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エピソード

104_05

本能寺の変(明智光秀と織田信長)
明智光秀と織田信長、確執の虚実
 1579(天正7)年、丹波攻略を進めていた明智光秀が、八上城を攻めていた時のことです。明智光秀は、守将の波多野兄弟の助命を約束し、その保証に光秀の母親を人質として八上城に入れることで、やっと開城に成功しました。ところが、織田信長は、安土城に送られた波多野兄弟を、明智光秀の懇願を無視して、磔にしました。これを知った八上城兵は、人質の明智光秀の母親を殺して、ことごとく討死にしました(『柏崎物語』)。
 1582(天正10)年、長篠の戦いの後、祝いの席で明智光秀が、「これまで骨身を惜しまず働いてきたことが報われた」と語ったところ、織田信長は、「その方、どこで骨を折ったのか」と言って、明智光秀の頭を欄干に打ちつけました(『川角太閤記』)
 長篠の戦い功により、駿河を与えられた徳川家康は、そのお礼に安土城にやってきました。織田信長は、明智光秀に接待役を命じました。当日、織田信長が様子を見に行くと、生魚が傷んで、悪臭が漂ってきました。激怒した織田信長は、その場で即刻、明智光秀を解任しました。
 面目をつぶした明智光秀は、用意した料理や器を堀に投げ込んだため、安土城下に腐臭が漂いました。さらに怒った織田信長は、自分より若輩の豊臣秀吉の救援を命じました(『川角太閤記』)。
 織田信長をはじめ柴田勝家ら重臣20人が揃って庚申講の酒席をしていた時のことです。庚申講の夜は、寝ないのが慣習でした。織田信長は、途中で厠に立った明智光秀を鎗を持って追いかけ、「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めました。明智光秀は、「ご容赦を!」と哀願して、やっと許されたということです(『柏崎物語』)
 美濃の稲葉一鉄の家臣だった斎藤利三は、明智光秀に仕えて、重用されていました。怒った稲葉一鉄は、織田信長に斎藤利三を返すよう直訴しました。織田信長は、明智光秀に斎藤利三を返すよう命じましたが、光秀は、「利光を養うのも君恩に奉ずるため」と答えて、拒否しました。激怒した織田信長は、明智光秀の髻を掴んで突き飛ばし、脇差を抜こうとしました。明智光秀は、その場を逃れて事なきを得ました(『明智軍記』)。
 1585(天正13)年、織田信長は、明智光秀を介して、長宗我部元親に対して、「四国は切り取り自由である」と約束したので、元親は奮戦して、ほぼ四国全土を平定しました。ところが、織田信長の勢いが強くなり、中国地方にも力が及ぶようになると、信長は、「讃岐・伊予から手を引け」と約束を反故にする命令が出ました。明智光秀は、面目をつぶしました。本能寺の変が、1582年ですから、年代があいません。
 明智光秀が備中出陣を命じられた直後、織田信長からの使者がやってきて、「(毛利領の)出雲・石見を賜ふとの儀也。さりながら、(現所有地の)丹波・近江は召上らるる由」と言って帰っていきました。家臣たちは、「織田信長の功臣であった林通勝佐久間信盛が追放されたように、殿を同じ運命に合わせようとしている。その前に、謀叛を」と、明智光秀に迫ったといいます(『明智軍記』))。
 1582(天正10)年、明智光秀は、武田勝頼と内通し、織田信長打倒を計画しましたが、計画が実行に移される前に、勝頼が自害してしまいました。しかも、武田一族の穴山信君が、徳川家康と安土城に来ていました。明智光秀は、穴山信君から「信長打倒を計画」が漏れるのを恐れて、謀叛をおこしたというのです(『甲陽軍艦』)。
本能寺の変
 1576(天正4)年、織田信長は、安土城を築城しました。
 1577(天正5)年、織田信長は、安土城下に楽市・楽座の制を開始しました。
 1579(天正7)年、豊臣秀吉は、播磨の別所長治三木城を攻略しました(三木の干殺し)。
 1580(天正8)年、柴田勝家は、加賀の一向一揆を平定しました。約100年前の1488(長享2)年に、「百姓の持ちたる国」といわれた、本願寺領国を征服したのです。
 1581(天正9)年、豊臣秀吉は、因幡鳥取城を攻略しました。
 1582(天正10)年5月14日、織田信長は、近江坂本城の城主明智光秀に休暇を与え、徳川家康の接待役を命じました。明智光秀は、将軍足利義昭にも仕え、儀典礼法を熟知しており、当代武将きっての知識人・教養人でした。
 5月15日、徳川家康は、織田信長に招かれ、安土城に入りました。明智光秀は、「珍物を調へ、おびただしき結構にて、15日から17日まで」徳川家康の接待に努めました(『『信長公記』』)。
 5月17日、豊臣秀吉からの急使が、織田信長の元へ着きました。それによると、「備中高松城の水攻めの最中に、毛利の援軍がやって来た。援軍を送ってほしい」というものでした。そこで、織田信長は、休暇を召し上げ、明智光秀に中国出陣を命じました。明智光秀は、近江坂本城に帰りました。
 明智光秀配下の大名として、細川忠興(丹後田辺城主)・筒井順慶(大和郡山城主)・池田恒興(摂津有岡城主)・中川清秀(摂津茨木城主)・高山右近(摂津高槻城主)らを任命しました。
 5月26日、明智光秀は、近江坂本城から、丹波亀山城(亀岡市)に移りました。
 5月27日、明智光秀は、愛宕山の愛宕権現に参拝し、神前で何事か念じました。
 5月28日、明智光秀は、京都から連歌師の里村紹巴らを招きました。明智光秀は、「時はいま 天が下しる 五月哉」と発句を詠みました。里村紹巴は、この句から、明智光秀の本心をしり、「雨が下なる。となさりませ」と言ったといいます。
 5月29日、連歌百韻がおわり、チマキが配られました。この時、明智光秀は、何かに心を奪われていたのか、チマキの笹の葉をそのまま口に入れたという話が残っています。また、明智光秀は、「本能寺の堀は深いか」とつぶやいたと言うのです。
 5月29日、織田信長は、近習30人を率いて、安土城(守護は蒲生賢秀)から京都の本能寺(四条西洞院)に移りました。嫡子織田信忠は、妙覚寺に滞在していました。
 6月1日、織田信長は、本能寺で、前関白近衛前久島井宗室神谷宗湛らを招いて、茶会を行いました。
 6月1日、安土から堺に出た徳川家康は、津田宗及の茶会に招待されました。
 6月1日午後4時、明智光秀は、斎藤利光ら重臣に、織田信長暗殺の計画を知らせました。
 午後6時、明智光秀は、丹波亀山城を出発しました。『信長公記』によると、「亀山より中国へは三草越えを仕り候ところ、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ」(中国に向かうには、亀山から三草峠=大阪の能勢)を越えて播州に出るべき所を、引き返して、東へ進み、老ノ坂を越え、桂川のほとりに着き、全軍に、その目的を知らせました」とあります。頼山陽が「敵ハ本能寺ニ在リ」と詠んだのが、この場面です。
 桂川から京都に入った明智光秀は、1万3000の兵を5隊に分けて、各方面から本能寺に向かわせました。
 6月2日早朝、明智光秀軍は、本能寺を襲撃しました。
 この時の状況を、『イエズス会日本年報』によると、「宮殿の前で騒が起り…銃声が聞え、火が上った。つぎに喧嘩ではなく、明智が信長に叛いてこれを囲んだといふ知らせが来た」とあります。
 織田信長は、「これは、謀叛か、いかなる者の企てぞ」と叫ぶと、森蘭丸が「明智が者と見え申候」と報告すると、信長は「是非に及ばず」(やむ得ない)と言って、敵陣に踊りこみました。
 この時の状況を、『イエズス会日本年報』によると、「信長はこの矢を抜いて薙刀、すなはち柄の長く鎌の如き形の武器を執って暫く戦ったが、腕に弾創を受けてその室に入り戸を閉ぢた」とあります。
 織田信長は、ついに力尽き、炎の中で自害しました。時に49歳でした。
 この時の状況を、『イエズス会日本年報』によると、「諸人がその声でなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した」(毛髪も残さず、灰になるように死んだ)と記されています。
 織田信忠は、大兵に包囲された父織田信長を救うことが出来ず、二条城に立て籠りましたが、やがて、織田信忠も自害しました。時に26歳でした。
 この時の状況を、『イエズス会日本年報』によると、「信忠は、内裏の御子の居(二條御所)に赴いた。…内裏の御子(誠仁親王)はかくの如き客を迎へて甚だ当惑され、…上の都の内裏の宮殿(上御所、禁裏)に向はれた。…信忠はよく戦ひ、弾創、矢傷を多く受け、…焼死者の中にあった」と報告されています。
 6月2日午前9時、明智光秀の織田信長・織田信忠父子暗殺が終わりました。
 6月2日、本能寺の変を知った徳川家康は、後に徳川四天王といわれた酒井忠次・井伊直政本多忠勝榊原康政らと共に、必死の逃避行を続け、山城国と大和国の間道を通り伊賀越えにて伊勢へ出る道を選択し、やっと三河にたどり着きました。
 しかし、それまで終始行動を伴にしていた穴山梅雪は、山城への道をとり、それが災いとなり、山城の草内の渡し辺りで、暴徒と化した土民により殺されてしまいました。
 この時の状況を、『イエズス会日本年報』によると、「三河の王(徳川家康)と穴山殿(梅雪)と称する人はこの報に接し…三河の王は多数の兵と賄賂とすべき黄金をもってゐたため、困難はあったが通行ができて国へ帰った。穴山殿は少しく遅れ、兵も少かったため、途中で掠奪に遭ひ、…殺され…」とあります。
 明智光秀は、元の同僚の柴田勝家・豊臣秀吉・滝川一益丹羽長秀らに、織田信長殺害を連絡する使者を派遣しました。
 また、明智光秀は、娘婿の細川忠興とその父細川藤孝に3か条の覚書を出しています。当時の明智光秀の心情が察せられる内容となっています。
 「信長の死を悼んで髻を切られたそうだが、もっともとである。しかしかくなる上は是非味方して欲しい。
摂津国を用意して上京を待っているが、希望するなら但馬・若狭をも進呈する。この度のことは、婿である忠興などを引き立てたいためであり、他に目的はない。京畿平定後は忠興らに天下を譲る」
本能寺の変にまつわる様々なこと
 1582年6月14日〜15日、安土城は炎上しました。古来、放火犯人について、色々説があります。
(1)安土城を守備していた明智光秀の娘婿秀満が、光秀の敗報を聞き、坂本城へ退却する時、放火した。
(2)明智秀満が退去した後、安土に入った信長の次男織田信雄が、放火した。
(3) 略奪や恩賞目当ての落ち武者狩りのために城下に入った農民が、放火した。
 それはともかく、私は、その後、まったく手付かずの安土城を訪れました。草ぼうぼうの石段をどんどん登っていきました。豊臣秀吉などの屋敷跡も、石垣のまま残されていました。基礎石しかない天守閣跡にも行きました。何もない、荒れ果てた城跡だけに、自分の五感を集中させて、当時を偲ぶこととが出来ました。今は、色々な物が復元され、想像力を邪魔するようです。
 天守閣跡から西の方を見ると、琵琶湖が一望に見渡せました。この時、革命家信長が、この地に安土城を築いた理由が読めました。
 信長の光秀に対するいじめ話が、非常に多い。作り話が多いようですが、火のないところに煙は立たぬといいます。信長の過激な性格を快く思わぬ人々が、作り上げたのでしょうか。
 ともかく、いじめは、浅野内匠頭と同じで、吉良を憎くすれば、ドラマは盛り上がります。
 連歌百韻の時の話です。普通、光秀の発句は、このように解釈されます。
 「時はいま」の「いま」は決起を意味し、「時」は光秀の祖である土岐氏を意味していると解釈します。「天が下しる」の「天」は「アメ」と読み、雨を意味します。と同時に、「天下」を「治(し)る」、つまり天下をとるとも解釈します。
 しかし、中にはこのような解釈をする人も出てきました。珍説ですので、ご紹介します。
「ときは今天(あめ)が下しる五月哉:光秀(土岐源氏=織田信長は今川を倒したようにに天皇 、帝を亡き者にしようとしている)
 水上まさる庭の夏山:西坊
 花落つる池の流れをせきとめて:紹巴(帝、殺害の計画を阻止せよ)
 月は秋秋はもなかの夜はの月:光秀(秋=(もなが)信長、 夜=(ハの付く)羽柴秀吉」
 1569(永禄12)年、信長に布教を許可されたイエズス会のルイス・フロイスは、信長の性格と、光秀の謀叛のことを、日本の史料以上に正確に、本国に報告しています。
 「信長は…元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対を言われることに堪えられない性質であったので…彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。…その過度の利欲と野心が募り、ついにはそれが天下の主になることを彼(光秀)に望ませるまでになったのかもわからない。(ともかく)彼は、それを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果す適当な時機をひたすら窺っていたのである」
 この報告以外でも、上に列記したように、イエズス会の本国への報告は、権力の中枢に居るように、正確です。日本の忍びの報告を思わせます。布教に最も手っ取り早い方法、つまり政治や権力に接近している様がよく分かります。

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