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エピソード

107_01

文禄の役(壬申の倭乱)
 1586(天正14)年、豊臣秀吉は、イエズス会スバル=コエリュに「全国を制覇した後は、明と朝鮮に出兵するつもりである」と語ったといいます。
 1587(天正15)年、豊臣秀吉は、対馬の宗義智を通して、「日本国関白秀吉、書を朝鮮国王閣下に奉ず。…貴国、先駆して入朝せよ。予の大明に入るの日、士卒を率い、軍陣に臨まば…」という書面を渡しています。当時、殿下でなく、閣下というのは、相手を属国化していることを意味します。
 1590(天正18)年、朝鮮の使者が、来朝しました。しかし、当時、朝鮮は、明の属国だったので、「仮道入明」(明を討つために道を仮=借りる)を拒否しました。
 1591(天正19)年、豊臣秀吉は、「唐入り」(明征討の計画)を発表し、肥前名護屋城の建築を命じました。
 1592(文禄元)年2月、朝鮮渡海の拠点である肥前名護屋城が、完成しました。
 4月12日、第一軍の小西行長・宋義智ら1万8700の兵が、釜山浦に上陸しました。
 4月13日、第一軍は、釜山城を攻略しました。
 4月14日、第一軍は、東莱城を攻略しました。
 4月16日、第一軍は、梁山城を攻略しました。
 4月17日、第二軍の加藤清正鍋島直茂ら2万2800の兵は、釜山浦に上陸しました。第三軍の黒田長政大友義統ら1万1000の兵と、第四軍の島津義弘ら1万4000の兵は、慶尚道金海(釜山の西)に上陸しました。
 4月19日、第二軍は、第一軍の東のルートを通って、彦陽(蔚山の西)を攻略しました。
 4月21日、郭再裕は、抗日義兵を組織しました。
 4月27日、第一軍は、忠州城に入城しました。
 4月28日、第二軍も、忠州城に入城しました。
 5月2日、第一軍は、東大門より漢城(ソウル)に入城しました。
 5月3日、第二軍も、南大門より漢城(ソウル)に入城しました。
 5月7日、李舜臣らの率いる朝鮮水軍は、藤堂高虎らの日本水軍を、慶尚道玉浦合浦で撃破しました。
 5月8日、李舜臣の率いる朝鮮水軍は、赤珍浦で、日本水軍を撃破しました。
 5月29日、第一・第二軍は、開城を攻略しました。
 6月3日、石田三成大谷吉嗣増田長盛は、朝鮮奉行として渡海しました。
 6月5日、第四軍は、江原道淮陽に進撃しました。
 6月7日、李舜臣の率いる朝鮮水軍は、巨済島栗浦で、日本水軍を撃破しました。
 6月15日、第一・第三軍は、平城(ピョンヤン)に入城しました。
 6月19日、明の祖承訓は、兵を率いて、鴨緑江を渡って、朝鮮へ進撃しました。
 7月3日、忠清道両班である趙憲は、公州で、義兵を組織しました。
 7月9日、李舜臣の率いる朝鮮水軍は、九鬼嘉隆加藤嘉明率いる日本水軍を撃破しました。
 第六軍の小早川隆景ら1万5000の兵は、全羅道錦山で、朝鮮軍を壊滅させ、高敬命は、戦死しました。
 7月16日、明の祖承訓は、平城に迫りました。
 7月18日、加藤清正は、朝鮮北部の海汀倉で、韓克誠の朝鮮軍を破りました。
 7月23日、加藤清正は、会寧で、朝鮮国王子臨海君順和君を捕まえました。
 8月7日、石田三成ら朝鮮奉行と、黒田孝高・小西行長・島津義弘・黒田長政・小早川隆景らは、漢城で、軍議を開きました。八道国割を決めました。慶尚道は毛利輝元、江原道は毛利吉成、■鏡道は加藤清正、平安道は小西行長、黄海道は黒田長政、京畿道は宇喜多秀家、忠清道は福島正則、全羅道は小早川隆景と決め、担当地域の民衆の掌握・検地帳の作成を決めました。
 8月13日、加藤清正は、朝鮮最北端の豆満江隠城を攻略しました。
 9月1日、小西行長は、平城の北にある降福山で、明の沈惟敬と会談しました。
 9月2日、李舜臣の率いる朝鮮水軍は、日本軍の根拠地である釜山浦を攻撃しました。日本軍への補給路が断たれました。
 9月15日、義兵の鄭文孚は、朝鮮北部の鏡城を奪回しました。
 10月10日、細川忠興らは、慶尚道の晋州城の攻略に失敗しました。
 10月17日、朝鮮国王は、必死に援軍要請を繰り返しました。やっと、国王は、鴨緑江の義州にある龍湾館で、明の沈惟敬と会談しました。
 11月26日、小西行長は、平城の北にある降福山で、明の沈惟敬と再会談しました。
 12月12日、明の沈惟敬が出した日明講和案は、明・朝鮮の武将が、共に、拒否しました。
 12月25日、明の提督である李如松は、兵を率いて、鴨緑江を渡って、朝鮮へ進撃しました。
 1593(文禄2)年1月7日、明の李如松と朝鮮軍は、平城を攻撃しました。平城守護の小西行長は、脱出して、鳳山城へ敗走しました。
 1月16日、小西行長は、漢城に入城しました。
 1月21日、小早川隆景・黒田長政は、開城を撤退し、漢城に入城しました。
 1月26日、漢城の日本軍は、漢城北の碧蹄館で、明・朝鮮連合軍を破りました。
 2月12日、宇喜多秀家は、幸州山城で、権慄が率いる朝鮮軍に敗れました。
 4月上旬、小西行長・加藤清正は、漢城の龍山で、明の沈惟敬と会談しました。
 4月18日、明は、使節を日本に派遣することを約束しました。
 5月15日、石田三成ら三奉行と小西行長らは、明の使節と共に、肥前名護屋に到着しました。
 6月28日、豊臣秀吉は、石田三成を通じて、明の使節に講和7条件を提示しました。
 1594(文禄3)年1月20日、明の沈惟敬は、「関白降表」を偽作し、遼東に向かいました。
 12月13日、内藤如庵は、明の皇帝に会い、提示された和議条件を承認しました。ここに文禄の役は終了しました。
 1596(慶長元)年、明の皇帝は、伏見城の豊臣秀吉の元に使いを送りました。文面には、「ここに特に汝を封じて日本国王となす」とありました。
義兵(ゲリラ)が蜂起すると、勝ち目はありません
 秀吉が準備したのは、全部で第九軍になります。上記以外では、第五軍の福島正則・蜂須賀家政・長宗我部元親ら2万5000の兵、第七軍の毛利輝元ら3万の兵、第八軍の宇喜多秀家ら1万の兵、第九軍の羽柴秀勝・細川忠興ら1万1500の兵ら、第一〜第九軍まで合計して15万8000の兵を、渡海させました。
 さらに、徳川家康・前田利家・上杉景勝・伊達政宗ら10万余の兵を、肥前名護屋城に待機させました。都合25万余の大軍です。
 大体戦争を仕掛けたほうが、緒戦は、有利なのは当然です。しかし、攻撃を仕掛けられたほうが、反撃を開始した時の対応が、勝敗を決定します。
 李舜臣の率いる朝鮮水軍の亀甲船の活躍で、伸びに伸びた日本軍の補給路をたつことに成功しました。明の援軍が派遣されました。
 最大のポイントは、ゲリラ部隊が組織されるかどうかです。朝鮮では義兵と呼ばれます。実態は、自分の家族や土地を守るために立ち上がった農民です。ゲリラは、正規軍のように、一見して軍隊と分かるような服装をしていません。単なる百姓です。老若男女がゲリラですから、皆殺しをしなければ、自分がやられます。朝鮮では、八道全てに義兵が組織されました。これでは、勝てません。
 講和派の小西行長は、明の沈惟敬と50日間の休戦協定を結ぶました。
 秀吉は、7か条の条件を提示しました。
(1)明の皇女を迎えてわが后妃とする。
(2)勘合貿易を復活する。
(3)日・明両国の朝権をもつ大臣が誓詞をとりかわす。
(4)上の条目を領納すれば、朝鮮を南北に分かち、朝鮮の北部4道と国都を返還する。
(5)朝鮮より王子・大臣一両人を人質とする。
(6)去年生け捕りの朝鮮王子二人は故国に帰す。
(7)朝鮮国王の権臣が累世違却なき誓詞を書く。
 これでは、講和は成立しません。そこで、小西行長は、講和を成功させようと、明の沈惟敬と図って、明廷への国書を、「封貢」の申し出にすりかえて。講和の成立を策しました。
 明王からは、次の3つを条件として、講和を約束しました。
(1)日本兵はことごとく帰国する。
(2)すでに封ずるも貢をあたえず。
(3)朝鮮を侵すことなきを誓う。
 これでは、和平は来ません。平和を求める商人と、戦争を好む武士との姿がよく描写されています。

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