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エピソード

104_04

長篠の戦い(織田信長・鉄砲隊 VS 武田勝頼)
 1570(元亀元)年、織田信長は、最大にピンチを迎えました。
 15代将軍足利義昭により、織田信長打倒計画が実行に移されたのです。応じたのが、浅井長政朝倉義景連合軍、武田信玄石山本願寺、伊勢長島の一向一揆、比叡山の延暦寺などです。
 一方、織田信長がとった作戦は、各個撃破という戦法です。
 6月、織田信長は、姉川の戦いで、先ず、浅井・朝倉連合軍を撃破しました。
 1571(元亀2)年、織田信長は、次に、比叡山延暦寺を焼き討ちしました。
 武田信玄は、徳川方の長篠城を攻略しました。長篠城の位置は、三河と遠江の境の、三河側にあります。また、北の寒狭川と南の豊川の合流して大野川となり、東に流れています。このする3川が合流する北側にある城で、武田・徳川両軍にとって、重要な拠点です。
 1572(元亀3)年、織田信長の最大の敵である武田信玄が、三方が原の戦いで、信長の同盟軍である徳川家康を破り、大きく京都に接近しました。 
 1573(天正元)年4月、武田信玄は、織田信長との対決を目前に、病死しました。時に53歳でした。武田信玄の病死は、長い間伏せられました。また、武田信玄は、嫡子武田勝頼に、「甲斐からの出兵をしないように」と遺言したといいます。
 徳川家康は、長篠城を奪還しました。徳川家康は、武田氏を裏切った奥平信昌に、500の兵で、長篠城を守護させました。武田勝頼はこれに激怒し、奥平貞昌の妻子を磔刑に処しました。
 7月、織田信長は、15代将軍足利義昭を追放しました。
 1574(天正2)年6月、武田勝頼は、父武田信玄が落せなかった高天神城(遠江の海岸部)をも攻略しました。三河でも、長篠の西の野田城岡崎城の北の足助城、野田城と足助城の間の北にある明智城を支配しており、長篠城を攻略すると、三河は北半分を武田領になります。武田勝頼はこの段階で、絶対的な自信を深めたといえます。
 9月、織田信長は、弟織田信興を戦死させた伊勢長島の一向一揆を平定しました。焼き殺した一揆衆は、2万人を越えたといいます。
 1575(天正3)年4月、増長している武田勝頼は、高坂弾正内藤昌豊ら父の重臣が、父武田信玄の遺言を以て、進言しましたが、甲斐を出て、三河の長篠城を包囲しました。この時、織田信長が、すぐに、軍を動かさなかったのは、武田勝頼を長篠城におびき寄せる作戦だったとも言えます。
 5月18日、織田信長は、武田勝頼の行動を見て、長篠城の西方の設楽が原に布陣し、その西の極楽寺山に本陣構えました。そして、武田騎馬隊に備えて、連子川の西に馬防柵を設けました。
 5月19日夜、武田勝頼は、長篠城の攻囲を解き、一部を豊川と大野川の間にある鳶ノ巣山砦、豊川と鳶ノ巣山の間にある久間山砦に配置して、主力は寒狭川・豊川を越えた西の設楽ヶ原に移動し、本陣は長篠城の西の天神山に陣を構えました。
 5月20日、織田信長は、軍議を開きました。「武田本隊が1万2000の兵を有している」との情報を得ると、徳川家康の部将酒井忠次は、鉄砲隊4000人を率いて、武田信実が守護する鳶ノ巣山砦を急襲することにしました。
 5月21日、酒井忠次は、鳶ノ巣山砦を占領しました。そして、長篠城兵と連携し、武田本隊の後方に回り込むことができました。
 5月21日午前六時、追い込まれた武田軍は、織田軍3万4000の兵と、連子川を挟んで、対峙しました。武田信玄の老臣は、ひとまず退陣するよう武田勝頼に進言すると、「命の惜しきともがらは甲斐へ退陣せよ」と、この提案を吐き捨てました。馬場信春山県昌景ら歴戦の勇将は、それ以上の諫言をあきらめたということです。
 高台に位置した武田軍は、優秀な騎馬隊で駆け下り、織田軍を蹴散らす従来の作戦を採用しました。一方織田・徳川連合軍は、鉄砲による「三段撃ち」を採用しました。これは、3000挺の鉄砲隊を5隊に分け、馬防柵の後ろに配置しました。
 織田・徳川軍は、左翼の佐久間信盛隊と右翼の大久保隊を、武田軍を誘き出す為に柵外に出しました。これを見た武田軍の先鋒を努める山県昌景は、3000騎を率いて高台から駆け下りて来ました。しかし、柵を見た山県隊の馬が棒立ちになりました。そこを目掛けて、織田信長の鉄砲隊の火がふきました。一瞬に、山県隊の人馬が撃ち倒されました。
 二番手の武田信廉も撃ち殺されました。三番手には武田騎馬隊のうちでも最精鋭を誇る小幡信貞の2000人が肉迫しました。小幡隊は、屍を乗り越え乗り越え、二の柵、三の柵を押し倒して柵内に乱入しました。しかし、最後は、鉄砲隊の集中砲火を浴びてしまいました。
 正午頃、武田信玄の重臣である馬場信春は、「今、退去すれば追撃の恐れもあります。しかし、半数が甲斐に帰り着けば再挙できます」と武田勝頼に進言しました。しかし、武田勝頼は、「敵に後ろを見せられない」と聞き入れませんでした。そこで、四番手の武田信豊、五番手の馬場信春ら武田信玄配下の猛将・騎馬隊らも、死を覚悟して突っ込みましたが、足軽による鉄砲隊に一蹴されてしまいました。
 午後二時頃、織田信長は、総攻撃を命令しました。武田勝頼軍の旗本が総崩れし、勝頼は、3000の兵を率いて逃げ延びました。武田勝頼が落ち延びるのを見届けると、馬場隊は、再度突っ込み、討ち死にしました。織田信長軍も6000人の死者を出しました。
 1582(天正10)年2月、織田信長は、天目山の戦いで、武田勝頼を自害させました。武田勝頼はその時、37歳でした。ここに、鎌倉時代からの名門武田氏が滅亡しました。
 4月、織田信長は、佐々木義治を保護したとして恵林寺ひ火を放ちました。この時、快川国師は、「安禅必ずしも山水を須いず 心頭滅却すれば火自ずから涼しい」と言って、炎にかこまれて亡くなりました(これを禅問答に対する答えなので、事実ではありません)。
 この項は、『日本合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。
信玄の偉大さ、鳥居強右衛門、鉄砲隊のは「三段撃ち」ウソ?
 武田信玄は、勝頼に「甲斐を出るな」と遺言しました。信玄のモットーは、「人は生垣、人は城」といわれています。信玄にとって、「人間が最大の財産」と感じ、手厚いもてなしをしました。その結果、甲斐にいるかぎり、武士は勿論、民・百姓まで、武田氏に味方するという自負を持っていたのです。
 信玄の恐さを知る織田信長は、農繁期を選んで、長篠合戦を仕掛けたといいます。武田軍は、農民傭兵で形成されており、田植えをするために、早期決着をする必要があったというのです。
 他方、織田軍は、兵農分離を進めており、農繁期を気にする必要がなかったのです。
 武田勝頼が、長篠城を包囲した時のことです。長篠城の兵糧は、残り数日しかありません。そこで、鳥居強右衛門が、家康に援軍を求める使者となりました。強右衛門は、必死で城を脱出しました。強右衛門は、信長と家康から援軍の約束を受けると、引き返しました。
 しかし、武田軍に捕まった強右衛門は、勝頼から、「援軍はこないと言えば、命だけは助けてやる。しかし、裏切ったら殺害する」と脅され、磔姿で、長篠城に現われました。強右衛門は、勝頼の命令に従う振りをして、「すぐに四万の大軍がきます。あと3日の辛抱です」と叫びました。これにより、長篠城は、持ちこたえることが出来ました。しかし、強右衛門は、串刺しにされてしまいました。
 長篠の戦いでは不可欠の場面です。色々な俳優が、様々に演じてきましたが、私にとって最も印象深いのは、北村和夫氏の演技です。今も、磔の姿で、長篠城の味方に呼びかえるシーンは、鮮明に残っています。
 北村和夫氏は、最近は、中村吉右衛門の「鬼平犯科帳」の仙右衛門(平蔵の従兄)役に出ています。そういえば、ご存知の方もおられるでしょう。
 長篠の戦いの意義は、鉄砲の数が戦局を左右するようになり、戦術・築城法に革命的な変化をもたらしたとか、戦国時代を早く終わらせたということになっています。
 武田信玄は、鉄砲の威力についても検討していました。当時の鉄砲は、装填するのに15秒かかり、1発撃って、次に撃つまでに25秒かかっています。武田騎馬隊は、甲冑武者を乗せて、100mを12秒ほどかかります。200mの射程圏外から突撃しても、1発を撃たせて、2発目を装填している間に、馬防柵内まで斬り込めると、武田騎馬隊の優位性を信じていました。
 その子勝頼も、そのことを確信していました。
 しかし、この意義に、机上の空論だと異議を唱える人もいます。その説を紹介すると、次のようです。
 「撃ち手はめいめい火薬や火縄を持っており、ぶつかりでもしたら引火事故を起こしかねない。しかも、火縄銃は引き金が軽くできており、少しのショックで暴発し、同士打ちの危険がある。このため、一発撃ち終えて退く時、右に回るか左に回るかから始めて厳しい訓練に基づく高い規律が確立していなければ、とても採用できない戦法なのだ」「三段撃ちなど、とうてい不可能だ」「長篠の戦を境とする信長による戦術革命など、まったくの絵空事にすぎなくなる。さらに、火器の力が戦国乱世を終わらせたとする説もおかしい」。
 手元に、『長篠合戦図屏風』があります。これは、慶長年間(1596〜1615年)から元和年間(1615〜1624年)に描かています。長篠の戦いの大体20年後ということになります。
 その屏風をよく見ると、4〜5人用の馬防柵が、互い違いに張り巡らしてあり、敵の正面から見れば、一列に見えるが、自軍からは、自由に出入りできる構造になっています。また、馬防柵と土手との間に壕を掘りって、その中で、火縄銃を構えています。そこが、鉄砲隊の最前線だったことがわかります。
 数段に構えた馬防柵の後ろでは、次の備えて準備している鉄砲隊が描かれています。これを見る限り、三段撃ちは、机上の空論でないことが分かります。
 鉄砲隊の出現により、戦術の革命的な変化も、「まったくの絵空事」と書いていますが、前段が崩壊すると、後段は成立しないので、説得力がありません。
 私は、長篠の戦いは、両軍合わせ最多の戦死者を出した、日本史上、最も凄まじい戦争だったと思っています。それ以降、鉄砲に対し、ガムシャラに戦いを挑むことがなくなりました。

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