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エピソード

110_02

小牧・長久手の戦い〜江戸城入部
 1584(天正12)年2月21日、伊勢長島織田信雄織田信長の次男)は、豊臣秀吉の勢力の拡大に警戒心を抱き、徳川家康に援助を求めました。
 3月6日、徳川家康の援助を知った織田信雄は、豊臣秀吉に内通していると勘違いして、3家老を殺害しました。
 3月11日、豊臣秀吉軍は、近江の坂本城まで、進撃しました。豊臣秀吉は、伊勢長島への出撃準備をしました。
 3月12日、豊臣秀吉軍は、佐久間正勝が守護する峰城を攻略しました。さらに、豊臣秀吉軍は、織田信雄が北伊勢の援軍として派遣していた中川貞成犬山城主)を、戦死させました。
 3月12日夜、豊臣秀吉軍の新参者池田恒興は、鵜飼舟を集めて鵜沼の渡しを越え、犬山城を背後から急襲して占拠しました。これは、岐阜から尾張に入るための重要な城を失ったことになります。
 3月13日、徳川家康は2万の兵を率い、清洲城へ入り、織田信雄と軍議を開きました。徳川家康は、一連の豊臣秀吉の行動から、「北伊勢で戦闘を始め、徳川家康をおびき寄せ、その隙に犬山城、さらには清洲城を攻略する」という豊臣秀吉の作戦を読み取りました。
 3月13日、勢いに乗った池田恒興は、小牧方面に兵を進めました。小牧は、濃尾平野を一望できる要害の地で、清洲城と犬山城の中間にあり、ここを占領した方が有利でした。
 3月15日、これを知った徳川家康・織田信雄連合軍は小牧山に急行し、ここを占拠しました。徳川家康は、「逆賊羽柴筑前を誅罰する」という御旗を立て、豊臣秀吉の神経を逆なでする戦法をとりました。
 3月17日、池田恒興の娘婿である森長可は、犬山城より南に1里、小牧より2里の羽黒を犬山城の前衛にしようと出陣し、この地域に火を放ちました。これを知った徳川家康軍の酒井忠次は、地元の人を味方にして、羽黒の八幡林で、森長可軍を大敗させました。
 3月21日、森長可軍の大敗を知った豊臣秀吉は、7万の兵を率い、大坂城を出発しました。
 3月24日、織田信雄・徳川家康連合軍は、小牧山城に本陣をかまえ、それからだんだん下に向かって五曲輪を構えました。それに、蟹清水、北外山などのつなぎ砦を築きました。兵力では少数ですが、三河とは連絡が取れるので、補給は十分でした。
 同日、犬山城に着いた豊臣秀吉は、徳川家康の陣形を見て、清洲城の北にある小牧山を北東から包囲するように、各武将を布陣させました。そして、豊臣秀吉は、八幡林の東の楽田城に本陣をかまえました。兵力は圧倒していましたが、敵地に深入りしているため、後方との連絡を断たれる心配があり、身動きできない状態でした。
 4月4日、膠着している戦線を打破するために、池田恒興は、豊臣秀吉に、「手薄になっている岡崎を攻めれば、徳川家康は狼狽して岡崎へ帰るであろう」という岡崎侵攻作戦を献策しました。
 4月6日夜半、豊臣秀吉は、3万7000の兵を四軍に分け、第一軍は池田恒興、第二軍は森長可、第三軍は堀秀政、第四軍は三好秀次を隊長として、楽田城から物狂峠を越え、庄内川を渡り、清洲城の東で、犬山城の南にある長久手方面へ向かいました。
 4月7日、この動きは、徳川家康側に通ずる篠木の住民により小牧山の徳川家康の本陣に通報されました。
 4月8日、徳川家康は、直ちに水野忠重に命じて、清洲城と長久手山の間にある小幡城に向かわせました。そして、徳川家康は、小牧山を石川数正本多平八郎ら6500の兵に任せ、自らは1万3000の兵を率い、庄内川を渡り、小幡城に入りました。徳川家康は、「敵は大軍、殿(しんがり)を撃つ」作戦を採用しました。
 そこへ、斥候が、「殿(しんがり)の三好秀次は、猪子石の白林山で宿陣している」と知らせてきました。
 4月9日午前2時、徳川家康軍先遣隊は、白山林で三好秀次軍を大敗させました。
 4月9日午前9時、徳川家康が小牧山を下りて池田恒興軍らを追ったことを知った豊臣秀吉は、3万8000の兵を率いて、徳川家康を追いました。
 4月9日午後1時、徳川家康軍本隊は長久手に進み、池田恒興・森長可両軍を迎え撃ちました。徳川家康軍の井伊直政率いる鉄砲隊に、森長可は眉間を撃たれて戦死し、池田恒興父子も討ち死にしました。
 豊臣秀吉を追って、本多平八郎が出撃しまし、激戦となりました。その間、徳川家康は、小幡城に帰還しました。
 徳川家康は、今、豊臣秀吉に勝利しても、天下に号令をかける実力のないことを知っていました。豊臣秀吉は、徳川家康が決戦を避けていることを知り、あえて戦おうとはしませんでした。こうして、その後も、両軍のにらみあいが、長く続きました。
 11月11日、豊臣秀吉は、石川数正と密かに和睦の道を探りました。桑名で豊臣秀吉と織田信雄が和議を結び、次いで信雄のすすめで徳川家康も豊臣秀吉と和解し、8ヶ月にわたる小牧・長久手の戦いは終わりました。
 和議の内容は(1)豊臣秀吉は織田信雄の娘を養女とすること(2)伊勢・尾張における臨時の築城はともに破棄すること、などでした。
 11月21日、豊臣秀吉の申し出により、徳川家康の次男於義丸を豊臣秀吉の養子としました。於義丸は豊臣秀吉の「秀」の一字を与えられ、秀康と名乗り、結城秀康となりました。この裏取引により、石川数正は豊臣秀吉に内通したという噂が流れました。
 1586(天正14)年、豊臣秀吉の妹旭姫(44歳)は、佐治日向守と離婚し、徳川家康と結婚しました。離婚を嫌がる旭姫を説得するため、佐治日向守は自害したと言われています。
 1590(天正18)年7月10日、豊臣秀吉は、小田原征伐をおこし、北条氏を滅亡させました。
 8月1日、豊臣秀吉は、徳川家康に関東に移封を命じ、徳川家康は、江戸城に入りました。
 1592(文禄元)年、豊臣秀吉は、朝鮮出兵を命令しました。
 1595(文禄4)年、徳川秀忠は、豊臣秀吉の養女であるお江与の方(父は浅井長政)を正室に迎えました。
 この項は、山岡荘八氏の『徳川家康』などを参考にしました。
徳川家康の生き方、考え方を学ぶ
 小牧・長久手の戦いを通じて、私は、徳川家康の考え方を学びました。
 豊臣秀吉は、賎ケ岳の戦いで、柴田勝家側についた織田信長の三男信孝を、尾張内海の大御堂寺で切腹させています。
 小牧・長久手の戦いで、信長の次男信雄を敵にしています。小田原征伐後、信雄は、徳川家の旧領に移封されましたが、信雄は、これを拒否し、先祖代々の尾張・伊勢を主張しました。そこで、豊臣秀吉は、所領を没収し、下野の烏山に流しました。
 信長の孫である三法師は、織田秀信と名を改め、岐阜城13万3000石の領主でしたが、関ヶ原の戦いで、西軍についたので、徳川家康は、高野山に追放しました。
 徳川家康は、信長の妹お市の産んだ三女お江与を、2代将軍秀忠の正妻に迎えました。お江与が産んだ子が、3代将軍家光ということになります。織田家の血統は、吉宗が将軍になるまで、7代続いたことになります。
 新聞によると、最近、TVの『大奥物語』が高視聴率だそうです。高島礼子さん扮するお江与の方の演技が評判ということでした。
 小牧・長久手の戦いは、徳川家康の勝利でしたが、徳川家康は、決戦を急ぎませんでした。これは、結果論ですが、敢えて、「負けて勝つ」という戦法を取りました。
 私には、見えませんが、豊臣秀吉側に、自壊を予測させる「何か」があったのでしょうか。今後の課題です。
 豊臣秀吉が関東移封を命じたとき、徳川家康は、余り抵抗せず、江戸城に入ったということです。
 三河譜代の家臣は、「先祖代々の土地を取り上げ、未開の関東に移るのか」と激怒しました。
 それに対し、徳川家康は、「未開(無)だから、自由な都市計画が出来る」「伊達政宗に備え、関東を整備するためには、豊臣秀吉が予定している朝鮮出兵を拒否できる」と答えたといいます。
 私の20代後半、田中角栄首相の日本列島改造が強烈に推進されました。相生でも駅北の山が数百万円で売りに出されました。相生は駅南が開発され、駅北は「タヌキ」がでるという噂でした。現在、駅北は、南北に道が整備され、相生市で最大の町になっています。
 親戚の新築祝いに、姫路の駅南に行きました。周囲は、畑で、肥タンゴの匂いがするところでした。将来発展するという話でしたが、当時は、駅北が発展していました。今、駅南は、南北に道路が通り、駅北にあった市役所も移転し、計画都市として発展しています。
 私は、徳川家康の生き方(無だから自由)を知っていたのですが、当時は、実行できなかったのです。「知っていても、実行できなければ、知ったことにはならないよ」と、徳川家康さんに笑われそうです。
豊臣秀吉 結城秀康
佐治日向守 養子
旭  姫
お 万
‖━ 於義丸
徳  川  家  康 
 ‖  織田信長 織田信雄
 ‖  お市の方 茶々
 ‖  ‖━
 ‖  浅井長政 小督(お江与)
 ‖  ‖━ 徳川家光
‖━━ 徳  川  秀  忠
お愛

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