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エピソード

109_01

歌舞伎の成立と発展
 1603(慶長8)年、出雲の阿国は、出雲大社巫女をしていました。阿国は、舞踊にすぐれた才能をもっていたので、出雲大社修理のための勧進に、諸国を巡業して回っていました。
 京都北野神社の境内や五条河原で、阿国は、男装を考案し、刀をさして舞い、「演じ」たので、その斬新さに、見物人は拍手喝さいをおくりました。これがかぶき踊りの初めと言われています。
 1624(寛永元)年、猿若勘三郎は、猿若座を創設しました(のちの中村座です)。
 1629(寛永6)年、幕府は、春を売る「(遊女)女歌舞伎」(今風のオニャンコ系)を禁止しました。
 1652(承応元)年、幕府は、春を売る「若衆歌舞伎」(今風のジャニーズ系)を禁止しました。
 1653(承応2)年、幕府は、若衆の象徴である前髪を落として野郎頭になることや、売色的要素を廃して、物真似狂言尽に徹することを条件に、歌舞伎の再開を許可しました。これが、野郎歌舞伎です。
 1661(寛文元)年、「続き狂言」が考案され、ストーリーのある歌舞伎に発展しました。また、引幕が考案され、時間的な転換や筋の複雑な多幕劇が、演出できるようになりました。
 1667(寛文7)年、初世市村羽左衛門は、市村座を創設しました。
 1673(延宝元)年、初世市川団十郎は、江戸で、坂田金時役で、大勢を相手に、豪快な大立ち回りを演じ、大評判になりました。これが、荒事芸の初めです。
 1698(元禄11)年、上方の芳沢あやめは、『傾城浅間嶽』の「傾城三浦」で、女形(おやま)を演じて、大好評をえました。これが、女形芸の初めです。
 1699(天国12)年、上方の坂田藤十郎は、近松門左衛門のシナリオになる『傾城仏の原』の「梅永文蔵」で、濡れ事を演じて、大喝采を得ました。これが、和事の初めです。
 1701(元禄14)年、赤穂藩主浅野内匠頭長矩は、江戸城松の廊下で、吉良上野介義央に刃傷に及びました。浅野長矩は、切腹させられ、浅野家は、断絶させられました。
 1702(元禄15)年、大石内蔵助ら赤穂浪士は、吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ちました。
 1703(元禄16)年2月4日、大石内蔵助ら赤穂浪士は、お預け大名家で切腹しました。
 2月16日、赤穂事件がモデルの『曙曽我夜討』が、江戸中村座で公演されました。
 2月18日、幕府は、『曙曽我夜討』の上演を禁止しました。
 1705(宝永2)年、近松門左衛門は、人形浄瑠璃竹本座で、シナリオを手がけるようになりました。
 1718(享保3)年、2世市川団十郎は、早口言葉を主とする長ぜりふを考案しました。
 1734(享保19)年、この頃、花道が考案され、観客に密着した新しい演出が出来るようになりました。
 1736(元文元)年、初世宮古路豊後掾は、心中・道行など叶わぬ恋の心情を切々と謡いあげる曲節を歌舞伎に使い、江戸で大好評を博しました。その系統から常磐津節富本節清元節が生まれました。
 1748(寛延元)年、2世竹田出雲らは、大坂竹本座で、人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』を初演しました。
 1758(宝暦8)年、大坂の歌舞伎作者である並木正三は、初めて回り舞台を考案し、テンポの速い演出が出来るようになりました。
 1766(明和3)年、初世中村仲蔵は、『仮名手本忠臣蔵』で、新しい斧定九郎役を考案しました。
 1804(文化元)年、4世鶴屋南北は、『天竺徳兵衛韓噺』で、俗受けする水中早変りなどの演出を考案し、大評判となりました。これを外連(けれん)といいます。また、4世鶴屋南北は、残酷で非道な殺しの場や責め場、官能的な濡れ場などのシナリオを残しました。これを「生世話物」といいます。
 1842(天保13)年、7世市川団十郎は、奢侈禁止令により、江戸十里四方追放となりました。
 また、江戸三座も、浅草へ移転させられました。
 1878(明治11)年、9世市川団十郎は、荒唐無稽な筋書でなく、時代考証に基づいた扮装や演出を考案しました。これを「活歴物」といいます。
 1881(明治14)年、河竹黙阿弥は、明治の開化風俗を取り入れた『島ちどり月白浪』というシナリオを書きました。これを「散切物」といいます。
 1889(明治22)年、歌舞伎座が、東京東銀座に開設されました。9世市川団十郎・5世尾上菊五郎・初世市川左団次らが、出演し、「団・菊・左時代」と言われました。
 1929(昭和3)年、2世市川左団次は、『仮名手本忠臣蔵』などを、ロシアで公演しました。これが、海外公演の初めです。
 1931(昭和6)年、歌舞伎界の門閥制度に反発した2世河原崎長十郎・3世中村翫右衛門らは、松竹歌舞伎を脱退して、前進座を結成しました。
 1951(昭和26)年、11世市川団十郎は、宮廷を扱う『源氏物語』に初挑戦しました。
歌舞伎の閉鎖性と革新性
 出雲の阿国が始めたという「かぶき」は、「歌舞伎」ではなく、「かぶく」という動詞の連用形が名詞になった言葉で、「傾く」と書いてかぶくと読みます。
 「かぶくと」は、どっちかに偏って真っすぐではないさまをいい、そこから転じて、人生を斜に構えたような人、身形や言動の風変わりな人、秩序に納まらない人などを「かぶきもの」と呼びました。ですから、「かぶき」には、もともと、反体制的というか、革新的な要素があり、体制に圧迫されている庶民にはそれが、格好よくも見えたのです。
 反体制的というと、歌舞伎の歴史は、弾圧の歴史でもあります。「女歌舞伎」が弾圧されて、「若衆歌舞伎」が誕生し、「若衆歌舞伎」が弾圧されて、「野郎歌舞伎」が誕生して、現在に至っています。
 また、名優市川団十郎は江戸を追放になり、江戸三座も1箇所に閉じ込められるなど、様々な弾圧を受けています。
 『仮名手本忠臣蔵』の魁となった『曙曽我夜討』は、庶民の絶大な人気を得ましたが、将軍のお膝元を騒がすという理由で、わずか3日目にして、上演を禁止されました。
 革新的なというと、見る側の楽しませる様々な仕掛けやシナリオ・演出が、考案されました。
 男装、女装、続き狂言、引き幕、花道、荒事、女形、和事、長ぜりふ、濡れ場、海外公演など貪欲に取り込んできました。
 最近では、映画女優と競演することで、芸の肥やしにしています。一子相伝という閉鎖性と同時に、競争原理(他部門の役者と競演)を導入しています。
 また、市川猿之助さんのスーパー歌舞伎(梅原猛作『ヤマトタケル』)などに見るように、外連(けれん)を大切にした、演出もあり、未だ革新性は色あせずという感じです。
 歌舞伎に使われる音曲は、様々です。音楽については、私は素人です。間違いがあれば、訂正をお願いします。
 浄瑠璃から一中節と、義太夫節が誕生し、一中節から豊後節(歌舞伎音楽)となりました。義太夫節から竹本節(歌舞伎音楽)となりました。
 常磐津・清元・新内・宮薗節などを総称して、豊後系浄瑠璃というのは、豊後節から分かれたからです。
 宮古路豊後掾の語る豊後節は、江戸庶民の江戸の心をとらえました。
 太宰春台は、それについて、「江戸の男女淫奔すること数を知らず、…貴き官人の中にも、人の女に通じ或は妻を盗まれ、親族の中にて姦通するたぐひ、いくらといふ数を知らず」と書き、幕府も、全面禁止するほどでした。
 つまり、歌舞伎は、人形浄瑠璃のもつストーリー性と、三味線のもつ音楽性(特に義太夫節)を、貪欲に吸収・消化し、現在に至っているのです。
 若い世代が支持してこそ、その文化は維持・発展するという私の持論からすると、誉めてばかりもいられません。歌舞伎の観客層を見ると、若い人が少ないという現象です。家で楽しむTVと違い、劇場に足を運んで鑑賞する演劇そのものの課題でもあります。
 歌舞伎は、民衆に基盤を置き、反体制的、革新的が魅力だったのです。
 今、歌舞伎界では、中村獅童さんが、若者に大ブレイクしているそうだ。中村獅童さんを知らない年配の人も中村(萬屋)錦之介さんといえば、知らない人もいないでしょう。錦之介さんの甥が獅童さんです。  似ても似つかない風貌、逞しさを感じさせる獅童さんは、「歌舞伎界にしても…若い人に見てもらわなければだめ。それが僕らの仕事」と語っています(2005年1月18日付け神戸新聞)。
 多分、獅童さん扮する丹下左膳を見た年配の人は、「これは歌舞伎ではない」というかもしれません。でも、昔から、これが歌舞伎といえるものは無かったのですから、そうムキになることもありません。若い人が支持する文化は発展し、見放した文化は滅びるのですから…。

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