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エピソード

104_06

NHK大河ドラマ「天地人」と直江兼続
 高校の日本史教科書を調べても、皆無の人物について、色々と質問されたことがあります。
 その人物は直江兼続です。NHK大河ドラマ「天地人」が原因です。新潟件出身の火坂雅志氏の原作が良かったのか、小松江里子氏の脚本が良かったのか、主演の妻夫木聡氏が良かったのか、演出も含めて、総合して良かったのか。
 私は、残念ながら、本放送も、総集編も見ていないので、何とも言えません。色々な書籍やHPなどを総動員して検証したいと思います。
 上杉謙信・景勝親子に仕えた直江兼続が主人公です。下剋上(利)を常とする戦国時代に会って、「義」の志を胸に、「愛」の一字を兜付けて戦った武将直江兼続の生き方を主題としています。上杉謙信から教えられた「義」の精神を意味します。

 配役は、直江兼続(妻夫木聡)、兼続の正室・お船(常盤貴子)、兼続の少年時代・与六(加藤清史郎)、上杉謙信(阿部 寛)、上杉景勝(北村一輝)、徳川家康(松方弘樹)、石田三成(小栗旬)などです。
 視聴率は毎回平均20%を超えました。
 永禄3(1560)年、父・樋口惣右衛門(高嶋政伸)・母・お藤(田中美佐子)の長男としてうまれました。
 5歳の時、上杉景勝の小姓となりました。口癖は「これはしたり」でした。
 天正6(1578)年、上杉謙信の死後、御館の乱がおこりました。原因は、謙信の養子・上杉景勝(実父は長尾政景)と上杉景虎(実父は北条氏康)との間で、家督をめぐっての対立です。兼続は、上杉景勝方として、桑取衆や武田家を味方に付けるなどの大活躍をしました。父・樋口惣右衛門は、景虎方と北条家の密書を入手し、景勝のために、兼続に対して、金蔵のある春日山城本丸の占拠を命じ、勝利に貢献しました。この乱後、家老に昇格し、実力を発揮しました。

 織田信長が本能寺の変で自害すると、豊臣秀吉が天下を掌握しました。兼続は、上杉景勝と上洛した時、秀吉から家臣になるように誘われましたが、「自分の主人は景勝以外にない」と断りました。

 兼続は、秀吉の死後、石田三成と結んで、徳川家康対抗しました。そのため、「直江状」を各地に発しましたが、関ヶ原の戦いで、頼みの三成が敗北すると、家康に随いました。その結果、大幅な減封となった上杉家の内政に力を尽くす。その後も家康の不義を糾弾し続け、その姿勢で逆に秀忠の信頼を得た。晩年は上杉家と三成の正義を後世に伝えるために禅林文庫を創設し、それを機に藩政を引退。悠々自適の生活を送り、穏やかに人生の幕を下ろす。
 元和5(1619)年、亡くなりました。
 以上が、大河ドラマの要点です。
 時代を詠めず、支持者の多い徳川家康を敵に回して、人気のない石田三成と結託して、主家の領地を大幅に減じています。

 以下、実話を再現してみました。
 弘治元(1555)年、上杉景勝が生まれました。
 永禄3(1560)年、父・樋口惣右衛門(高嶋政伸)・母・お藤(田中美佐子)の長男として、越後上田庄で、生れました。
 永禄7(1564)年、上田長尾家当主の長尾政景が死去しました。上杉輝虎(謙信)の養子・長尾顕景(後の上杉景勝)に従って春日山城に入りました。景勝の小姓となりました。
 天正6(1578)年、上杉謙信の死後、謙信の養子・上杉景勝(実父は長尾政景)と上杉景虎(実父は北条氏康)との間で、家督をめぐって戦いが始まりました(御館の乱という)。この乱で活躍した兼続は、家老に昇格となりました。
 天正12(1584)年、兼続は、内政・外交の実権を掌握しました。景勝(30歳)は「御屋形」、兼続(25歳)は「旦那」と敬称されました。
 天正15(1587)年、兼続は、新発田重家の乱を平定しました。兼続は、信濃川の支流・中ノ口川を開削して、新潟平野の基盤を整備するなどして、新発田重家から新潟湊の経済利権を失わせてました。
 天正16(1588)年、兼続は、関白・豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続と改名しました。
 天正18(1890)年、兼続は、上杉景勝に従い、小田原の役では、豊臣秀吉側で参陣し、八王子城をなど関東諸城を攻略しました。
 その後、兼続は、越後の平野部の新田開発を行い、米所に育て上げました。また、木綿のない時代の青苧(原料がカラムシ)を増産するなど産業の育成させました。
 慶長3(1598)年、上杉景勝が越後から会津120万石に移封しました。その時、兼続は、出羽米沢に6万石が与えられました。
 慶長3(1598)年8月18日、秀吉が死去しました。兼続らは、神指城の築城を始めました。親徳川の堀秀治らが上杉家の謀反を家康に訴えました。さらに、兼続の直江状のあって、家康に会津征伐を決定させました。兼続は、佐和山の石田三成と連絡を取りながら、越後一揆を画策して家康軍を背後からかく乱する戦略を採用しました。三成が挙兵(関ヶ原の戦い)したため、家康率いる東軍の主力は、会津方面から上げました。
 その後、上杉軍は、約8倍の兵力を持ちながら、反上杉軍を攻略できませんでした(長谷堂城の戦い)。その結果、景勝・兼続軍は、「最上義光・伊達政宗を屈服させ、関東へ侵攻する」という構想が挫折しました。
 慶長6(1601年)年、兼続は、景勝とともに上洛して、家康に謁見して謝罪しました。しかし、景勝は、出羽米沢30万石に移封されました。米沢への移封の時、120万石から30万石と4分の1に減額されました。この時、兼続は「人こそ組織の財産なり」と言って、家族を入れて3万人を米沢につれ行きました。
 逆に、兼続は、新地の最上川上流に3キロにわたって石の堤防(直江石堤)を築き、新田開発による財政再建策を採用しました。その結果、表高30万石に対して、実高は万石という成果を上げました。
 その後、本多政重(徳川家の重臣・本多正信の次男)は、政略結婚により兼続の娘の婿養子になり、上杉家と徳川家の融和に努めました。
 慶長19(1614)年、大坂の役が起こると、徳川方として参陣しました。
 元和5(1619)年、江戸鱗屋敷で病死しました。年齢は60歳でした。
妻夫木聡=「めぶきさとし?」の知識しかなくて、申し訳ありません
 直江兼続は、上でも書きましたが、全ての高校日本史教科書に取り上げられていません。
 だから、大学入試にも出ないし、だから、教材研究もしません。当然、授業で扱うこともありません。
 主演の妻夫木聡氏のことも知らないし、詠みも知りません。「めぶきさとし?」と言って、娘から「遅れている」とからかわれ、「”つまぶきさとし”と言って、トレンディドラマでは知らない人もいないほどの超有名人なんだから」と‥‥。

 それが、突如、あちこちから「直江兼続ってどんな人ですか?」と聞かれても、「分かりませんね。後で調べて答えます」と言い逃れして来ました。
 それも出来ず、観念して、調べることにしました。事実関係が間違っておれば、ご指摘ください。
(1)兼続をよく知るある僧侶は「人というものは利を見て義を聞こうとしないものだ。そんな中で直江公は利を捨て義をとった人だった」と言っています。

(2)米沢市郊外には、兼続の命で土地を開墾した武士の家が今も残っています。その家の外周には、今も、クリやカキ、生垣には食用のウコギが使われています。いずれも食べられる食用の木である。兼続は、「地下人上下共身持之書」(『四季農戒書』)で、「百姓は上下とも皆、質素を旨とするように」と書いています。

(3)豊臣秀吉は「天下の仕置きを任せられる男は、直江兼続と小早川隆景なり」「ただし、天下を取るには直江は知恵が足りず、小早川は勇気が足りない」と言ったということです。
(4)兼続は、各寺々に、「万年塔」を奨励しました。林泉寺などにある万年塔を見ると、墓石の両側に各々、横に4個、縦に3個の合計12個の四角い穴を開けています。墓石の四角い穴に棒を通して、繋ぎ、積み上げれば、強固な石の防護塀となります。今でも米沢のお寺には、今も多くの「万年塔」が見られます。

(5)豊臣秀吉の時代、伊達政宗が諸大名に天正大判を見せることがありました。その時、兼続だけは、素手でなく、扇子で受け、表裏を見ました。すると、政宗は、兼続に手に触れて見るように勧めました。それに対して、兼続は、「私の右手は上杉謙信の代より采配を預かったものです。不浄なものに触れるわけにはいきません」と言って、政宗に天正大判を投げ返したと言います。

(6)徳川家康の時代、兼続は、江戸城で、伊達政宗とすれ違ました。その時、兼続は、会釈すらせず、やり過ごしました。政宗がそれを指摘すると、兼続は「戦場では度々お会いしたが、正宗公の逃げる後ろ姿見たことがないため、失礼致しました」と応じたといいます。
(7)直江兼続の蔵書には、宋版『史記』『漢書』『後漢書』があります。これらは国宝に指定されています。元和4(1618)年に兼続は、米沢藩の学問所である禅林文庫(後の興譲館)を設立しました。以後、明治34(1901)年、山形県立米沢中学校と改称しました。昭和31(1956)年、山形県立米沢興譲館高等学校と改称し、現在に至っています。

(8)兼続の家臣が下人を無礼討ちにする事件がありました。下人の遺族は兼続に訴えました。調べると、遺族の訴えが正しかったので、慰謝料で対処する事にしました。しかし、遺族は、死んだ家族を返せと無茶な主張しました。そこで、兼続は「家族を返してやろう。しかし、わしの家臣にあの世に行ける者がいないので、そちらの方で行ってくれないか」と言って、遺族3人の首をはね、河原に晒しました。さらに、立て札に閻魔大王への嘆願書として「この者どもを使いに出すから死人を返せ 直江兼続」と書きました。義や愛の売り物とするが、無茶な主張をする下人には厳しく対処する支配者・兼続の則面を伝えています(『煙霞綺談』)。

(9)新井白石の『藩翰譜』や南方熊楠の書簡集には、上杉景勝と直江兼続は、衆道関係にあったと断言してます。高校生の皆さんには、「衆道関係」は馴染がうすい表現ですが、いずれ、出会う言葉なので、あえて説明します。衆道とは「若衆道」の略で、「若色」とか「若道」とかいう表現もあります。若くて美系の少年を相手にする男子の同性愛のことです。長い戦場にいる武士の男だけの僧侶の世界では、当然視されていました。
 直江兼続の大河ドラマのストーリを見ても、史実を見ても、印象に残ることは、120万石から30万石に減少された時、120万石の時の家族を連れて、会津から米沢に移りました。そのため、武士に新田開発をさせたり、庭に成木を植えたり、生垣にも食用の木を使ったりしているだけです。
 他方、関ヶ原の合戦では石田三成と組んで、主家を大大大名から大大名に格下げした元凶です。「奸臣」という名も与えられていました。

 それを財政改革の祖として高くしたのが、米沢藩の第9代藩主・上杉鷹山でした。なるほど、戦略家ではなく、財政再建家としては、意味があるんだなーと思いました。

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