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エピソード

105_02

備中高松城の水攻め、山崎の戦い、賎ケ岳の戦い(柴田勝家)
備中高松城の水攻め
 1582(天正10)年5月、羽柴秀吉は、2万の兵で、備中高松城を包囲し、梅雨時を待って、水攻めを敢行しました。高松城には、城主の清水宗治のほか、5000人が籠城しています。
 毛利輝元小早川隆景吉川元春の援軍1万人が、高松城を挟んで、羽柴秀吉軍と対峙しました。
 5月17日、羽柴秀吉は、織田信長の元へ、「援軍を送ってほしい」という急使を送りました。
 5月末、織田信長の援軍におびえる毛利方は、「高松城の全員の助命を条件に、備中・備後・美作・因幡・伯耆は割譲する」という講和案を出しました。羽柴秀吉は、織田信長の援軍が来ているという自信から、「5カ国の割譲と城主清水宗治の切腹を条件に、他の者の助命を認める」という案を提出し、和談は決裂しました。
 6月3日、交渉に当っていた安国寺恵瓊計が、清水宗治に、「城兵を助けるのは、あなたしかいない」といったので、「衆命に代わって明日4日に自決する」という手紙を羽柴秀吉に送りました。
 6月3日夜、明日の4日に全てが決着する瀬戸際に、本能寺の変を知らせる明智光秀の急使が、羽柴秀吉陣営の迷い込んだのです。その知らせには「信長を討った。よって、秀吉を東西から挟撃しようではないか」とありました。
 6月4日、清水宗治は、羽柴秀吉が出した小船の上で、自害して果てました。顔にもださず、この儀式を見守る羽柴秀吉の心中はどのようなものだったのでしょうか。
 6月6日午後2時、羽柴秀吉は、高松城から兵を撤収し、姫路に向かいました。
 6月6日午後、毛利方に、伊賀雑賀衆から「本能寺の変」知らせる急使が着きました。吉川元春の嫡子吉川元長は、「秀吉を追撃すべし」と主張しました。これに対し、父吉川元春は「誓紙の血が乾かない内に、これを破るは不義であり、信長の喪に乗ずるは不祥である」と諭して、本国へ引き上げました。
 6月7日、羽柴秀吉は、姫路に着きました。高松城から姫路城まで80キロを豪雨をついての羽柴秀吉進軍は、「神業」と表現されています。
 この時、英賀城の領民が、姫路城で、疲れ切った羽柴秀吉軍を接待しています。黒田官兵衛の計らいが、ここで、羽柴秀吉の天下取りを応援したのです。羽柴秀吉は、ここで、兵馬を休養させることが出来ました。
山崎の戦い
 6月9日早朝、羽柴秀吉は、姫路を出て、夜には兵庫に着きました。
 他方、明智光秀は、娘婿の細川忠興とその父細川藤孝に対し、土地の切り売りを条件に、協力を求めましたが、拒否されました。
 6月10日、明智光秀は、男山の石清水八幡(桂川と宇治川が合流して淀川になる地点の南東)の南の洞ヶ峠(京都・大阪の平野が一望できる場所)で、大和郡山筒井順慶に出兵を催促しました。
 6月11日早朝、羽柴秀吉は、尼ケ崎を出発しました。
 6月11日、明智光秀は、洞ヶ峠で、筒井順慶の出陣を待ち続けました。他方、筒井順慶は、羽柴秀吉の「別儀ない」という誓紙を受け取っていました。しかし、筒井順慶は、行動を起こすのを躊躇していました。
 6月12日、劣勢になった明智光秀は、本拠の勝龍寺城に入りました。勝龍寺城は、桂川宇治川が合流して淀川になる地点の北にあります。次に、羽柴光秀は、勝龍寺城の南で、合流地点の西にある天王山、その南の山崎から撤兵して、桂川と宇治川に挟まれた淀城を左翼の起点としました。また、勝龍寺城の南で、淀城の桂川を挟んだ円明寺川(沼地)を最前線としました。山崎は、西国から京都へ上る要衝であり、天王山は天然の要害です。明智光秀が、ここを捨てたのは、羽柴秀吉より兵が劣勢なのを知った布陣です。狭い勝龍寺城に誘い込む作戦を採用しました。
 6月12日夜、明智光秀の組下だった高山右近は、山崎を占拠しました。同じく中川清秀も、天王山を占拠しました。
 6月13日午後4時、明智光秀の西に陣した松田太郎左衛門並河掃部隊が、天王山の東の羽柴秀吉軍を攻撃しました。これに対し、天王山東の中川清秀、天王山西の黒田孝高がこれを迎撃しました。
 これを見た羽柴秀吉は、淀川沿い(一番東側)の池田恒興に、対峙する明智光秀側の津田信春を攻撃させました。この段階で、羽柴秀吉軍は、逆に、明智光秀軍を包囲する形になりました。そこで、羽柴秀吉は、全軍に総攻撃を命じました。
 明智光秀は、たまらず、御坊kより、北の勝龍寺城に退却しました。
 6月13日夜、明智光秀は、御坊kより、近江坂本に向かって逃げ延びようとしたが、その途中の小来栖で、武者狩りの一隊に襲われて、落命しました。
 6月15日、安土城を守護していた明智光秀の嫡子明智秀満は、坂本城に逃れ、そこで、明智家の妻子を刺し殺し、腹を十文字に掻き切り、城に火をかけ、死んで行きました。
 『イエズス会通信士』によると、「織田信雄が安土城に火をかけた」と書き、「気が狂ったか、それとも馬鹿者でなければ理解しがたいことだ」と評しています。
 6月17日、明智光秀の首と、京都の六条河原で斬られた斎藤利光の首が、曝されました。
賎ケ岳の戦い
 6月27日、柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀ら織田家の宿老が、清洲城に集会しました。宿老の滝川一益は招待されず、代りに、山崎の戦いに参陣した池田恒興が宿老に列席しました。
 織田家の後継者候補には、織田信長の次男織田信雄と三男織田信孝がいました。
 筆頭家臣柴田勝家は、山崎の戦いに参陣した信孝を後嗣として推挙しました。
 ところが、羽柴秀吉が推したのは、長男織田信忠の嫡子三法師(織田秀信)でした。羽柴秀吉は、仮病を使って中座しました。三法師を推すことは、前もって、丹羽長秀・池田恒興らに相談していました。激しい議論の結果、羽柴秀吉案が大勢を占めました。羽柴秀吉は、三法師を抱いて席に戻って来ました。羽柴秀吉の作戦勝ちです。 
 10月15日、羽柴秀吉は、秀吉の養子である羽柴秀勝(織田信長の四男)の名で、京都大徳寺で、織田信長の葬儀を行いました。
 10月16日、柴田勝家は、堀秀政に送った覚書を見ると、「秀吉が誓約を履行せず、天下の政治を私するのはけしからぬ」と反秀吉陣営を結成しました。織田家の後継者になれなかった織田信孝、宿老を降ろされた滝川一益が参加しました。
 12月9日、羽柴秀吉は出軍して近江の長浜城(城主は柴田勝家の養子柴田勝豊)を攻略しました。
 12月16日、羽柴秀吉は、美濃の大垣城に入りました。
 12月20日、外堀を埋められた織田信孝は、羽柴秀吉に、三法師を渡し、さらに生母と娘を人質として差し出しました。
 1583(天正11)年2月、羽柴秀吉は、伊勢桑名城の滝川一益を包囲しました。
 3月9日、柴田勝家は、佐久間盛政前田利家を先陣にして、越前北ノ荘から出陣しました。佐久間盛政も応じて、余呉湖の北の柳ケ瀬に陣を敷きました。
 3月11日、柴田勝家の江北への出陣を知った羽柴秀吉は、急遽、伊勢より引き返して、長浜城に入りました。
 3月12日、羽柴秀吉は、佐和山から柳ケ瀬と進んで、佐久間盛政軍と対峙しました。雪に阻まれ、長期戦となりました。
 4月16日、美濃の織田信孝が、滝川一益と共に挙兵しました。
 4月17日、羽柴秀吉はそれを聞いて、急遽大垣城に戻りました。その隙に、佐久間盛政は、余呉胡の西を迂回して、大岩山砦(余呉湖の真東)の中川清秀を戦死させ、岩崎山砦(余呉湖の東北)の高山右近を、田上山砦(大岩山の東)敗走させました。勝ちに乗じた佐久間盛政は、柴田勝家の帰陣命令を無視して、岩崎山から余吾湖畔の南まで進みました。しかし、余吾湖畔の南の賎ケ岳の砦にいた丹羽長秀が、この地域をよく防御しました。
 佐久間盛政の位置を知った羽柴秀吉は、「我、勝てリ」と叫んで、岐阜から近江木之本まで13里の道を、走りに走って、わずか2時間半ほどで、木之本(賎ケ岳の東)に着きました。羽柴秀吉の大返しに慌てた佐jyな盛政は、余呉湖の西から退却しました。余呉湖の北に布陣していた前田利家も、佐久間盛政軍と共に退却しました。
 羽柴秀吉は、賎ケ岳で、佐久間盛政軍の退却を援護している柴田勝政に猛攻撃をしかけました。この時、活躍したのが、「賎ケ岳7本槍」です。
 4月21日、柴田勝家は、北ノ庄に退却しました。
 4月23日、羽柴秀吉は、前田利家を先鋒として北ノ庄を包囲しました。これより先、前田利家は、「勝家軍に加わるが、中立を守る」という約束を、羽柴秀吉と交わしていたとされています。
 4月24日、羽柴秀吉軍に包囲された柴田勝家は、浅井長政の3人の娘を秀吉の陣所に送り、妻お市の方と共に自刃して果てた。
 5月。織田信孝は、自害しました。柴田勝家と、佐久間盛政の首は、六条河原でさらされました。
 7月、滝川一益は、羽柴秀吉に降伏し、反羽柴秀吉派はいなくなりました。
清水宗治にみるリーダー論、お市の方の生き様
 「英雄は、運をも味方にする」という話があります。光秀の使者が、毛利方に着いていれば、秀吉の天下取りは、あったかどうか分かりません。
 密使が、他陣営に紛れ込むということは有り難い(ありにくい)ことです。秀吉にとっては、有り難い(ありがたい)ことでした。
 天下平定後、秀吉は隆景と会った時、「宗治の子を1万石で養子に迎えたい」と提案。しかし、その子景治は「毛利でいい」と断ったといいます。清水家は、その後も毛利家の家老職を務め、明治には男爵に任じられました。
 リーダーは、命令したり、高給を取ったりするだけではありません。責任に対しての待遇なんです。威張ったり、しこたまお金を儲けたりするだけして、責任を回避するリーダーが、最近は多い。日本をダメにしている、悲しい現象です。清水宗治を見習ってほしいものです。
 柴田勝家の命令を、同僚の佐久間盛政は聞きませんでした。これが、勝家の致命傷となりました。
 他方、秀吉は、先輩・同僚の武将を、手足のように動かしています。リーダー性の差なんでしょうね。
 北ノ荘が攻略される直前、柴田勝家(62歳)は、お市の方(37歳)と3人の娘を、秀吉も元に送り届けようとしました。しかし、お市の方は、「一樹の陰、一河の流れも他生の縁に依る。況や、われ多年の契りをや。冥途黄泉までも誓ひし末、縦ひ女人たりと雖も、意は男子に劣るべからず」と言って、3人の娘たちを逃した後、夫勝家に殉じました。
 勝家と、お市の方夫婦の辞世の歌が残っています。
 「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそう 郭公かな」(お市の方)
 「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲居にあげよ 山郭公」(柴田勝家)
 ご存知のように、浅井長政と、お市の方には3人の娘がいます。年齢は、母が自害した時のものです。 長女は茶々(17歳)といい、成人して秀吉の側室淀君になりました。
 次女は初(15歳)といい、成人して京極高次の室になりました。
 三女は小督(13歳)といい、成人して2代将軍徳川秀忠の室(お江与の方)となりました。
 織田家の血は、お江与の方を通して、3代将軍家光から7代将軍家継まで継承されていきました。
系図の見方(織田信長までの織田家、賎ケ岳の戦い頃の織田家)
生駒の方 織田信忠 三法師(織田秀信)
土田政久娘 ‖━ ━━ 織田信雄
‖━ 織田信長
   ‖ ‖━ ━━ 織田信孝
   ‖ 坂氏
   ‖ 織田信行
   ‖ 織田信包
織田信定 織   田   信   秀
‖━ 織田信広 ‖━ お市
  娘 側室

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