print home

エピソード

110_01

徳川家康の生い立ち(本能寺の変まで)
 1509(永正6)年、岡崎城の西にある刈谷城水野忠政は、お富と結婚しました。
 1526(大永6)年、松平広忠が誕生しました。
 1528(享禄元)年、お富は、於大を出産しました。
 1530(享禄3)年、松平清康(岡崎城主)は、立場の弱い水野忠政に強制して、お富と離縁させ、お富を自分の妻に迎えました。
 1535(天文4)年、松平清康(岡崎城主)が暗殺されました。嫡子松平広忠は、以前から対立関係にあった大叔父桜井松平信定の圧迫により、岡崎城を追放されました。
 1537(天文6)年、松平広忠は、今川義元吉良持広の支援を得て、岡崎城に帰りました。
 1541(天文9)年、立場の弱い岡崎城主・松平広忠(16歳)は、水野忠政に強制されて、於大(14歳)と結婚しました。於大の母は、お富です。この頃、お富は、華陽院と名乗るようになりました。
 1542(天文11)年7月、松平一族に好意的であった水野忠政(於大の父)が亡くなりました。水野家では、水野信元(於大の異母兄)が家督を継ぎました。
 12月、岡崎城主松平広忠の長男竹千代が誕生しました。母は、於大の方です。
 1544(天文13)年、刈谷城主水野信元は、今川義元に背いて、織田信秀に寝返りました。そこで、松平広忠は、妻於大の方を離別し、於大は、刈谷城に帰りました。於大は、気性の荒い兄水野信元が、自分の乗った輿を護送する松平家臣を襲うと予測し、輿を地元の百姓に担がせて、事件を未然に防ぎました。
 1547(天文16)年、松平広忠は、織田信秀(織田信長の父)に安城城を攻め落とされました。松平広忠は、本多平八郎忠豊本多平八郎忠勝の祖父)が身代わりとなったので、救われました。
 松平広忠は、援助を求めて、嫡子松平竹千代(後の徳川家康。6歳)を人質として、駿府の今川義元に差し出すことにしました。しかし、護送の警護をしていた田原城主の戸田康光が、織田方に寝返り、松平竹千代を塩見坂で奪い取り、織田家に送り届けました。
 織田信秀は、松平竹千代を人質にして、岡崎松平家を織田方に付けようとしましたが、松平広忠は、これを拒否しました。織田信秀は、松平竹千代を殺害しようとしましたが、織田信長は、竹千代の助命を嘆願しました。 
 1549(天文18)年、松平広忠付きの警固の家臣岩松八弥は、自分の許嫁であるお春に手をつけた松平広忠(24歳)を殺害しました。重臣たちは、主なき岡崎城の善後策を評定し、松平竹千代に全てを託すことにしました。
 太原雪齋は、小豆坂の戦いで、三河安祥城を攻略し、織田信広(織田信長の兄)と吉良上野介義安東條城主)を捕え、松平竹千代(8歳)との人質交換を要求しました。織田信秀は、尾張笠寺で松平竹千代と織田信広の人質交換を了承しました。
 松平竹千代は、駿府城下で人質として過ごすようになりました。石川数正鳥居元忠ら7人の小姓(5〜11歳)がお供しました。松平竹千代の養育に当たったのは、祖母の華陽院(お富の方)でした。松平竹千代は、情勢によっては、命がない微妙な立場でした。
 1555(天文24)年、松平竹千代(14歳)は、元服して、今川義元の一字を与えられ、松平次郎三郎元信となりました。祖母の華陽院(お富の方)が、亡くなりました。太原雪齋禅師も、松平元信に、「肩の荷は重いほどよい。皆のために、竹千代殿には出来るお人だ」と遺言して、亡くなりました。
 1557(弘治3)年、松平元信(16歳)は、今川義元の養女築山殿(22歳。関口親永の娘。今川義元の姪)を正室に迎えました。
 1559(永禄2)年、松平蔵人佐元康(元信改め)の嫡子松平信康が、駿府で生まれました。母は、正室築山殿です。
 1559(永禄2)年、松平元康(18歳)と義元の姪との間に信康が誕生したのを機に、今川義元は、松平元康に、困難な大高城に食糧を届けることを命令しました。松平元康は、深夜、現地に着くと、軍勢を2手に分けました。石川数政ら400人は、敵中深く入り込み、大高城も丸根砦鷲津砦も通り越して、より奥の寺部砦に攻撃をかけました。驚いた織田方は、丸根砦・鷲津砦から援軍を派遣しました。これを見計らって、松平元康は800人を率いて、小荷駄1200匹を大高城に引き入れることに成功しました。
 1560(永禄3)年、今川義元から先陣を命じられた松平元康(19歳)は、1200人を率いて丸根砦を攻撃しました。守備する佐久間大学盛重が死を覚悟しているのを知った松平元康は、兵を3隊に分けました。大久保忠世らの正兵隊は、弓と銃で使いながら、正面から攻撃しました。時を見て、松平重吉らの奇兵隊は、側面から攻撃しました。最後に、松平元康は、石川数正・本多作左衛門ら旗本隊を突っ込ませました。佐久間盛重は戦死し、丸根砦は陥落しました。今川義元は、その功を誉め、松平元康に対して、大高城に入って休息するよう命じました。
 それまで大高城を守備していた鵜殿長照が、代わって、今川義元の本隊に合流しました。
 大高城に入った松平元康は、織田方の阿久比城を訪ね、16年ぶりに、実母の於大の方と再会しました。 
 織田信長は、桶狭間の戦いで、今川義元を破りました。岡崎城の守護田中次郎右衛門は、駿府に引き上げました。そこで、大高城にいた松平元康は、念願の岡崎城に帰ることができました。時に19歳でした。
 1562(永禄5)年、松平元康(21歳)は、今川氏真と断絶し、織田信長と同盟を結びました。怒った今川氏真は、松平家の人質は、磔の刑にして殺害しました。
 石川数正は、鵜殿長照の妻子を人質に取り、その妻子と交換に、松平元康の妻築山殿と松平元康の嫡子松平信康を岡崎城に連れて帰りました。しかし、築山殿の父関口親永は、切腹させられました。築山殿は、このことで、松平元康を深く怨んだといいます。
 1563(永禄6)年、松平元康(22歳)は、今川義元から与えられた「元」の字を改め、松平家康としました。
 三河一向一揆が蜂起しました。その原因は、佐崎の砦を構築した時、松平家康の家臣が、上宮寺から兵粮米を強制的に徴収したことにあります。松平家康の武将も、一向宗の信者が多くいました。一向宗は、「仏か家康か」「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」と叫んで、戦いを仕掛けてきました。
 1566(永禄9)年、松平家康(25歳)は、家康の武将1人1人に対面し、「一揆を続けて、田畑を焼き払うと、皆飢えてしまう。それを仏は許すはずはない」「帰参する者は許す」と説得しました。
 騒ぎを職業にしている渡り者の法師たちは、どこかへ去って行きました。こうして、三河の一向一揆は、鎮静しました。
 松平家康は、一揆平定の功により、朝廷から徳川姓を賜与され、徳川家康となり、従五位下・三河守に任ぜられました。時に25歳でした。
 1567(永禄10)年、織田信長の娘徳姫(9歳。側室お類の娘)が、徳川家康(26歳)の嫡子徳川信康(9歳。築山殿の息子)のところへ、輿入れしてきました。しかし、築山殿は、今川家の宿敵織田家との縁組には反対でした。
 1568(永禄11)年、徳川家康(27歳)は、今川氏真を駿府から駆逐した武田信玄と同盟を結び、今川領であった遠江の大半を支配しました。
 1570(元亀元)年、徳川家康(29歳)は、岡崎城を嫡子徳川信康に譲り、本拠を岡崎から遠江の曳馬(今の浜松)に移し、浜松城を築城しました。
 徳川家康は、信長の求めに応じて、姉川の戦いに、参戦し、大活躍しました。 
10  1572(元亀3)年、上洛を目指す武田信玄は、三方ケ原の戦いで、徳川家康(31歳)を破り、浜松城に迫りました。
 1574(天正2)年、徳川家康(33歳)の次男於義丸(のち徳川秀康)が、生まれました。
 1575(天正3)年、徳川家康(34歳)は、織田信長と共に、長篠の戦いで、武田勝頼を破りました。
11  1579(天正7)年、徳川家康(38才)の三男長丸(のち徳川秀忠)が、生まれました。
 徳川信康は、医者減敬の娘あやめを側女に迎えました。徳川信康は、減敬と減敬と通じた家老の大賀弥四郎を武田方のスパイと見抜いた徳姫の腰元小侍従を殺害しました。徳姫は、この事実を父の織田信長に報告しました。
 激怒した織田信長は、「徳川家康の妻築山殿と長男徳川信康が武田勝頼と内通している」と、徳川家康に連絡しました。そこで、徳川家康は、同盟関係維持するために、遠江二俣城で、妻築山殿と長男徳川信康の2人の殺害を命じました。
12  1582(天正10)年、徳川家康(41歳)は、織田信長の軍と共に甲斐に侵攻しました。武田勝頼は田野で自殺しまいsた。ここに鎌倉時代から続いた名門の武田氏が滅亡しました。その結果、徳川家康は、駿河を得ました。
 明智光秀は、織田信長本能寺の変で、殺害しました。徳川家康は伊賀を越え、やっとの思いで、浜松城に逃げ帰りました。
 訂正
 このエピソード日本史をご覧になった方が、於大と松平広忠の年齢が間違っていないかというご指摘がありました。確認したところ、私が間違っていました。本文を次の様に訂正し、お詫びいたします。
 1526(大永6)年、松平広忠が誕生しました。
 1528(享禄元)年、於大が誕生しました。
 1541(天文10)年、松平広忠(16歳)は、於大(14歳)と結婚しました。
 なお、1540(天文9)年に結婚したという説もあります。
 この項は、山岡荘八氏の『徳川家康』などを参考にしました。
人質生活13年間の重さ、家康の凄さの秘密
 私が接した生徒にも、一手に不幸を背負ったような男子がいます。そういう生徒には、家康の話をします。殆どの生徒は、「僕の方がましや」と答えます。
 それもそうでしょう。6歳の時から、2年間は尾田家、そして、8歳の時から11年間今川家、都合13年間人質生活に耐えたことになります。親戚の家に預けられたんでもないのです。
 最近このようなことがありました。娘が、2人目を妊娠しました。安定期になるまで、2歳半の孫を、1泊2日のパターンで、約1ヶ月、預かりました。最初は、よかったのですが、慣れてくると、「ママの所に帰りたいなー」とため息をつくのです。親子の情とは、そういうものなんでしょうね。
 家康は、今でいう小学校入学の歳から、大学生の歳まで、人質生活を送りました。場合によっては、自分の命が絶たれることもあるのです。旭日を見ては、「今日も命がありますように…」、夕日を見ては、「今日は命がありました。あしたもお願いします」というような日々だったのではないでしょうか。
 家康の一生を見たとき、人質時代を現実のものと受け止め、それをプラス思考で、自分の人生の糧に取り込む、ダイナミックで、エネルギッシュな姿勢が、感じられます。
 1572年、家康にとって、最大のピンチがやって来ました。将軍義昭に呼応して、武田信玄が上洛の途中、三河を進軍して来たのです。
 10月、信玄は、吉田城も落とし、織田勢との通路を遮断しました。12月、信玄は、浜松城の正面拠点二俣城を攻略しました。家康は、三方ケ原で、信玄の3万の兵を前に、横一列の背水の陣をとり、死に物狂いで突撃しました。しかし、「衆寡敵せず」、大敗した家康は、浜松城に逃げ帰りました。そして、とっさに「かがり火はどんどん燃やせ、門は開け放せ」と命じ、鉄砲隊を率いて、城外に出ました。
 そこへ、信玄の嫡子勝頼が、城門目がけて襲撃しました。かがり火が赤々と燃え、門が開き、背後から鉄砲の音がしたので、勝頼は、不気味に感じて引き上げました。
 この奇策が、家康を救ったのです。とっさの時に、判断することは多いものです。今は、危機管理という表現します。家康は、その第一人者です。
 日頃、家康が語る言葉は、とても重くて、説得力があります。
 信長は「鳴かざれば殺してしまえほととぎす」いうと、
 秀吉は「鳴かざれば鳴かせてみようほととぎす」と答え、
 最後に、家康が「鳴かざれば鳴くまで待とうほととぎす」と、締めくくったといいます。
 それ以外に、
「人の一生は、重荷を背負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず」
「勝つことばかり知りて、負くるを知らざれば、害その身に至る」
「不自由を常と思えば不足なし、心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし」
「人はただ 身のほどを知れ 草の葉の 露も重きは 落つるものかは」
「怒りを、敵と思え」 
「道理に於いて、勝たせたいと思ふ方に勝たすがよし」
「己を責めて、人を責むるな」
「及ばざるは、過ぎたるに勝れり」
「堪忍は、無事長久の基」
系図の見方(水野氏、松平氏、織田氏、今川氏)
 娘 お万
‖━ 水野信元 ‖━ 結城秀康 あやめ
水野忠政 今川義元 築 山 殿
‖━ 於 大 ‖━ 松平信康
お富 ‖━ 竹千代(徳川家康)
‖━ 松平広忠 ‖  織田信長 徳 姫
松平清康 ‖━ 徳川秀忠
お愛

index