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エピソード

105_01

豊臣秀吉の出世
 1536(天文5)年、豊臣秀吉は、『甫庵太閤記』には、「尾張中村に、織田信長に仕えた足軽木下弥右衛門の子として生まれました。母は美濃の鍛冶関兼貞の娘」とあります。母なかは、日輪が懐中に入った夢を見て妊娠し、元旦に生まれたので、日吉丸と名づけました。実は、これは『太閤記』の作者小瀬甫庵のフィクションといわれています。
 1542(天文11)年、豊臣秀吉が7歳の時、父の木下弥右衛門が病死しました。母のなかは、織田信秀の同朋衆だった竹阿弥と再婚します。
 1543(天文12)年、日吉丸は、8歳の時、光明寺に預けられましたが、乱暴ばかりするので、寺から追い出されました。実父弥右衛門の遺した永楽銭1貫文(銭1000枚)を与えられ、家を出ました。銭1000枚では重くて、目立つので、針に代えました。腹が減っては針を売り、寝るところがなければ針を売り、あちこち放浪生活をしていました。そんな時、矢作橋の上で野武士の蜂須賀小六正勝に会いました。
 富豪の家に押し込み強盗をした時のことです。日吉丸は、置いてきぼりをくいました。しかし、一計を考えて、井戸に庭の石を放り込み、家人がその音に気をとられている間に、脱出に成功しました。蜂須賀小六は、そんな日吉丸を大事にしたといいます。そんな生活に飽き足りなくなった日吉丸は、再び旅に出ました。
 1550(天文19)年、日吉丸(15歳)は、遠江の曳馬で、今川家の家臣松下加兵衛之綱に出合い、仕えるようになりました。この頃、木下藤吉郎と名を改めました。
 初め草履取りでしたが、だんだん出世して納戸役になりました。
 1553(天正22)年、しかし、木下藤吉郎は、先輩達の妬みを買い、再び放浪生活が始まりました。
 1558(永禄元)年、松下之綱のもとを去った木下藤吉郎(23歳)は、一旦故郷に帰り、知人で織田信長の小人頭をしていた一若という者の紹介で、織田信長に仕えました。
 寒い朝、織田長の草履を自らの懐で温めた話は有名です。
 1560(永禄3)年、桶狭間の戦いの後、木下籐吉郎は、足軽大将にまで出世しました。
 1561(永禄4)年、木下藤吉郎(26歳)は、浅野長勝の養女おね(15歳)と結婚しました。薪奉行に出世した木下藤吉郎は、火箸で炭火を「せせる」から、炭火の消耗が激しいと分析し、火箸を回収し、定期的に炭火を点検しにまわり、大いに節約したといいます。
 1566(永禄9)年、織田信長が斎藤義竜と戦った時、美濃稲葉山城は周囲を長良川に囲まれた天然の要害でした。この城を攻めるには、長良川の此岸にどうしても砦が必要でした。佐久間信盛柴田勝家ら練磨の猛将が、築城を試みましたが、完成間際には破壊され、成功しませんでした。
 そこで、木下藤吉郎は、別な場所で、設計図に従った墨入れ、鋸引きなどをして一個一個部品をつくる、現在のプレハブ工法を採用しました。そして、野武士蜂須賀小六正勝らを動員し、5万点に及ぶ材料を筏に組んで、長良川の墨俣まで流しました。
 斎藤陣営は、ほぼ完成した頃に、襲撃しようと、何時ものように構えていると、工事を始めた翌日には城が完成していたのです。これを、一夜城(墨俣一夜城)と呼びました。これで、戦局が一変しました。
 1573(天正元)年、木下藤吉郎は、姉川の戦いの功により小谷城主(12万石)となりました。
 1574(天正2)年、木下藤吉郎は、小谷城から長浜城移りました。
 1575(天正3)年、長篠の戦いの後、木下藤吉郎は、丹長秀と田勝家よりそれぞれ一字をもらって、羽柴筑前守秀吉と名を改め20万石の大名となりました。
 1577(天正5)年、羽柴秀吉は、中国の毛利征伐の大将に任じられて播磨国支配に赴きました。
 1580(天正8)年、羽柴秀吉は、毛利攻めの最前線である姫路の英賀城を攻撃しました。英賀城は西に夢前川、東は水尾川、南に瀬戸内海、北に堀をめぐらした、平城でした。城内に英賀御坊という本願寺の寺院もあり、寺内町でもあったのです。
 英賀城主の三木通秋は、英賀一向一揆を率いて、毛利氏や本願寺の援助を受けて、頑強に抵抗しました。
 そこで、羽柴秀吉は、夢前川を堰止め、防御のための堀に水を流すという水攻めを採用しました。その結果、三木通秋は開城しました。怒り狂った羽柴秀吉は、住民を皆殺しにしようとしましたが、小寺官兵衛(のちの黒田如水)の進言を受けて、姫山に住民を移し姫路城を築きました。
 秀吉が、殺されても当然と覚悟している住民の命を救ったことが、後に、幸いすることになります。
 1581(天正9)年、羽柴秀吉は、姫路城から鳥取に出て、鳥取城を攻撃します。吉川経家は開城します。
 1582(天正10)年、羽柴秀吉は、備中高松城を攻撃します。高松城は三方に沼、外堀には足守川、城門に続く道は一筋という構造のため、大軍による攻撃には不向きでした。そこで、羽柴秀吉は、姫路の英賀城で採用した水攻めを実行しました。羽柴秀吉は、高さ7メートル、長さ3000メートルという堤防を築きました。
 水中に孤立した高松城内の食糧も時間の問題となりました。そこで、毛利氏と羽柴秀吉は、和睦を話し合うことにしました。
 6月3日、明智光秀は、本能寺で織田信長を謀殺しました。羽柴秀吉にとって、最大のピンチがやってきました。
百姓出の豊臣秀吉、知恵で生きた勉強で出世
 生徒は、1貫文と言ってもピンと来ません。銭1000枚と言っても、まだまだという感じです。比較的手に入りやすい寛永通宝を見せて、これが1000枚で1貫文というと、私の意図がやっと通じます。
 銭1000枚持って旅をすると、重くて、目だって、盗んでくれと言わんばかりです。それを、日常、どの家庭でも必要な針なら、軽いし、必要な時には売れます。
 フィクションだとは思いますが、秀吉にはこんな才覚があったことは、本当だったと思います。
 ストーブがない時代、火鉢に炭火を入れ、灰をかぶせます。炭火は時間が経つと、上の方に自らの灰で寒くなります。閑な時は、必要以上に炭火を火箸で触りまくり、親からよく「無駄なことをする」と怒られたものです。
 昔、プロパン屋さんは、「ガスがなくなった」と言う連絡をすると、日曜だろうが、夜遅くだろうが、配達にきてくれたものです。「遅くから済みませんね」という母の声を聞いています。と同時に、不合理なシステムだなーと子供心に思ったものです。
 秀吉のように、定期的に巡回すれば、無駄なエネルギーは節約できます。プロパン屋さんも、今は秀吉方式を採用しています。
 墨俣の一夜城のシステムは、今、プレハブ工法として、実用化されています。
 以上見てきたように、秀吉は、「ピンチはチャンス」「不便は工夫の源」という、生きた勉強を身につけた凄い奴ということになります。この世には、不合理で、不便なことが一杯あります。他人が幸せになり、自分が金を儲ける。これは、許されていいのではないでしょうか。
 私は、長良川に囲まれた稲葉山城(岐阜城)にも行ってきました。城の周囲を流れる長良川の川幅は広いし、水の流れは急でした。登山口でない方は、断崖絶壁という感じでした。
 実際に行かなければ、墨俣城の必要性は、分からなかったかもしれません。
 私が勤めていた学校のすぐ近くに英賀城がありました。地図では、夢前川河口の東側に史跡があることになっていました。駐車可能な土手に車を留めて、史跡らしい箇所を探しました。英賀神社はすぐ見つかりました。この神社の北にある土塁が、当時を偲ぶ唯一の史跡でした。あちこち、歩き回って、やっと「英賀城本丸之跡の石碑」を見つけ、ここが、あの英賀城の遺構であることを確認しました。夢前川の土手を通って車まで行ったとき、その土手に「英賀城土塁跡」の標示石を発見しました。
 司馬遼太郎さんは、「自分の先祖も一向一揆の英賀衆で、この英賀城にこもった」と言っています。そして、ここが、『播磨灘物語』の原点となったとも言ってます。私も、当時を想像して夢が駆け巡りました。
 最近の状況をホームページで見ました。
(1)「神社北側にある矢倉公園内に石塁が復元されていた」
(2)「英賀小学校の正門前の小公園前に英賀地区の史跡案内板がある。この案内板を頼りに英賀城本丸の石碑までたどり着くことが出来た」
(3)「英賀城本丸之跡の石碑 いきなりこの石碑を見つけることは難しいですよ。やっと見つけた、という感じです」
(4)「夢前川方向にある城土塁で、何年か前に訪れた時には真ん中に英賀城土塁跡の標示石版があったのに、どこにいったのだろうか。」
(5)「司馬遼太郎文学碑で『播磨灘物語』と刻まれています。英賀城土塁跡から少し南の英賀神社境内にあります」
(6)「過去の出来事を小説と現地で照らし合わせて、こみ上げる感動は、城跡探索のすばらしいところだと思います」
 (6)に同感です。地理に詳しい地元の人が立てる時、地理に不案内な旅行者の視点が欠如することがあります。立てる苦労も分かりますが、どうせ立てるなら、長いこと愛される案内板にしたいものです。

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