 1568(永禄11)年、朝倉義景は、生き残った一乗院覚慶(足利義輝の末弟)を救い出し、一乗谷に保護しました。
 足利義秋(覚慶の還俗名)は、朝倉義景に上洛を勧めましたが、義景は動きませんでした。そこで、足利義秋は、斎藤義竜を滅ぼして勢いのある織田信長を頼りました。
 織田信長は、足利義秋を奉じて上洛の供奉を各大名に命じました。浅井長政は、従いましたが、朝倉義景は、これを無視しました。織田信長は、14代将軍足利義栄を廃位し、足利義秋を将軍としました。これが15代将軍足利義昭です。
姉川の戦いと、その後の朝倉氏と浅井氏
 1569(永禄12)年、将軍足利義昭は、自分をないがしろにする織田信長に反発して、信長追討の密書を発しました。朝倉義景も、それを受け取った1人でした。織田信長は、その真意を測ろうと、「将軍参賀には必ず上洛せよ」と命令を出しましたが、朝倉義景は、それでも、上洛しませんでした。
 1570(永禄13)年4月20日、織田信長は幕命に背いた武藤上野を討つという名目で出兵しました。
 1570(元亀元)年4月25日、織田信長は、琵琶湖の西から北上し、武藤上野を倒し、敦賀の手筒山城(朝倉氏の武将寺田采女正)を急襲し、金ヶ崎城(城主は朝倉景恒)を包囲しました。
 4月26日、朝倉景恒は、戦わず、一乗谷に逃げ延びました。織田信長は、さらに引壇城(今の疋田)を攻略しました。
 4月27日、織田信長は、木目峠を越え、朝倉氏の本拠である一乗谷に攻め込む体制を整えました。
 4月28日、同盟関係にあった北近江の浅井長政が、朝倉義景に呼応して、織田信長に対して挙兵したという知らせが届きました。信長は、この時、「虚説あるべし」(嘘に違いない)と言ったといいます。
 浅井長政は、妻であるお市の方の兄を裏切った理由として、織田信長が、同盟の時の約束(朝倉攻撃の前には連絡する)を破ったことを上げています。織田信長との関係は一代のものですが、朝倉氏との関係は、数代にもわたっていたからです。
 織田信長は、軍議を開くと、殿の木下籐吉郎秀吉に助けられ、朽木谷を越えて、京都へ逃げ落ちました。 
 5月21日、岐阜に逃げ帰った織田信長は、近江の宇佐山城森可成永原城佐久間信盛長光寺城柴田勝家安土城中川左馬允を配置しました。
 6月21日、織田信長は、浅井長政の長比刈安両砦を落とし、長政の本拠小谷城に迫りました。織田信長は、小谷城から南西の虎御前山(虎姫山)に本陣を構えました。
 6月22日、浅井長政は、越前の朝倉義景の援軍を待って、難攻不落の要害小谷城に籠城する作戦を採用しました。織田信長は、姉川を挟んで南西の横山城を攻撃しました。これは、織田信長の陽動作戦でした。しかし、これに乗った浅井長政の8000の兵と、援軍朝倉景健の1万の兵は、小谷城の東の大寄山(大依山)に移動しました。これを見た織田信長の2万8000の兵と、援軍徳川家康の6000の兵は、姉川の南で、横山城の西の竜ヶ鼻に移動しました。
 6月28日未明、浅井・朝倉連合軍は、大依山から野田・三田村に移動しました。その結果、姉川の北西に朝倉景健軍、北東に浅井長政軍、姉川の南西に徳川家康軍、南東に織田信長軍が対峙したことになります。
 緒戦は、浅井・朝倉連合軍が優位に戦いました。しかし、浅井・朝倉連合軍の不安は、朝倉義景が総大将として姿を見せなかったことです。徳川家康側の榊原康政大久保忠世本多忠勝らが、姉川を越えて、朝倉景健軍の西から側面攻撃をかけると、もろくも、朝倉景健軍は総崩れとなりました。さらに、横山城攻囲隊の氏家卜全安藤守就が、姉川を越えて織田信長の本陣に迫っている浅井軍に、東から側面から攻撃をかけると、動揺が走りました。そこを、織田軍が直線的に浅井軍に総攻撃をかけると、浅井軍は、たまらず、小谷城へ潰走しました。
 12月13日、朝倉義景は、正親町天皇と将軍足利義昭の斡旋を受け入れ、織田信長との和議を結びました。
 1573(天正元)年4月、織田信長包囲陣の中心人物であった武田信玄が、信州の駒場で病死しました。
 7月、長信長に対して、挙兵した将軍足利義昭は、朝倉・浅井連合軍の援軍を得られないまま、信長に降伏し、ここに15代続いた室町幕府が滅亡しました。
 8月14日、浅井氏救援のため兵を進めた朝倉義景は、利禰坂の合戦に敗北し、一乗谷から大野へ逃げました。
 8月22日、朝倉義景は、一族の朝倉景鏡の裏切りによ、大野六坊賢松寺において自害しました。時に41歳でした。ここに、越前の雄朝倉氏は滅亡しました。
 8月27日、織田信長は、浅井長政の本拠小谷城を総攻撃しました。
 8月28日、浅井長政は、小谷の方(お市)と三人の娘を、織田信長の元に送り届けて、自害しました。時に29歳でした。ここに浅井氏は滅亡しました。
 この項は、『日本合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
小谷城で、素晴らしい思い出を体験
 映画やTVを見ていると、浅井長政が、朝倉義景をとるか、織田信長をとるか、迷っている時、父の浅井久政が「長年の恩顧を考えると、どちらをとるか明らかである」という場面があります。しかし、長年の恩顧を示すシーンがありません。今回、このことを詳述しました。
 私にとって、小谷城は思い出深い所です。同僚と、雪の小谷城を訪れた時のことです。ガイドブックを見ながら、「北陸本線木之本駅で降りた方が近い」と話していると、前の座席に座っていたスーツ姿の紳士が「高月駅駅の方が便利ですよ」とガイドブックと違う駅を教えてくれました。半信半疑で高月駅を降りると、その紳士も降りてきて、「小谷城はここから少しあるから、車で送ってあげよう」と言われました。
 不安もありましたが、雪道をどんどん登っていきます。そして、お市の方の寝室と思しき場所を、雪深い山の中から、探し当ててくれました。最後は言葉に甘えて、関ヶ原まで送ってもらいました。
 お礼のお金を渡そうとしましたが、ガンとして受け取りません。その理由を聞きますと、「以前、旅行をした時、地元の人に、とても親切にされました。その人へのお礼です」。続けて、「私にするというのなら、別な人にお返しをして下さい」と言って、そのまま去って行きました。そんな思い出がある、小谷城です。
 木下秀吉は、やけどしながら、必死で、お市と三人の子を救助しました。百姓出身の秀吉は、お市を妻に迎えることで、信長と親族になり、将来の出世に備えようとしました。しかし、お市を得たのが、柴田勝家でした。当時、柴田勝家と信長の関係が分からなかったので、「えっ、何故?」と思ったものです。
 しかし、別項の信長の尾張統一で見たように、勝家は、信長に欠かせない武将だったので、納得しました。 
系図の説明(朝倉氏で今回登場の人物、浅井氏で今回登場の人物)
広景 高景 氏景 貞景 教景 為景 @敏景 A氏景 B貞景 C孝景 D義景

重政 忠政 賢政 亮政 久政 長政
‖━ 万福丸
織田信長 お市 茶々(秀吉側室の淀君)
京極高次室
徳川秀忠室

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