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エピソード

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小田原征伐(北条氏親)と、豊臣豊臣秀吉の天下統一
 1583天正11)年、羽柴秀吉は、賎ケ岳の戦い柴田勝家を破った後、石山本願寺跡に大坂城を築造しました。
 関八州(関東の8カ国の相模・武蔵・常陸・上野・下野・安房・上総・下総を意味する)300万石を支配する北条氏4代目の北条氏政は、嫡子北条氏直(19歳)に5代目の家督を譲りました。
 1584(天正12)年、羽柴秀吉は小牧・長久手の戦いで、徳川家康織田信雄織田信長の次男)と戦い、その後講和しました。
 1585(天正13)年、羽柴秀吉は、子飼いの大名5人を、五奉行に任命しました。
 6月、羽柴秀吉の甥である羽柴秀次は、長宗我部元親を臣従させて、四国平定に成功しました。
 7月、羽柴秀吉は、関白となりました。
 1586(天正14)年、羽柴秀吉は、太政大臣となり、豊臣という姓を与えられ、豊臣秀吉となりました。
 1587(天正15)年、豊臣秀吉は、島津義久を臣従させて、九州を平定しました。
 豊臣秀吉の東征を予想した北条父子は、戦いの準備を始めました。寺の梵鐘を大砲や弾丸に鋳つぶしたり、全ての男子を徴発して、陣地の構築を行いました。
 1588(天正16)年6月、豊臣秀吉は、聚楽第後陽成天皇を迎えました。
 豊臣秀吉は、徳川家康の次女督姫が北条氏直(父は北条氏政)の妻になっていることもあり、島津氏のように、武力によらず臣従させたいと思っていたので、北条父子の上洛を求めました。しかし、北条氏政は、「今日まで5代を累ねて関八州を静謐に治めてきた。それを、豊臣秀吉ずれに、とやこうといわれる筋合いはない」と、豊臣秀吉の命令を無視しました。
 8月、徳川家康は、「上洛を拒否するのであれば、氏直に嫁がせている娘を離縁してもらいたい」と北条氏に申し入れました。北条氏政の代理として上洛した北条氏規韮山城主)は、氏政の上洛を条件に、上州沼田城の割譲を要求しました。豊臣秀吉は、真田昌幸領内の名胡桃城を除いて、これを認めました。しかし、北条氏政は、名胡桃城をも奪ってしまいました。
 11月、激怒した豊臣秀吉は、全国の諸大名に、小田原への出陣を命じました。
 12月8日、北条氏政は、5万3000の兵に、防御を命じました。小田原城は、東に太平洋、西に箱根山、南に早川、北に酒匂川という天然を利用した要害です。「五年三年戦うとも、落城しがた」い構造です。
 12月10日、豊臣秀吉は、22万の兵に、出陣を命じました。
 1589(天正17)年3月1日、豊臣秀吉は、自ら出陣しました。
 3月29日、豊臣秀吉は、東海道の入り口にあたる韮山城(城主北条氏規)を包囲して、動きを封じました。次に、韮山城の東で、芦ノ湖の西にある山中城を攻略しました。
 4月6日、豊臣秀吉は、湯元にある早雲寺(北条氏の菩提寺)を本陣としました。そして、小田原城を海陸から大包囲し、各個撃破する作戦を取りました。 
 6月23日、伊豆の韮山城と武蔵の忍城以外の支城はすべて陥落しました。
 6月24日、北条氏規(韮山城主)は、徳川家康の勧告を受けて、開城しました。
 豊臣秀吉は、黒田孝高を使者とし、武将太田氏房を通じて、北条氏政・北条氏直親子を説得させました。
 7月5日、北条氏直は「自分は切腹する。父の氏政以下将兵は助命する」という条件で、降伏しました。しかし、豊臣秀吉は、北条氏直の降伏を聞き入れず、父北条氏政と叔父北条氏照の切腹を申し渡しました。
 1590(天正18)年6月5日、伊達政宗は、遅延の末やっと参陣しました。はじめ豊臣秀吉は、伊達政宗の謁見を許さず、前田利家ら五人に服属の遅延理由を詰問させました。
 6月9日、豊臣秀吉は、伊達政宗を陣中に引見し、ここに豊臣の全国統一が完了しました。
 1598(慶長3)年、豊臣秀吉が亡くなりました。時に63歳でした。
豊臣豊臣秀吉と千利休、伊達政宗の思い出
 豊臣秀吉は、全国をほぼ平定した余裕か、小田原征伐では、楽しんでいます。まず、側室の淀君を呼び寄せ、諸大名にも妻女を呼ぶことを勧め、さらには幸若太夫などの芸を鑑賞したり、利休らを招いて、陣中茶会を開いたりしています。
 この時、千利休は、自分の弟子の山上宗二を、豊臣秀吉に面会させました。しかし、宗二は、豊臣秀吉の激怒を買い、耳や鼻をそがれて、殺害されました。
 また、千利休は、伊豆の韮山で入手した竹で花筒をつくり、豊臣秀吉に献上しました。しかし、これが気に入らなかった豊臣秀吉は、庭に投げ捨てたので、ヒビが入りました。このエピソードから、豊臣秀吉と利休の間の嫌な予感がします。
 「園城寺花入」として、現在、見ることが出来ます。
 豊臣秀吉の物見遊山的は小田原包囲を見て、北条方の武将は、度々「籠城」か「出撃」かを軍議したといいます。ここから、「小田原評定」という言葉が生まれました。
 私の在職時代、3組の生徒たちが、「先生、5組がいいでしょ?」といいます。私は、「5組もええが、3組もええで」と答えました。すると、生徒は、「その5組と違って、ゴクミです」と言います。ゴクミとは、国民的美少女の後藤久美子のことでした。
 そこで、私は、「ゴクミ」に会うため、NHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」をみました。しかし、その時から、配役が代り、政宗の妻役は、ゴクミから桜田淳子さんになっていました。回想シーンで、ゴクミに会えるかなと、見続けていました。結局、後藤久美子さんには会えませんでしたが、大きな収穫がありました。 
 母は、独眼竜政宗でなく、弟を愛します。戦争でも、イケイケで敗れ、武将からは不満の声が充満します。四面楚歌の政宗が訪ねたのが、青龍山円福禅寺の虎哉宗乙禅師でした。虎哉は、手を「パン」と叩き、「この音は、右手から発したものか、左手から発したものか」と答えました。これは公案ですから、虎哉は臨済宗の坊主ということになります。
 渡辺謙さん扮する政宗は、寝屋で、手を叩いて、一生懸命考えています。それを見た桜田淳子さん扮する妻が、その訳を聞き、「右手からでもなく、左手からでもなく、両手から発しています」と答えました。その瞬間、政宗は「解けた」と感動しました。
 皆さんは、解けましたか?
 政宗は、今までは、片手(イケイケの手)ばかり使い、もう一方の手(休め、ヒケヒケの手)を使っていなかったことに気がつき、これからは両手を使うことにしたのです。「押してダメなら引いてみる」という発想の転換を悟ったのです。それ以降、政宗の行動が大きく変わり、人心を掌握して、大大名になりました。
 あの独裁者豊臣秀吉も、自分の子供の事に関しては大甘で、哀れな老醜を晒しています。
 「秀より(秀頼)事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆとしてたのミ 申し候 なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく八月五日 豊臣秀吉印」とあります。
 「いへやす ちくせん てるもと かけかつ 秀いえ万いる 返々秀より(秀頼)事 たのミ申し候 五人の志ゆたのミ申し候 いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候以上」

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