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エピソード

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慶長の役(丁酉の倭乱)
 1596(文禄5)年9月1日、豊臣秀吉は、明使節と謁見しました。豊臣秀吉は、降伏使節が来たと喜びましたが、文面の「ここに特に汝を封じて日本国王となす」という内容を見て、激怒しました。そして、使者を追い返して、朝鮮出兵を決定しました。
 日本の小西行長は処罰を免れましたが、明の沈惟敬は、斬首され、沈惟敬を使って偽装工作を首謀した明兵部尚書の石星は、投獄され、そこで獄死しました。
 9月2日、豊臣秀吉は、再度、14万1490の兵に、朝鮮出撃を伝えました。
 1597(慶長2)年7月15日、藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明らの日本水軍は、巨済島で、元均が指揮する朝鮮水軍を撃破しました。
 8月2日、失脚させられていた李舜臣は、三道水軍統制使に再任されました。
 8月14日、加藤清正は、慶尚道黄石山城を攻略して、全羅道全州に進撃しました。
 8月15日、宇喜多秀家は、全羅道南原城を攻略しました。
 9月8日、黒田長政は、忠清道稷山で、明軍と衝突し、敗走しました。
 9月15日、李舜臣が率いる水軍は、全羅道鳴梁で、日本水軍を撃破しました。早くも日本軍の補給路が断たれました。
 12月、加藤清正は、明・朝鮮連合軍の抵抗・民衆の義兵運動により、蔚山に籠城せざるを得ませんでした。その結果、戦線は朝鮮南部に限られました。
 1598(慶長3)年1月4日、毛利秀元は、蔚山で、明・朝鮮連合軍を背後から襲撃し、撃退しました。
 3月15日、豊臣秀吉は、朝鮮出兵をよそに、醍醐で盛大な花見の宴を行いました。
 8月18日、豊臣秀吉が、亡くなりました。時に62歳でした。
 10月1日、晋州城島津義弘は、泗川新城を包囲する明・朝鮮連合軍を、辛うじて撃退しました。この時、島津義弘は、敵兵の鼻を削ぎ取り、塩漬けにして、肥前名護屋城に送ったといいます。豊臣秀吉に届けられた鼻の数は2万9000を超えました。集められた耳や鼻は、方広寺大仏の西に埋められ、これが「耳塚」として、今も、見ることが出来ます。
 10月8日、徳川家康五大老は、豊臣秀吉の死去と撤退の指示を出しました。
 10月18日、島津義弘軍は、小西行長軍と合流して、帰国する予定でした。しかし、小西行長軍は、順天倭城が明・朝鮮連合軍の西路軍水路軍に包囲されて、脱出出来ませんでした。そこで、島津義弘・立花宗茂らは艦船500隻を率いて、小西行長軍の救出に向かいました。
 そのことを知った李舜臣は、島津義弘軍を迎撃するため光陽湾を出発しました。
 10月18日午前2時、島津義弘軍は、露梁津で、李舜臣ら明・朝鮮連合軍と遭遇しました。この海戦で日本軍は、200隻ほどを失い、明・朝鮮連合軍は、李舜臣を失いました。小西行長軍は、海戦の混乱に乗じて、順天倭城を脱出出来ました。
 11月26日、殿(殿)部隊の島津義弘・小西行長・宗義智松浦鎮信有馬晴信らは、釜山浦から帰国しました。
 この項は、『日本合戦史』『歴史群像』などを参考にしました。
文禄・慶長の役(壬申・丁酉の倭乱)、沙也加は実在の人物か?
 独裁者豊臣秀吉の野望のために行われた朝鮮出兵は、無謀で、無益な結末で、終了しました。
 独裁体制は、いかに、無謀で、無益な事だと分かっていても、独裁者が死ぬか、失脚しない限り、無謀で、無益な事は続けられるという教訓です。
 現在でも、艱難辛苦して、成功を収めて、頂点に立った人は、その過程で、ライバルや苦言・忠告者を排除して、それ故、いつの間にか、独裁者になり、周囲は、それに唯々諾々と従うパターンが、見られます。独裁者の結末は、いつも、あっけないものです。
 独裁者の野望で始まった文禄・慶長の役は、何をもたらしたのでしょうか。
(1)日本では、この戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、豊臣政権の基盤を危うくしました。
(2)勢力を温存した徳川家康は、豊臣秀吉の死後の和平交渉でもリーダーシップを取り、実質的な支配者となりました
(3)朝鮮に渡った西国大名は、農民や儒学者、陶工を連行しました。この結果、日本へ独特の大陸(朝鮮)文化が入り、日本文化に大きな影響を与えました。
(4)戦場となった朝鮮は国土に甚大な被害を受け、宮殿・王陵や多数の文化財が破壊されました。
(5)多くの日本兵が朝鮮側に投降し、日本の鉄砲の製造法や戦術が朝鮮に伝わりました。
 中国でも、この出兵など多大な出費は、万暦帝の財政を悪化させ、明が滅亡する一因にもなりました。
 侵略による利益と、平和時における貿易の利益を考えた場合、侵略は一時的に、一方にのみ、莫大な富をもたらします。その後、長い間、民族の不幸が訪れます。
 しかし、貿易は、莫大な富を産みませんが、長期的に、しかも双方の利益をもたらします。その後、両国の友好により、政治・経済・文化面で交流が行われ、より発展する要素になります。
 この時、日本に強制速行された朝鮮人を順倭といいます。その多くは、農業に従事しましたが、陶芸・印刷・刺繍などの技術を伝えた人もいます。
 彼らの技術は、「お国焼き」を誕生させました。鍋島家の有田焼、島津家のh摩焼、松浦家の平戸焼、黒田家の高取焼などです。
 一方、この時、朝鮮側に投降して、朝鮮に住み着いた日本人を降倭といいます。司馬遼太郎著『街道をゆく』で、沙也加村が紹介され、広く、知られるようになりました。最近、一部の教科書でも取り上げられるようになりました。
 1592年、釜山(プサン)に上陸した日本軍の中に、「このような不義の戦には従えない」と言って朝鮮軍に投降する武将がいました。彼は、加藤清正の武将で、その名を沙也可と言いました。
 1593年、沙也可は、朝鮮政府から、金忠善という名・資憲(正二品)という位まで与えられ、高官の娘と結婚し、慶尚北道の友鹿里(ウロンニ)に定住しました。
 沙也可は、朝鮮軍の兵に鉄砲の使い方を指導しました。また、朝鮮軍の武将として戦い、朝鮮人から三乱の功臣として敬われるようになりました。
 1598年、沙也可は、昔の主君の加藤清正を、無事撤退させたので、加藤清正は、日本にいる沙也加一族の安全を約束したといわれています。
 1600年、沙也可は、友鹿里(ウロンニ)の地(別名沙也可村)に定住し、一族とともに暮らしました。
 今も、大邱(テグ)市郊外の友鹿里(ウロンニ)には、沙也可の墓や沙也可をまつる鹿洞(ノクトン)祠などがあります。
 韓国では、沙也可を取り扱った教科書もあると聞いています。
 戦前、皇国の臣民が、日本を裏切るはずがないと、「沙也可の歴史」は、日本史から抹殺されました。
 また、沙也可を扱った『慕夏堂文集』は、戦前、日本の学者によって、偽書のレッテルを貼られました。
 しかし、名古屋大学の中村栄孝氏は、『李朝実録』『承政院日記』にある「降倭沙也加」「降倭領将金忠善」という史料から、「沙也加は、実在の人物である」と主張しました。
 このように、国によって、解釈が違うことを、私は、「民族の不幸」とよんでいます。民族を超えて、人間として、史料に基づいて、研究を進めたいものです。
 今、日本では、「韓流ブーム」らしい。「冬ソナ」も見たこともないし、紅白歌合戦の視聴率を左右すると騒がれている「ペ・ヨンジュン」さんにも、興味がありません。
 しかし、韓国には、人一倍関心はあります。歴史的に…。
 神戸新聞(2004年12月28日付け記事)によると、「出自を隠し、”日本人スター”として通した民族の英雄・力道山以来、”日本人が韓国人スターに心を開くまで半世紀かかった”」というのがありました。
 2005年は、日韓国交正常化40周年にあたります。この「韓流ブーム」がブームに終わらず、友好の一歩になることを祈念しています。

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